『光の剣』_闘争の系譜 Ⅰ_09 

内戦

 ・・・・・・アイルランドの・独立運動自体が大変な危機に直面し、コリンズの流血の二年間は水泡に帰すかと思われたが、翌年の1921年6月29日、イギリスは臨時政府に休戦を申し入れた。 軍事的な情勢を把握していなかったデ・ヴァレラが、交渉で強気に出た為、イギリスの方から先に休戦を申し入れて来た。

休戦を受諾した共和国臨時政府は、いよいよイギリスとの和平交渉に入るが、最初 デ・ヴァレラはこの交渉に自ら当たることにしており、代表団にはコリンズの名は入っていなかった。 殺し屋として悪名高いコリンズが、英国で危害を加えられることを あるいは、イギリスで誰かをぶっ殺すことを 恐れたためです。 しかし、10月になると、デ・ヴァレラはコリンズを代表団の実質的なリーダーに指名してイギリス訪問を命じている。 コリンズはこういう交渉事は専門外である、と渋ったが、デ・ヴァレラの命令には逆らえず 腰をあげている。

ここで話を1920年に戻します。 この年、反故にされていたアイルランド自治法が議会を通過、アイルランドは独自の議会をもつ権利が認められたのだが、臨時政府は今さらこれを受け入れるはずは無く、臨時政府とIRAは戦い続けていた。 そのために、自治法は皮肉にも、あれほど反対していたアルスター=北部アイルランド、イギリス領=に限って施行されることになった。 アルスターの統一派や王党派を満足させ、かつアルスターの反英的勢力を宥めるにはこれしかなかった訳ですが、現在も続くアイルランドの分断はここで決定的となってしまった。 しかし、臨時政府とイギリスとの和平にはアルスターが最大の障害となったはずであり、この自治法施行でアルスターの英国帰属とアルスターの意思が南部の意思に干渉されないことがはっきりしたために、和平交渉がうまく行った側面もあるように思えるのですが・・・・・・。

デ・ヴァレラは、イギリスが アルスターの英国帰属や南アイルランドの共和国としての完全独立は認めないという点では譲りそうに無いことを知っていた。 彼とて和平の重要性は理解していましたが、アルスターとの統一と完全独立は共和派の一貫した主張だった。 従って、それが認められない条約の調印者になりたくもなく、カスタムハウスの件以来、仲が悪くなっていたコリンズにババを押し付けたのだと言われている。

もっともこれは、悪意ある解釈なのではないだろうか? コリンズはデ・ヴァレラと違って、交渉者としての手の内は知られていないし、「殺し屋」としてイギリス側には一目置かれていましたから、その辺に期待したのかも知れないが・・・・・・・

行政区画  コリンズはしぶしぶながら イギリスへと旅立つ。 英国ウケを狙ったのか、この時だけは何故か口髭を生やしていた。 英国側の和平案は、南アイルランドにおける「アイルランド自由国」の設立=カナダやオーストラリアのように名目的にイギリス王室に忠誠を誓うが、ほぼ独立国である=。 アルスターの地位はアルスター議会=英国帰属=が決定する灰色に近いというもので、臨時政府のこれまでの主張ではとても受け入れがたいものだった。 しかし、コリンズの交渉相手は、ロイド・ジョージ、バーケンヘッド卿、ウインストン・チャーチルなど歴史に名を残すそうそうたるメンバー、まだ30歳になるかならないかの彼にはとても太刀打ち出来る相手ではなかった。 その上、アルスターと完全独立に関しては最初から譲歩の意思は無く、ロイド・ジョージに至っては和平案を拒否すれば戦争だと露骨に脅しをかけていた。

 1921年12月、コリンズは条約に調印して、アイルランドに帰国している。 この行動に関しては、「アイルランドの分断を固定化させた」と現在も批難の的。 そして、北アイルランド紛争は今なお続いており ジェリー・アダムス氏(シン・フェーンの現党首。彼は何かとコリンズになぞらえられる)も、はっきりと「私ならこの種の条約にはサインしない」とコリンズを批難しています。しかし、1920年の自治法施行の時点でアルスターの分断は決定的で、コリンズを責めるのはお門違いです。それに、他にどういう手段があったでしょうか? 条約を拒否すればまた戦争になるかも知れない。しかし、軍事的反抗はもう限界。ここは平和を得ることが先決であり、統一も、共和国としての完全独立も自由国を通じて達成できるはず。コリンズの考えは決して間違いではありません。

監獄船

 ところで英国訪問中、不思議なことに「殺し屋」で「反逆者」であるはずのコリンズは社交界から大歓迎され、ここで年上の貴夫人ヘイゼル・ラベリー(このラベリー夫人、何の功績でか後にアイルランド共和国の紙幣に載ります)との不倫騒動が起こしている。 夫人がコリンズに熱を上げていたのは事実のようですが、コリンズのほうは既にキティ・キアナンと付き合っており、この「不倫」はイギリスが流したデマのようだが・・・・・・また、この時、「アラビアのロレンス」ことT.E..ロレンスとも会見してる。 ロレンスはアイルランド人であり、この時、アラブの分割(詳しくは 先稿【トーマス・エドワード・ロレンス~ オートバイで散る“異郷の王となった男”】の項ご参照のこと)に苦悩していた。 そこでコリンズは、IRAにゲリラ戦の訓練をしてくれとロレンス要請しているが、チャーチルの妨害=ロレンスが希望していた空軍への入隊を突然に認め、隔絶する。 ただし、ロレンスが実際に空軍入りしたのはずっと後のことである=で、残念ながらこの話は流れてしまった。

ー・-・-・-・-・-・-
=トーマス・エドワード・ロレンスの両親は正式な結婚ができなかったため、ロレンス姓で生活し、彼らの子供たちもこれに倣った。 実父はトーマス・ロバート・タイ・チャップマン(準男爵)。
1907年、オックスフォード大学ジーザス・カレッジに入学。 1907年と1908年の夏には長期に渡ってフランスを自転車で旅し、中世の城を見て回った。 1909年の夏にはレバノンを訪れ、1600キロもの距離を徒歩で移動しながら、十字軍の遺跡調査をしている。 1910年の卒業時には、これらの調査結果を踏まえた論文を著し、最優秀の評価を得た。1911年には、恩師のデイヴィッド・ホガース博士による大英博物館の調査隊に参加し、カルケミシュで考古学の仕事に従事した。 短期の帰国をはさんで再び中東に戻り、考古学者のレオナード・ウーリーと共にカルケミシュでの調査を続ける。 同地にて 二人は英国陸軍の依頼を受け、戦略的価値が高いとされていたネゲヴ砂漠を調査し、軍用の地図を作成している。

1914年7月、第一次世界大戦が勃発し、イギリスも連合国の一員として参戦することになり ロレンスは10月に、イギリス陸軍省作戦部地図課に勤務することになる。 臨時陸軍中尉に任官された後、同年12月にはカイロの陸軍情報部に転属となり、語学力を活かし連絡係を務めるようになった。 1916年10月には、新設された外務省管轄下のアラブ局に転属され、同年3月には大尉に昇進。 情報将校として ハーシム家当主フサイン・イブン・アリーの三男ファイサル・イブン・フサインと接触する。 以降、オスマン帝国に対するアラブ人の反乱《アラブ反乱》を支援する。 映画『アラビアのロレンス』の主人公のモデルとして知られる=

ロレンス

===== 続く =====

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