『光の剣』_闘争の系譜 Ⅱ_06

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・・・・前節・・・・コリンズはデ・ヴァレラとはイースター蜂起の前から親しく、デ・ヴァレラの収監中、コリンズは彼の家族に生活費を渡したりしていたが、こうした私生活での支援事は、デ・ヴァレラとマイケル・コリンズとの関係に暗い影を落として行く・・・・・・・・。

休戦、そして 共和国大統領
アイルランド独立戦争の最中の1919年1月、デ・ヴァレラの帰国を待って行われたドイル(アイルランド臨時政府議会)の第1回議会において、デ・ヴァレラはIRAに対し、英国政府からテロリズムと呼ばれるような行動、待ち伏せなどのゲリラ戦術をやめ、正々堂々と戦うよう求めた。 しかし、装備・規模ともにまさる英国軍にアイルランド兵が正攻法で立ち向かえるはずはなかったため、この発言は現実離れしたものと徹底的に批判され、デ・ヴァレラはあわててIRAに対する支持を再表明しなければならなかった。

デ・ヴァレラは図らずも、独立戦争の厳しい現実に対する認識の甘さを露呈することになった。 次にデ・ヴァレラはカハル・ブルハ、オースティン・スタックと組んでマイケル・コリンズをアメリカでの交渉に送り込もうと画策した。 この3人はコリンズの人気が自分たちのそれをしのいでいることを危険視し、体よく追い払いたいと考えていた。 しかしマイケル・コリンズはこの申し出を拒否して、アイルランドにとどまった。

1920年12月、デ・ヴァレラが帰国する直前、臨時政府副議長で彼の代行だったアーサー・グリフィスが逮捕された。その結果、マイケル・コリンズが議長代行の代行として、一時的に臨時政府の全権を握リました。このことがどれだけ影響したかは分かりませんが、この頃からデ・ヴァレラは、コリンズの影響力の増大にはっきり警戒感を抱くように成った。

これに関してコリンズの支持者は、マイケル・コリンズにその意思が無いにもかかわらず、デ・ヴァレラはコリンズが自分にとって変わられる事を恐れたのだと言っている。 これは悪意のある解釈かも知れない。 がしかし、他に納得の行く説明が無いのも事実です。 暗殺、待ち伏せ、爆弾テロなどのコリンズの陰惨な戦術は、臨時政府の閣僚の多くを占めている穏健な憲政論者からは批判が多かったのは事実だが、武闘派として知られるIRBに属し、義勇軍の創設メンバーでもあり、イースター蜂起にも参加したデ・ヴァレラは、はたして憲政論者と言えるでしょうか?
熱心な共和主義者であるデ・ヴァレラは、暴力的・破壊的に見えるコリンズ一派が政権を握ることによって、強圧的な独裁政権が誕生する事を恐れたのかも知れない。 デ・ヴァレラの杞憂、この危惧は部分的に正しかったのだが・・・・・

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 1920年内に、反故にされていたアイルランド自治法が議会を通過し、アイルランドは晴れて独自の議会を持てるように成った。 しかし、アルスターは断固として受け入れを拒否。 その結果、アルスターは南部アイルランドとは別に独自の議会を持つことになる。 デ・ヴァレラがアメリカから帰国したのは、こうしたアルスター分離傾向がはっきりしたことに警戒感を抱いたからでもあった。 また、南部アイルランドの国民評議会も、今更 イギリスが押し付ける自治法を受け入れるはずはなかったが、それでも シン・フェーンは、アイルランド自治法の下での総選挙に参加し、またしても大勝利を収めました。 これを見たイギリスは、従来の対決姿勢を改めざるを得なく成ったと判断する。

イギリスの首相ロイド・ジョージ(前項参照)は、アイルランドをカナダ、オーストラリアと同等の自治権を持つ自由国とすることを申し出た。 しかし、港湾や航空路の管轄権についてイギリスの権限の及ぶ範囲が大きかったため、デ・ヴァレラを初めとするアイルランド国民評議会は、全会一致で申し出を蹴ってしまった。 ここでデ・ヴァレラは勢力拡大の為、もう一押しを目論む。 マイケル・コリンズと対立するようになっていたデ・ヴァレラはIRAのゲリラ戦術を批判し、政敵と成ったマイケル・コリンズの反対を押し切ると、「従来型」の戦術で大規模な攻勢を行うことをコリンズに命じました。 命令は目標のアイルランド総督府、カスタムハウス(税関庁舎)への正面攻撃。

この攻撃そのものは成功し、カスタムハウスは首尾よく炎上した。 しかし 攻撃軍のIRAはたちまちイギリス軍に包囲されてしまい、120名の兵士を失って作戦は大失敗。これはイースター蜂起の損害の倍に当たった。 この戦果はIRAの戦闘能力に大打撃を与えた。 一方、突然の攻撃にイギリス側は困惑してしまった。

1921年6月22日、アルスターでアイルランド自治法による議会が召集されたのを機に、イギリス首相、ロイド・ジョージは6月29日にアイルランド国民評議会に対して休戦を申し入れ、和平交渉の予備会談のためにデ・ヴァレラをロンドンに招待した。 しかし、アイルランドの代表団は英国の王権からのアイルランドの分離 =つまり、共和国としての完全独立= を考慮しないことが前提条件となっていたので、デ・ヴァレラは和平会談を拒否している。

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  その後、すったもんだの末、ロイド・ジョージは前提条件を取り下げたので、デ・ヴァレラも申し出を受け入れ、7月11日に休戦が発効した。 この時、デ・ヴァレラがどういう話をしたのかは伝わっていない、ロイド・ジョージは、「視野が狭く、考えが理解できない」と彼を評している。デ・ヴァレラと会談した他の政治家も、「キリスト生誕の話をした」とか「ノルマン・コンクエストの話を二、三時間もやった」などと証言している。

そして、1921年8月、デ・ヴァレラはドイル・エアランに1919年のドイル憲法の改正を指示し、自らの職を議長から共和国大統領へと昇格させた。 これによってデ・ヴァレラは自分がアイルランドの元首としてジョージ5世英国王と同等の立場に立っており、和平交渉(1921年10月 – 12月)に国王が出席しない以上、自分も出席する必要はないと表明した。 この交渉では英国側が大きく譲歩し、アイルランドは北部6州(現在の北アイルランド)を除く諸州の独立を勝ち取った。

こうして成立したのがアイルランド自由国である。 プロテスタントの多い北部6州は連合王国のもとに残ることになった。 =厳密には北部6州には、アイルランド自由国と連合王国のどちらかに所属するかの選択の自由が与えられており、連合王国への帰属を選択した= この結果を受けて国境策定委員会が設置され、話し合いによって北部6州とアイルランド自由国の間の国境を画定することになった。 このようなやり方には多くの者が不満を持ったが、コリンズら条約賛成派は国境委員会での交渉の持っていきようによっては北部6州を経済的に立ち行かないようにさせることができ、最終的に全土をアイルランド自由国に組み込むことができるであろうと考えていた。

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===== 続く =====

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