『光の剣』_闘争の系譜 Ⅰ_08

パリ講和

 独立は宣言されたものの、大英帝国が認めるはずはありません(アルスターも認めない)。 コリンズは、1919年21月の義勇軍の機関紙、「若い戦士」の中で、パリで開催されている第一次世界大戦の講和会議でアイルランドの独立が承認されなければ、武力に訴えてでも独立を勝ち取るしかないと宣言している。 実際、臨時政府は代表団をパリに送ったものの、事前に予想できたことでしたが、デ・ヴァレラが一方的に期待を寄せていたアメリカ合衆国大統領ウッドロー・ウィルソンがアイルランド共和国の承認を拒否したことで、平和的独立の構想(=妄想)はあっさりと崩壊しました。

それを知るや、イギリスは直ちに弾圧を開始します。IRAも直ちに反撃しました。 国民評議会が設立されたのと同時期である1919年1月21日、非武装の警官二名が射殺される事件(イギリスの警察がモデルのため、「武装警察」以外のアイルランド警察の警官は、火器の携帯を許可されていない)が発生、これを皮切りに独立戦争=英国・アイルランド戦争と呼ばれる=が始まりました。

この戦争、大規模な部隊同士が正面衝突するような戦いはありません。 もともと2000人程度しかいない、武器も不十分なIRAが、6万人の駐留英国軍を相手に正面から戦っても勝てない。 自明の理なのですが、当時はまだゲリラ戦というアイデアはまだ一般的ではなかったのか、それに気がつかなかったからこそイースター蜂起のような悲劇が起こったのだが、コリンズは失敗を繰り返すことなくゲリラ戦に徹した。 従って、イギリスは決して戦争状態とは認めず、「犯罪の多発」として対処していましたが、コリンズのゲリラ戦は、後に毛沢東やチェ・ゲバラも「影響を受けた」と明言するほど、効果的なものだった。

政府要人の暗殺、小部隊への待ち伏せ攻撃、焼き討ちなどのテロ攻撃がアイルランド全土で行われたIRAの作戦行動は、末端に至るまでコリンズに直接管理されており、一般市民を巻き込まないことが徹底されていたが、反対にイギリス軍の報復の矛先は、無関係な市民に向けられた。 その結果、一般市民への報復はアイルランド人の怒りを招き、IRAの更なるテロを誘発。 そしてテロはまた報復を招いてイギリス兵は一般市民を襲う という暴力の無限連鎖がアイルランド独立戦争の実態として顕著化した。

D_L_George

 臨時政府が武力で対決する腹を決めると、コリンズが手がけたのは、英国側の情報網の遮断を直ちに行った。 ゴミ箱の中身やタイプライターのカーボンを回収するという古典的な手法は勿論のこと、コリンズ自らダブリンの警察本部に内通者の手引きで潜入し 英国側の情報網の詳細を調べ上げる。 同時に、郵便局で英国政府の文書をこっそり開封閲覧 税関だは密輸武器のは素通り処理など警察や行政府の中に情報網が築いていった。 アイルランドは貧しくて参議用も貧弱で、多くのアイルランド人には公務員くらいしか道が無かった事が、コリンズにとって幸いしました。
また、「スーツと自転車」は相変わらず彼のトレードマークであり、自らダブリン市内を行ったり来たり、情報収集や指示連絡に動き回りました。 彼は既に指名手配中で、一万ポンドの賞金首だったのですが、「スーツと自転車」では何故か怪しまれなかったという。
コリンズは、英国側の情報網が予想外にアイルランド人社会に浸透していることを知り、英国側の情報網を破壊しなければ、独立運動自体が成り立たないことに気がついた。 アイルランドには親英派も多く、行政府の多くの職員がアイルランド人であることを考えれば当然のことなのだが、コリンズは、スパイとなる裏切り者と、もっと直接に独立運動を取り締まる刑事の抹殺という非情な決断を下した。 マイケル・コリンズが殺し屋に変貌した瞬間でした。

親英派を殺して情報網を遮断すると同時に、親英派アイルランド人に恐怖心を与えるというテロリズムの典型的発想。 その任務のためにコリンズ自身が選んだ義勇軍の腕利きが集められ、「12使徒」として知られる暗殺団が結成されました。 スパイや刑事達は、ある者は自宅で、ある者は白昼堂々と路上で殺されて行った。 親英派アイルランド人の士気は急落。 多くの警官が辞職して警察組織が成り立たなくなったので、アルスターや本土からイギリス人の警官も送り込まれたりしましたが、彼らの運命も、警告の手紙が無い以外はアイルランド人の裏切り者と違いは無く 消えて行った。

このように独立戦争初期のゲリラ戦は、性格として内戦に近いものがあり、アイルランド人の全部が英国からの独立を望んでいたわけではなく、親英派のアイルランド人もかなりたくさんいましたし、独立運動を取り締まるアイルランド警察の刑事や駐留軍の兵士の多くは、そもそもがアイルランド人、手を焼いたイギリス政府は、1920年1月から第一次世界大戦に従軍したベテラン兵士からなる治安部隊、悪名高い「ブラック・アンド・タンズ」を編成してアイルランドに送り込んでいる。 彼らはイギリス人で構成されており、IRAのテロに対しては、ほとんど人種差別的な悪意をもって一般市民に報復し、共和派はもちろんのこと 親英派アイルランド人まで独立運動に傾斜させる結果となる。 コリンズの故郷であり、独立運動の震源と見られていたコーク州も、何度か攻撃され、更に “補助部隊”と呼ばれる暗殺チームも暗躍する。 ここに至って コリンズも危うい目に遭っている。

15人のエリート諜報部員からなる特捜班「カイロ・ギャング」が編成されてダブリンへ派遣され、IRAの捜査に当たりましたが、情報戦でもコリンズの方が上でした。 たいした成果をあげぬまま、「カイロ・ギャング」のメンバーは秘密のはずの本名と住所を探り出されてしまい、1920年11月12日の早朝、それぞれの自宅や宿泊先で、皆殺しの憂き目に遭った“血の日曜日事件”は前節で俯瞰した。

この事件はイギリス軍にとっては大変な衝撃だったようで、報復は素早く、無慈悲なものだった。同じ日の午後、その報復にブラック・アンド・タンズがフットボールの試合中の競技場に乱入、観客に発砲して12人を殺し、60人を負傷させた。 しかしこの暴挙、さすがにイギリス国内からも批難の声が揚がる。 この事件の直後の1920年12月、アメリカを訪問していたデ・ヴァレラの代行として、臨時政府の指揮を執っていた副議長、アーサー・グリフィスが逮捕された。そのため、デ・ヴァレラが帰国するまでの短い間、コリンズは臨時政府首班の任を代行している。

W_Wilson
  1920年12月、臨時政府議長デ・ヴァレラは、アメリカから帰って。 さすがに脱獄囚の身ではアイルランドでも肩身が狭いのか、1918年5月から一年半もの間アメリカを訪問していたのだ。目的だった大統領との会見とアイルランド共和国の承認は果たせませんでしたが、アイルランド系アメリカ人がそれなりの勢力を持っている上に、もともと「自由」「独立」という言葉には弱いお国柄ではあり、多額の資金を調達するとともにアメリカ国内の世論を喚起することに成功。内外の世論の圧力に、イギリスは交渉の道を模索しはじめていた。1921年5月、イギリスの選挙法の下では最後の選挙がアイルランドで行われ、南アイルランドではシン・フェーンが大勝 アルスターでは統一党が勝った。 これをきっかけにイギリスは、臨時政府に対して交渉の意思を示してくる。 この時期、 コリンズはなぜかアルスターで出馬し当選している。

帰国し臨時政府首班たるデ・ヴァレラは、イギリスが折れそうな雰囲気を見せたことに満足したが、ここでとんでもないことをやっている。 彼は臨時政府議長、アイルランド共和国臨時政府首班としてIRAに大規模な攻勢を命じた。 目標はアイルランド総督府のカスタムハウス(税関事務所)の襲撃破壊。 この命令背景には、《コリンズの仮借ないゲリラ戦のおかげでIRAは殺人者としてのイメージが定着してしまい、好意的な世論の一抹の汚点となっていましたから、アイルランド共和国臨時政府が国家の体裁を整えていることを示すためにも、IRAはテロリストではなく正規の軍隊であると証明しなければならず、ここらで一発、臨時政府の命令による「軍隊らしい戦闘」が必要だ》というのがデ・ヴァレラの考えであった。 また、世の戦争では、交渉を前にすると優位に立つために攻勢に出ることから、デ・ヴァレラもその例に漏れない果敢に実践したのであろうが・・・・・・

しかし、この背景にはもっと複雑な事情も介在していた。 前述の国防大臣、カサル・ブルッハーとの対立以外にも、まだ20代のコリンズと年長の他の閣僚との間には摩擦があった。 アーサー・グリフィスを含めて閣僚の全ては憲政主義者であり、必要性は認識しながらも、過激な武力行使にはいい顔しなかった。 しかし、ゲリラ戦の成功により、必然、独立運動全体におけるコリンズの影響力は増大しており、おいそれとコリンズに手を出すことは出来ない状況で ≪生意気な若造だ、どうしてくれよう、でもコワイ・・・・・・≫と斜に構えでいた。

また、決断が早いコリンズは、デ・ヴァレラについて「卵を抱いた雌鳥のように、いちいち考え込む」と不満を漏らしてる。 しかし、それでもコリンズは、失望していたとしても、デ・ヴァレラをまだ尊敬していましたし、アイルランドに残ったデ・ヴァレラの家族とも親しくし なにかと支援の手を差し伸べっていた。

アイルランドの自由が最優先あったコリンズは、デ・ヴァレラやその他閣僚に妥協し 同調する意思はなく静観している。 ただ、デ・ヴァレラのアメリカでの行動、集めた資金の半分をアメリカにおいて来た事、若い女性を秘書として連れまわし、家族と別居したことなどが批難の対象となり、デ・ヴァレラの人気の低下とともに、コリンズの人気が増していました。この結果、デ・ヴァレラは、自分の地位を脅かす存在として、はっきりとコリンズを警戒するようになりました。カスタムハウス攻撃は、こうした不協和音の中で、コリンズの力を削ぐ為に強行されたとも考えられます。

コリンズは勿論、反対した。 数では圧倒的に劣る IRA=相変わらず数千人規模 対するイギリス軍は10万人にまで増強=加えてアルスターには親英派民兵もいる)が、強大なイギリス軍に打撃を与えるにはゲリラ戦しかないのは勿論、作戦行動の隅々まで管理していたコリンズは、軍事的な抵抗が限界に近づいていることも理解していた。 コリンズは言わば「平和主義の殺し屋」であり、仮借ない戦い振りとは裏腹に、本質的には平和を求める心が強く、引き時も心得ていた。 しかし、デ・ヴァレラの命令に逆らうことは出来ず、カスタムハウス攻撃は決行される。

エイモン・デ・ヴァレラという人物、イースター蜂起の時といいこの時といい、好戦的な割には戦闘を甘く見る傾向があった。 カスタムハウス攻撃はイースター蜂起以上の大失敗に帰す。 集結していたIRAはまとめて叩かれ、死傷、逮捕などで120名の損害を被り、幹部達も続々と逮捕され 殺害されて行く。 独立運動自体が大変な危機に直面し、コリンズの流血の二年間は水泡に帰すかと思われたが、翌年の1921年6月29日、イギリスは臨時政府に休戦を申し入れた。 軍事的な情勢を把握していなかったデ・ヴァレラが、交渉で強気に出た為、イギリスの方から先に休戦を申し入れて来た。

E_de_Valera

===== 続く =====

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