『光の剣』_闘争の系譜 Ⅱ_08

1-31-1

  デ・ヴァレラの持論は「外面的連合」と言うもので、アイルランドは英連邦に留まる反面、イギリスによる干渉は一切受けず、アイルランド国民は、「国内的」にはイギリス帝国の臣民ではなく、王室に対して忠誠を誓う義務が無いというものだった。 はっきり言って、「自治領」「自由国」と何処が違うのか、と言うと、デ・ヴァレラ本人も認めるとおり、ほとんど違いはなかった。 デ・ヴァレラとしては、イギリス王室に対する忠誠の宣誓が、歴史的経緯や共和主義者としての心情から受け入れられなかったのだが、いまさら なぜ形式的な宣誓に拘るのかが、ロイド・ジョージは勿論、アイルランド市民や議員の多くにもさっぱり理解できなかった。

このため、シン・フェーンの「大物」の多くは共和派に付いたにも関わらず、結局1992年1月8日に、64対57で条約は承認された。 デ・ヴァレラは直ちに国民評議会議長を辞任し、支持者ともども国民評議会をボイコットする。 後任にはアーサー・グリフィスが就任し、マイケル・コリンズが自由国成立までの暫定政権首相として実務を担当することになり、大物のほとんどがデ・ヴァレラに随参していた為に、暫定政権の閣僚の多くは、社会的に無名に人々によって占められることに成った。

マイケル・コリンズは条約の賛否を問うための国民投票と総選挙を直ちに行うつもりだったが、デ・ヴァレラは強硬に反対する。 さらに彼は、共和派による国民評議会 =1920年の選挙で選ばれたデ・ヴァレラとその子分達= のみが正当な権威を持つ立法機関であると宣言し、牽引した。 その上、「条約は共和国への道を閉ざすものだ!アイルランド人の血がまた流されるだろうが、内戦によってしか独立を達成出来ないのなら、内戦しかない!」と演じ、「義勇軍は同胞の血を浴びることになるだろう。しかし、自由国政府は打倒する。アイルランドの真の自由を達成するためだ!!」などとカゲキな演説をぶって公然と政府打倒を宣言して、自派を先導して行った。

1-31-2

  その結果、おかげでIRAにも分裂が生じ、共和主義を信奉する一派はデ・ヴァレラ支持を表明する。そして、すったもんだの末、コリンズとデ・ヴァレラの間で、国民評議会における両派の現有比率、すなわち64対57のままで候補者を出しあって1921年6月16日に選挙を実施し、閣僚は条約派が五人、デ・ヴァレラの共和派から四人にするという協定が成立した。

しかし、選挙に出るのは条約派と共和派だけでは無かった。 当然なのだが、もともとアイルランドには、旧国民党や労働組合系などの政党も存在していた。 これらの政党も自由に候補者を立てて来たのだ。 そして選挙の結果は・・・?

条約派が58議席を獲得したのに対して、共和派は36議席を確保した。 条約派があまり数を減らしていないのに、共和派の票が他の政党に食われたことで、デ・ヴァレラら共和派は、実は人気が無いことが判明し、デ・ヴァレラの弱点が露呈した。 しかも 国民投票では78%の賛成で和平条約が承認されてしまった! デ・ヴァレラは決定的な大敗北を突き付けられた。

ここで話が終わるなら何の問題もありませんが、デ・ヴァレラはなおも、アイルランド共和国以外の権威を認めようとはしなかった。 一人 強弁的な演説を繰り返して行く。 曰く、「アイルランド独立のために死んだ勇者達に申し訳が立たない」と太平洋戦争時の死人をダシにした軍人政権が日本の専売特許“大陸で死んだ英霊達に申し訳が立たない!だから戦争は続けるぞい!”とアジテーション。 その結果、1922年3月、IRA内の共和派を支持するグループは、国民評議会に対する忠誠を撤回し、1921年選出の少数派議員が、デ・ヴァレラら共和派の指揮下に入ると宣言してしまう。

しかし、デ・ヴィレラと言えども選挙の敗北はどうしようもない事実であり、政権奪回の手段として、何を思ったか とうとう、彼は武装蜂起を決行する。 そして 4月にデ・ヴァレラ支持のIRAが、ダブリンの最高裁判所に乱入し、占拠する事件を起こした。 デ・ヴァレラの指令でIRAはダブリン市内の要所や各州の行政庁舎を占拠し、共和派はアイルランドの大部分を支配下におくことに成功した。

1-31-3

アイルランド内戦
この反乱に対し、マイケル・コリンズは当初、武力攻撃には消極的だったが、ウィンストン・チャーチル(植民地大臣)が6月中に共和派を排除せよと要求してきたため、結局6月28日、マイケル・コリンズ自ら指揮する自由国政府軍が共和派に対して総攻撃を開始、ついに内戦が始まった。

IRAのような装備も人数も少ない不正規軍が、集団でどこかに立て篭もったりすれば、包囲され、しこたま砲撃の銃弾が飛来し、手も足も出せずに降伏するというパターンをたどる事は、デ・ヴァレラはイースター蜂起とカスタムハウスで経験済みのはずであった。 しかし、またもここでも 彼は正規の軍隊に正面からぶつかるというミスを犯してしまう。

IRAはあっという間に鎮圧され、包囲網を脱出したデ・ヴァレラと一部の共和派幹部はコーク州の田舎で逃亡生活を余儀なくされた。 そのコーク州はマイケル・コリンズの出身地であった。 ただし、コリンズの生家は警察部隊・ブラック・アンド・タンズの襲撃で家は焼き払われていた。 コーク州の住人は反骨精神旺盛で長く反英運動の温床であった場所だったのだ。

この頃のデ・ヴァレラの指導力は、どれだけひいき目に見ても厳しい評価を免れ得ないものであった。 デ・ヴァレラは名目上条約反対派のリーダーであったが、実質的な影響力はほとんどなく、内戦中は投獄されていた期間も長かった。 この内戦は新しいアイルランドに悲劇しかもたらさなかった。

8月に入ると、デ・ヴァレラに幸運が舞い込んできた。 まずアイルランド自由国首相アーサー・グリフィスが過労死。 そして、いまやデ・ヴァレラ最大の敵となったマイケル・コリンズが首相代行に就任したが、その直後、デ・ヴァレラとの会見に赴いたコーク州で殺害されてしまった。
=デ・ヴァレラがコリンズの死に関与していたかどうかは不明だが、デ・ヴァレラ自身は、この期に及んでもまだコリンズをうまく手なずけることが出来ると考えていたようだ=

グリフィスとコリンズは、条約派にとっては唯一無二と言っても良い大物指導者だった。 特にマイケル・コリンズは、独立運動で果たした役割はデ・ヴァレラよりもはるかに大きく、テロリストの才能以外にも、優れた財務能力と政治家としての感覚も持ちあわせていた。 僅か31歳と言う早過ぎる死は、アイルランド全体にとって取り返しのつかない損失を与える英雄の死だった。

マイケル・コリンズの暗殺、ドイル・エアラン議長のアーサー・グリフィスの急死、条約締結に居合わせたロバート・エルスキン・チルダーズの処刑、フォー・コーツ(四法廷)内にあったアイルランド文書保管室の破壊など この内戦はアイルランドに修復不可能な不幸をもたらしたのだ。 文書保管室が破壊されたことで、千年におよぶアイルランドの歴史における重要書類の数々が失われた。 この破壊ほど無意味な行為はない。 デ・ヴァレラが扇動する条約反対派の賛同者たちからみても「愚行」としか言い得ないものであった。

01

===== 続く =====

                         *当該地図・地形図を参照下さい

 

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;世相深層】 http://ameblo.jp/thunokou/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中