『光の剣』_闘争の系譜 Ⅱ_05

01-28-01

国民評議会と独立戦争
1918年初頭、ロイド・ジョージの連立内閣は、アイルランドに対する徴兵法施行を決定したが、 自治法は相変わらず棚上げだった。 そして20万人のアイルランド人が出征している中での徴兵法は猛反発を招く。 そんな状況の中で、デ・ヴァレラが率いるシン・フェーンは、イースター蜂起の共和国独立宣言の継承を訴えてイギリスに新たな戦いを挑んで行く。 しかし、5月にデ・ヴァレラは、またも扇動罪で逮捕され イギリス本土のリンカーン刑務所に収監されてしまった。  他にマイケル・コリンズなどの大物も含めた多くの党員が煽動罪で逮捕されているが、シン・フェーンはひるむことなく12月の選挙に打って出た。 ただし この時、シン・フェーンの候補者の半分以上は扇動罪で刑務所に入っており、デ・ヴァレラも獄中から選挙運動を行う状態だった。

しかし、イースター蜂起の記憶とロイド・ジョージの失政はシン・フェーンには追い風であり、政局は、結局 レッドモンドの国民党を議会からほぼ一掃し、シン・フェーンは106議席中73議席を獲得、アイルランドの第一党に大躍進しました。 この選挙後間も無い1919年1月21日、シン・フェーンの副党首だったアーサー・グリフィスは、アイルランド選出の全議員をダブリン市長公邸の会合に招く。 しかしながら、この会合にはまだ自由の身の在りえたシン・フェーン党員以外は誰も参加しなかった。 結局、少数の国民党員以外 他はアルスターの統一党だったのだから当然の結末なのだが、ここでシン・フェーンは、英国議会への登壇を拒否するとともに、臨時政府となるアイルランド国民評議会(ドール・エレン;前節参照)の創設を発表して、アイルランド共和国の独立を宣言する。

まだ獄中にいたエイモン・デ・ヴァレラは、そのまま国民評議会議長として臨時政府首班に指名された。 シン・フェーンの創設者、アーサー・グリフィスは副議長に選出され、マイケル・コリンズは、当初は内務大臣、後にIRAの指揮官として軍事、諜報部門の長に任命されました。 そして一月中に最初のテロが発生し、アイルランド独立戦争が始まっていく・・・・・・

01-28-02

  1919年2月3日のこと、デ・ヴァレラはケーキの中に埋め込まれた合鍵、=この鍵の型はデ・ヴァレラ自らが取ったと言う=を使い、マイケル・コリンズの手引きでリンカーン刑務所を脱獄する。 彼は直ちにアイルランドに戻り、同年6月 有力な協力者として頭角を現して来たマイケル・コリンズの相棒で、脱獄の片棒を担いだIRBのメンバー、ハリー・ボーランドを伴って、財政的、政治的支援を求めてアメリカに帰国している。 その間の臨時政府首班の実務は、国民評議会副議長に選ばれていたアーサー・グリフィスが代行することになのだが、彼のアメリカ帰国の背景は、

デ・ヴァレラがリーダーシップを握るアイルランド共和国の暫定政府を国際的に承認してもらおうと、ショーン・オケリーが第一次大戦の戦後処理を話し合っていたパリ講和会議に派遣された。 だがしかし 1919年5月、この努力が失敗に終わるとデ・ヴァレラはアメリカ合衆国政府を動かそうと決意、自ら渡米したのだった。 この訪問には3つの目的があった。 第1はもちろんアメリカ政府によるアイルランド共和国暫定政府の承認、第2は国家運営に必要な融資の依頼、第3はアメリカ合衆国在住のアイルランド系市民たちによる援助の獲得であった。

彼は1919年6月から1920年12月までアメリカに滞在して、融資の獲得とアイルランド系市民による援助の獲得には成功するものの、肝心なアメリカ政府による承認は得られなかった。 アメリカ在住のアイルランド系市民の実力者たちが、デ・ヴァレラたちの影響力がアメリカ政府に及ぶことを恐れ、それを阻止していたのである。 そのころ、アイルランドにおける英国当局とドイル(アイルランド議会)の間の紛争はついにアイルランド独立戦争という形になって爆発していた。

この不穏の状況を知らぬアメリカ滞在の「ロング・フェロー/ ”長身のバカ” 」と当時呼ばれたデ・ヴァレラは、指導力を高めるマイケル・コリンズにアイルランド国内のことを任せきりであった。 国民評議会のメンバーや独立を志向する人々は敬愛をこめて「ビッグ・フェロー」とマイケル・コリンズを呼ぶように成っていた。

01

  デ・ヴァレラのアメリカ滞在は一年半にもおよび、その間、アイルランド共和国の承認と、ウィルソン大統領との会見を求めていろいろと活動していたが、結局、デ・ヴァレラは共和国の承認も大統領との会見も果たすことには成功しなかった。 実のところ、ウィルソン大統領は親英的で、イギリスに対して攻撃的なデ・ヴァレラを嫌っていた。 しかしデ・ヴァレラは、自信がアメリカ出身であることから、なんとなくアメリカという国家に根拠の無い漠然とした期待を抱いていたようで、大統領の態度などは全く気にしていなかったようである。 しかし、それはともかくとして、デ・ヴァレラは600万ドルに及ぶ資金を調達した上に、アメリカにおける世論を喚起することには成功した。

しかし、デ・ヴァレラのアメリカ訪問には、IRAとイギリス当局の間で陰惨な戦いが続いている時期であり、当然、「敵前逃亡」という非難があり 「ロング・フェロー/ ”長身のバカ” 」の呼称が定着して行く。 また、資金集めには成功したものの、その過程でフェニアン =19世紀から20世紀にかけてアイルランドの独立と共和国樹立に傾注した友愛団体=のクラン・ナ・ゲールと対立したり、後々の活動資金にと300万ドルをアメリカの銀行に残したうえに、豪勢なホテル暮らしや効果の無かった裏工作で150万ドルを浪費したという。 尚、アメリカに残した300万ドルは、所有権に関してアイルランド自由国とデ・ヴァレラ一派との間で裁判沙汰となったため、出資者に返却された。 しかし、そうは言っても、このアメリカ訪問はそれなりに成功だったと言える。

その間アイルランドでは、マイケル・コリンズ率いるIRAが過酷なゲリラ戦を展開し、イギリス政府に衝撃を与えていた。 アメリカに居たデ・ヴァレラは、流血のアイルランドの現状をはっきりと認識することはなかった。 他方、ゲリラ戦の成功により、必然、アイルランドではコリンズの人気と影響力が高まって行った。 臨時政府の国防大臣カサル・ブルッハーはデ・ヴァレラと親しい反面、コリンズをひどく嫌っていたので、いろいろと摩擦も生じている。 しかし コリンズのゲリラ戦法は現代のゲリラ戦の魁と言われるほど、その戦果を納め マイケル・コリンズを英雄に仕立てて行く。

コリンズはデ・ヴァレラとはイースター蜂起の前から親しく、デ・ヴァレラの収監中、コリンズは彼の家族に生活費を渡したりしていたが、こうした私生活での支援事は、デ・ヴァレラとマイケル・コリンズとの関係に暗い影を落として行く・・・・・・・・

Ireland_in_UK

===== 続く =====

                         *当該地図・地形図を参照下さい

 

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;世相深層】 http://ameblo.jp/thunokou/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中