『光の剣』_闘争の系譜 Ⅰ_11 

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暫定政府の成立とコリンズの死
1919年のドイル・エアランによって制定されたドイル憲法によって、デ・ヴァレラは大統領職を退き、再選にうってでた。 が、同じく出馬したアーサー・グリフィスに得票数で敗れ、大統領の座を譲ることになった。 グリフィスは共和国大統領と名乗ったデ・ヴァレラと異なり、自らをドイル・エアランの大統領であるとした。 しかしこの政体 (Aireacht) は大英帝国の法体系の中では合法的なものではなかった。 名目的なものであれ、合法的な議会は依然として南アイルランド庶民院であった。

マイケル・コリンズは首相に任命され、アイルランド暫定政府の組閣が行われた。 コリンズは暫定政府の首相であり、同時にグリフィスの共和政府の財務相でもあった。 コリンズの首相就任にいたる道のりもややこしいものであった。 大英帝国の法律によって、コリンズは英国国王の認可を受けた地位についたことになる。 そのため、就任において英国のアイルランド総督フィッツァラン子爵に面会して任命を受ける必要が出てきた。 共和主義者の立場からは、コリンズと総督の面会は、コリンズが勝利者としてフィッツァランに会い、英国のアイルランド統治の象徴ダブリン城を受け取るという意味合いのものであったが、英国側から見れば、コリンズが一段低い立場から総督から任命を受けることにほかならなかった。

このような意味づけに違いはあったものの、実際にコリンズは総督と対面し、任命を受けた。 逸話として伝えられるところによれば、コリンズは約束の時間に7分遅れて現れたため、総督はこれを責めた。 コリンズは「7分くらい待ってもいいじゃないですか。私たちアイルランド人は700年待ちましたよ」と言ったという。

条約反対派はドイルによって認められたこの条約を認めず、英国との交渉を拒否。 デ・ヴァレラの元に結集して「共和国政府」を名乗り、賛成派との間の内戦に突入した。 これがアイルランド内戦である。 1922年の中ごろまでに、コリンズは暫定政府の首相とアイルランド国軍(IRA の中の条約賛成派を中心に組織された正規の軍事組織)の司令官を兼任した。 同じ頃、コリンズとキティ・キアナンは婚約している。

8月12日、アーサー・グリフィスが急死したため、自由国政府首相の全権は、一時コリンズに委任されました。 その心労のため、8月20日、ひどいカゼと深刻な腹痛に悩まさたコリンズは、療養がてらに故郷、コーク州に帰る事にした。 しかしこの時、反乱の首謀者エイモン・デ・ヴァレラはまだ捕まっておらず、あろうことかコーク州に逃げ込んでいた。 コリンズとしてはかつての親しい関係を思い出したのか、デ・ヴァレラら共和派を説得するためにも、周囲の反対を押し切ってコーク州訪問を強行する。

1922年8月22日、その道中ベール・ナ・ブラフ (Béal na mBláth) で待ち伏せを受け、銃撃にさらされた。 コリンズはそのまま逃げることも出来たが、あえて踏みとどまって応戦することを命じた。 オープンカーに乗っていたコリンズは頭部に被弾、流れ弾にあたって命を落とした。 まだ31歳の若さであった。

=「暗殺」としている資料もあるが、実際のところ、「戦死」か「暗殺」かはっきりしていない。また「暗殺」だとすれば、デ・ヴァレラの関与(彼は事件現場から数百メートルのところに潜伏していた)がどの程度のものだったのかも不明。 ダブリンで行われた葬儀には50万人が参列(当時、アルスターを除いたアイルランドの人口は300万人ほど)。 いかに敬愛されていたかを示している=

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私生活とコリンズの記憶
コリンズの私生活は、生前も死後もゴシップに彩られたものとなった。 コリンズにはキティー・キールナンというフィアンセがいたにもかかわらず、アイルランドの画家ジョン・ラヴェリー卿の夫人ヘーゼルやロンドンデリー公夫人エディスと関係を続けていたと噂されていた。 2人とも、コリンズは魅力的な男性であったと書き残しているが、愛人関係にあったことはきっぱりと否定していた。

が、世の人々はコリンズとエディスが関係を続けていることは間違いないと噂していた。 内戦中、コリンズは愛人たちの勧めによって条約の内容を変えているという中傷を受けることもあった。しかし、英愛条約の最新の研究書であるドロシー・マカードルの『アイルランド共和国』とフランク・パケンハムの『試練を受ける和平』の両書ともこのような憶測を否定している。

生前のコリンズには同性愛的な傾向があるという噂も流れていた。 コリンズは親しみのあらわれとして男性に対してしきりに体に触れるくせがあったからである。 彼はよく周りの人たちと遊びのレスリングに興じていた。 コリンズのこのような性癖については、単なる遊びであったというものから、本当に同性愛的傾向があったとするものまでさまざまな説がある。

さて、コリンズはアイルランドの歴史における「偉大な人物」の一人として語り伝えられる。 アイルランドの自由獲得という困難な目標の達成を賢明かつ大胆に推し進めたコリンズの死は、生まれたばかりのアイルランド共和国の大きなダメージとなった。 内戦中、コリンズは自らへの敵対をあらわにしていた北アイルランドの IRA に対しても支持と援助をやめなかった。

コリンズの死後、条約賛成派によって北アイルランドの IRA への援助は即座に打ち切られた。コリンズの死のわずか10日前に、もう一人の独立運動の英雄アーサー・グリフィス大統領も過労で世を去っている。 コリンズの最後の公務はグリフィスの葬儀への参列であった。 コリンズは盟友グリフィスと共にダブリンのグラスネヴィン・セメタリーに葬られた英雄の一名である。

同僚たちは、コリンズが自らの運命を予見していたかのような発言をしていたことを思い出して悲痛な思いにかられた。 条約締結時、英国政府代表のバーケンヘッド卿は、このような条約にサインすることで、アイルランドを失った責任者として自分は英国民から非難されるであろうといい、この証書はまさに自らの政治生命に対する死刑宣告証になると嘆いた。 コリンズはそれを聞いて、自分にとっては本当の死刑宣告になるだろうと次の様に言ったという。

あなたがこの交渉で苦労したことで、悪夢に悩み、ロンドンの暗い夜の中で絶望的な気分になったときは思い出してほしい。 いったいこの私はアイルランドのために何を手にいれたのか、それこそが700年近くアイルランドが望み続けたものではないのか? しかし 誰もこの交渉の結果に満足してくれるものはないだろう。 今朝私がサインしたこの書類はまさに私にとって死刑宣告書だ。 私はかつて銃弾を駆使して戦ったが、その同じ銃弾に打ち抜かれることになるだろう。

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コリンズと共にアイルランドの自由のために戦った同志たち、エイモン・デ・ヴァレラ、W・T・コスグレイヴ、リチャード・マルケイ、エオイン・オ・デュフィらは長命したがゆえに、困難をきわめた国づくりにおける失敗や醜い面の印象を人々に残すことになった。 コリンズは若くして死んだために、平和時特有の複雑な問題を抱え込むことなく世を去り、人々の心に若い面影だけを残した。

デ・ヴァレラについて人々の印象に残っているのは、年老いて目も見えなくなった1960年代から70年代にかけての姿であり、コスグレーブは世界恐慌のあとで国家財政の崩壊を食い止められなかった無能な財務家、マルケイは内戦時に反対派を次々と処刑した冷酷な政治家、オ・デュフィはファシズムにかぶれた警官あがりの政治家といった印象しか残していないことを考えれば、早くに世を去ったコリンズが、若々しく力強い指導者、アイルランドに自由をもたらし、人々に勇気を与えた英雄としての良い思い出だけを残したことは幸いだったのかもしれない。アイルランドの苦しみは独立後も長く続くことになる。

自由国と共和国(1922年 – 現在)
アイルランドを分断することになった条約が批准されると、アイルランド国内のナショナリストたちは条約賛成派と条約反対派に二分された。 1922年から1923年にかけて両者の間にはアイルランド内戦が発生し多くの犠牲者を出した。 この民族主義者間の分断は現在のアイルランドの政治にも影響を与えており、保守派はフィアナ・フォイル(共和党)とフィナ・ゲール(統一アイルランド党)に分裂している。

しかし経済恐慌によりヨーロッパの多くの国で政治的な混乱が発生した際にもアイルランド自由国では民主主義が揺らぐことはなかった。内戦で多くの同胞を失ったエイモン・デ・ヴァレラの率いるフィオナ・フォイルは1932年の総選挙に勝利し政権を握った。このころのアイルランドは国家破産は免れたものの失業率と移民数は高い水準を維持していた。 一方カトリック教会は政府、社会に対し影響力を保持し続けた。

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1937年にはアイルランド憲法が公布され、国名をエールへ変更した。 アイルランドは第二次世界大戦の間アメリカ合衆国の度重なる勧誘にも関わらず中立を維持したが、数万人の義勇兵が英軍に参加している。大戦が延びるにつれ食料と燃料の配給は日々悪化した。最近の研究によるとアイルランドの連合国への関与は従来思われていたよりも大きいことがわかってきた。D-デイの決行を決定付けた天候情報はアイルランドから提供されたと判明している。 1949年には共和制国家アイルランドの成立が宣言され、イギリス連邦から離脱した。

1960年代にはアイルランドはショーン・リーマス首相とT.K. Whitakerの下で経済体制の転換を図った。 1968年には教育相ブライアン・レニハンにより高等教育が無料化された。 1960年代初期から政府は欧州経済共同体への参加を希望したが、イギリス経済への過度の依存を懸念され、アイルランドが加盟を果たしたのはイギリスの加盟が実現した1973年のことであった。

1970年代の不況はジャック・リンチ首相の経済政策のミスによるものと見られている。しかしその後の経済建て直しとアメリカ、ヨーロッパ各国からの投資の増大により1990年代のアイルランド経済は世界でも有数の成長を記録した。 アイルランドの経済成長はケルトの虎と称されるようになり、2000年代に欧州連合への加盟を果たした旧東側諸国の経済成長モデルとして注目された。

従来カトリック教会の影響により保守的傾向が強かったアイルランド社会だが、リベラルな傾向も見られるようになっている。 離婚が合法化され、ホモセクシャルが犯罪ではなくなった。 最高裁の判決により限定的な状況における避妊も認められた。 カトリック教会内部で発生した性的、経済的なスキャンダルにより宗教的権威が低下しており、毎週末のミサへの参加者は半数に減少した。

Ireland_in_UK

===== 続く =====

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