『光の剣』_闘争の系譜 Ⅱ_09

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 さて、自由国政府は12月の第一週までに憲法を制定し、イギリスの批准を受けなければならなかった。 そのため、内戦が続いている8月に、共和派を排除した議会をつくるために再度総選挙が行われ、9月、仮の議事堂で開かれた議会で、ウイリアム・トーマス・コスグレーブ(1880-1965)が、アイルランド自由国首相に選出されました。

コスグレーブはイースター蜂起に参加して終身刑の判決(ただし、一年で釈放)を受けた人物ですが、どちらかと言うとそれまでは無名でした。 彼は急いで憲法を制定すると共に、自由国政府軍を大幅に増強し、武器の不法所持に死刑を課すことでIRAに対処した。 実際、数人がピストルを持っていだだけで処刑されているし、現場で兵士に射殺されたりした者もかなりいたはずなのだ。
しかし、この頃にはIRAは鎮圧されており、新たな武力衝突も無く、どうにかコスグレーブは憲法制定までこぎつけた。

憲法制定の2日後の12月8日、新憲法の下での最初の議会の席がIRAに襲撃され、議員一人が殺される事件が発生した。 ここに至ってようやく、共和派はマイケル・コリンズ直伝の都市ゲリラ戦を開始するのだが、これは完全に逆効果に成った。 怒り狂ったコスグレーブは、ついに共和派に対する大弾圧を開始する。 イギリスがアイルランドに対して行った最悪の行為もコスグレーブの弾圧ほど過酷ではなく、理由無しの逮捕や裁判無しの処刑が相次いで、半年足らずの間に一万人以上が投獄され、少なくとも50人の共和派メンバーが裁判無しで処刑されたのです。

さすがのデ・ヴァレラもこれには音を上げ、1923年5月、共和派に対して武力行使を停止し、武器を隠す(dump)ように呼びかけた。 「武器を捨てろ」と言わなかったのは、降伏を潔しとしなかったからなのだが、何はともあれ、前年6月から続いた内戦はここに終結を見た。 この間の死者は4000-5000人と推定されている。 独立戦争のアイルランド側の犠牲者が1000人ほどであることを考えれば、かなりの犠牲者が主義主張の相違からの内戦で出たのだ。 また、戦火が全土に及び =しかし、皮肉にもアルスターは平穏無事だった= 130万人の市民が失業してしる。
=当時、南部アイルランドの人口は300万人程度立ったが故に 如何に経済が遮蔽したかは想像するまでも無い=

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   しかし、イギリス支配下ならまだしも、1922年の状況におけるアイルランド共和国の理想が、果たしてマイケル・コリンズのような卓越した指導者を含む数千人の死に値するものだったのだろうか? 今日の我々からは、とうていこの内戦の必要性はどこにも見出せない。 この内戦没発の責任は、全てとは言えないにしても、少なくとも半分はデ・ヴァレラに帰せられると考えられる。

IRAが武力闘争路線の不毛さを悟って武器を「隠す」と、デ・ヴァレラも武闘路線を放棄して政治闘争へと戻った。 1924年、デ・ヴァレラはニューリーにおいて北アイルランドへの不法侵入の容疑で逮捕され、1か月間ベルファスト(北アイルランドの首府であり、アルスター地方のアントリム州に属する。約28万人の人口を擁する北アイルランド最大の都市)の刑務所に投獄された。

「臣従の誓い」(忠誠条項)の廃止を含めた自由国憲法の受け入れを問う投票権を失ったことを受けて、デ・ヴァレラは党首を辞任、1926年3月に新党フィアナ・フォイル(共和党、「運命の兵士たち」の意味)を結成した。 フィアナ・フォイルはこの後、20世紀のアイルランド政治史に大きな影響を及ぼすことになる。

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フィアナ・フェイル党
コスグレーブ内閣はアイルランドの秩序回復に成功。 しかし、その過酷な大弾圧で市民の信頼を失った・・・・・・ように視られたが、彼の閣僚には20代の若者も居り、コスグレーブ首相も含めて政府の運営には完全なド素人の集団だったが・・・・・・若さゆえの猪突猛進、ただでさえ貧しいのに内戦で疲弊していたアイルランド経済の回復に目覚ましい業績を上げる。 そして、奇跡的に市民の信頼を勝ち得た。 特に1927年の電力公社設立とシャノン水力発電所の建設は、独立アイルランドの経済建設の原点となったと高く評価され、後年のルーズベルトが政策・TVAのモデルである。

コスグレーブとその一派は、シン・フェーンと袂を分かち、ゲール同盟(Cumann na nGaedheal/ゲール語)を創設する。 彼らは、共和国への誓いを破ったとして、かつての同志達(共和派)から敵視されていたが、イギリス政府と旧国民党は、コスグレーブ内閣を積極的な支援を惜しまなかった。自由国初代総督にも国民党出身のアイルランド人が任命される。

他方、デ・ヴァレラが結成したフィアナ・フォイルは急速に民衆の支持を集めたが、臣従の誓いは拒否し続ける。 この誓いは形式的には英国王への誓いであったため、フィアナ・フォイルの支持者たちから批判されたが、実質的には「英愛条約を認めた英国王の権威への忠誠」という形をとったアイルランド自由国への誓いであった。 この誓いの文面はほとんどがマイケル・コリンズによって書かれたものであり、マイケル・コリンズはこの文章を書くにあたって英連邦加盟国による臣従の誓い、アイルランド共和同盟の誓い、デ・ヴァレラ自身が起草した条約文の草稿の3つを元にしていたのだが・・・・

フィアナ・フォイルは臣従の誓いを法的に廃止しようとしたが、国民会議の副議長ケヴィン・オ・ヒギンスが暗殺されたこともあって、W・T・コスグレイヴ率いる国民会議のメンバーはドイルの議員および議員候補者たちすべてに英国王への臣従の誓いを義務づけた。臣従の誓いを立てなければ立候補もできず、政界から追い出されてしまう危険性が高まったため、1927年にデ・ヴァレラはあくまで「形だけのもの」であるとしてついに臣従の誓いを行った。 1931年、メイヨー州で「カトリックの国にはカトリックの司書長を」と唱えた住民たちの手によってプロテスタントの司書長が解雇されると、デ・ヴァレラは同地へ赴いて大歓迎を受けた。

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===== 続く =====

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