『光の剣』_闘争の系譜 Ⅱ_04

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 1916年4月24日、復活祭明けの月曜日にイースター蜂起が決行された。 しかし、第一次世界大戦のドサクサの中でのイースター蜂起は、当のアイルランド人から大顰蹙を買ってしう。 結局、蜂起の指導者ピアースが土曜日の昼には降伏し、反乱軍兵士達はダブリン市民の罵声を浴びながら連行され、共和国の夢はわずか六日で消滅しました。 エイモン・デ・ヴァレラは、蜂起の首謀者の一人、トーマス・マクドノーの副官を務めており、計画段階の関与はともかくとして、義勇軍の幹部であったため、一部隊の長としてイースター蜂起に参加していた。

デ・ヴァレラは、ダブリン市南部で奮闘した。 ダブリンのグランド・キャナル通りにあったボーランド・ミルズを占拠し、市内の南東区域の制圧を狙った。 計画がずさんなものであったため蜂起はすぐに鎮圧され、記述したように1週間後に蜂起の指導者パトリック・ピアースから降伏命令が出た。 彼の率いるグループは最後の方まで頑張っていましたが、他の指導者と共に捕らえられ、結局は降伏する。 降伏した時、デ・ヴァレラは「もし俺を撃ち殺すのなら、俺の部下にやらせろ!”shoot me if you will, but arrange for my men”」と言ったそうだ。

蜂起は終局した。 ピアーズ、コノリーら蜂起の首謀者15名は、即決の軍法会議で銃殺刑に処された。 ケースメント卿も、ドイツと通じたスパイということで反逆罪で絞首刑 =一般に、銃殺は名誉ある死で、絞首刑は不名誉と考えられている= に処せられた。 勿論、デ・ヴァレラも裁判で銃殺刑の死刑を宣告されたが、彼のアメリカ国籍が命を救う。 減刑の理由はアメリカ国籍を持っていたためと説明されることが一般的であるが、死刑に処されなかった理由は他にも以下の2つがあると考えられる。
第1は彼が他の指導者たちと別の刑務所に入れられていたことであり、第2にアメリカ合衆国市民権を持っていたことである。 これは死刑の中止と関係があるかどうかは明らかではないが、刑の執行を遅らせたことでは間違いない。 当時 英国政府は第一次大戦におけるアメリカの協力を必要としていたことから、デ・ヴァレラの処刑に慎重になっていたのだろう。

デ・ヴァレラはダートムア、メイドストーン、ルイスなどといった刑務所に収監された。 服役中の彼は、有名なマキャベリの「君主論」を愛読した。 教科書以外にまともな読書はしたことがない彼なのだがが、この「君主論」は唯一無二の愛読書となったと自啓している。 蜂起の指導から収監までの経緯はともあれ、イースター蜂起はデ・ヴァレラという人物の内面を露呈することになった。 たとえばリーダーシップが発揮できる一面で、行動における計画性のなさが明らかになった。 絶体絶命の状況の中で、老後に見られた神経衰弱症状の予兆を見せているが、側近たちはこのことを長く秘密にしていた。 彼の後半生でアイルランド共和国の父と呼ばれるか裏切り者と誹られるかの二面性が このイースター蜂起以降、露呈して行く。

02

 1917年にデ・ヴァレラと仲間たちは特赦で釈放された。 イースター蜂起の首謀者の処刑への反発と、徴兵制への抵抗というアイルランド人の国民感情にうまく乗ったシン・フェイン党は、1918年の総選挙で圧勝し、47%の得票率で104議席のうち73議席をとった。 デ・ヴァレラは1918年の選挙で連合王国議会庶民院の東クレア代表に選出され、さらにシン・フェイン党内の選挙で党代表に選ばれている。 シン・フェイン党はもともと武力闘争路線をとらない穏健な小組織だったが、英国政府によってイースター蜂起の首謀団体と目されていた。 共和主義者たちはこの誤った見方を逆に利用し、シン・フェイン党のもとにアイルランド人の民心を結集しようと考え、徐々に党内に人を送り込んで党の実権を握っていった。

シン・フェイン党の前党首アーサー・グリフィスは、イギリスとアイルランドが英国王を君主として戴きながらそれぞれの議会を持つという、穏健な「二重君主制」の実施を唱えていた。 それは1782年にヘンリー・グラタン議員の働きによって獲得された改正憲法が公布されてから、1800年に連合王国に統合されるまでのアイルランド王国の政体と同じものであった。

1919年、シン・フェイン党の議員たちは自らを「テアクタイ・ダラ」と名乗り、1919年1月21日にダブリンのマンション・ハウスに集って「ドイル・エアラン」という名で知られる「アイルランド国民議会」を結成した。 いわゆる「内閣」 (Aireacht) は「プリオム・エール」(ドイル・エアラン議長、前節参照)によって率いられ、初代議長にはカハル・ブルハが任命された。 デ・ヴァレラは1918年5月に再逮捕されリンカーン刑務所に収監されており、イル・エアランの1月の議会に参加することができなかった。 しかし デ・ヴァレラは1919年4月、マイケル・コリンズ (前章参照)の手引きによってリンカーン刑務所を脱獄することに成功した。 リンカーン刑務所脱獄後の4月の議会でブルハに代わって議長に選出された。

=1919年にドイル・エアランによって採択されたドイル憲法では「プリオム・エール」はあくまでドイル・エアランの議長であってアイルランドの国家代表ではないとされていた=

03

 イースター蜂起の首謀者の処刑には、大きな禍根になると反対する意見は多くあった。 しかし、英国でロイド・ジョージの連立内閣が国民党および統一党と打開策を協議している間に、蜂起のリーダー達は全員処刑されていたのだ。 そして案の定、イギリスのこの苛烈な処置によって、アイルランド人の間には蜂起の首謀者に対する同情論が起こる。 蜂起そのものには冷淡だったシン・フェーンも、死刑が執行された者を殉教として、生き残っている者 つまり デ・ヴァレラをヒーローとして宣伝していた。 実際、降伏したのが最後だったことが、デ・ヴァレラの大きなカリスマの素となっていたようです。 しかし、反乱軍が当のアイルランド人多数を巻き添えにしたこと、国を挙げての戦争の中で敵国ドイツと通じての反乱、武装したまま逮捕された事実が明白であったことなど、特に不当でも苛烈でもないと言う世論がイギリス内の多数を占めていた。

1917年6月、アイルランド人の反英感情の高まりの中でデ・ヴァレラは釈放された。 14ヶ月の獄中生活の間、彼は頻繁に外部と手紙をやりとりしており、シン・フェーンの宣伝活動もあって、イースター蜂起の生き残りということで民族運動全体におけるリーダーシップを確立していた。

そして同年10月のシン・フェーン党大会において、デ・ヴァレラは党首に選出された上に、アイルランド義勇軍の司令官にも任命される。 これは、イースター蜂起の生き残りの中で最年長者だったためだが、イースター蜂起以前に知り合っていた、マイケル・コリンズの強い推薦もあったと言われている。 また、イースター蜂起に冷淡だったアーサー・グリフィスが党首の座についていることへの批難も背景にあったようだが・・・・・

04

===== 続く =====

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