『光の剣』_闘争の系譜 Ⅱ_10

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最高議会議長として
アイルランドの秩序が回復した1923年8月、再度の選挙が行われた。 デ・ヴァレラは、内戦中は「緊急事態内閣」なるものを旗揚げして大統領におさまったりしたので、言い逃れのしようも無い反乱の首謀者であった。 ずっと逃亡生活を続けていたのだが、この選挙が近づくと、突然に姿を現して、「シン・フェーンを通じて、合法的に世直しをしたい」と宣言し、地元の東クレア州から立候補する。 恐らくは、ここでようやく、自由国政府打倒が不可能であることを悟ったのだろうが、デ・ヴァレラはこれ以後、内戦など無かったかのように振舞う。 IRAとも距離を置いた姿勢で臨む。 このスタンスにIRAの方も呆れて、デ・ヴァレラを嫌うようになった。

=こうしたデ・ヴァレラの唯我独尊的態度は、私生児として差別された少年時代の反動と、愛読書「君主論」の影響が大とされている。 しかし勿論、この時は無事ですむはずは無く、演説中に自由国軍兵士に銃撃されて負傷し、逮捕されて1924年11月まで刑務所にぶち込まれている。 死刑に処されなかったのは、銃撃事件のおかげで同情論も高まっからで、これは大いなる幸運と言うしかない=

この総選挙でフィアナ・フォイルは72議席を獲得、過半数に及ばないもののドイル内(アイルランド議会)の第1党に躍り出た。 この結果を受けて3月9日にデ・ヴァレラはアイルランド自由国総督ジェームズ・マクニールによって最高議会議長に任命された。 彼はさっそく選挙の公約であった、“臣従の誓い(忠誠条項)”の撤廃と、英国への土地年賦の支払いの停止の実現を目指して動き始めた。 これに対して英国は報復措置として、アイルランドへの輸出品に高額の関税を実施したため、アイルランドはたちまち経済危機に陥った。

さらにジョージ5世の名によって総督ジェームズ・マクニールが更迭されるとともに総督のポストそのものも廃され、ドムナール・ウア・ブアハラ(アイルランド自由国総督)を「シーナスカル」という総督に代わる新たな地位に就けた。 こうして、アイルランド人にとって目に見える恨みの的であった総督職が、形式的であれ廃止された。

デ・ヴァレラは議会における不利を克服しようと総選挙を画策し、実施させた。 そして 過半数を獲得して狙いどおりの勝利を収めた。 選挙の結果デ・ヴァレラ一派は44議席を獲得したが、議員の宣誓でイギリス国王に対して忠誠を誓うことを理由に、彼はまたも議会をボイコットする。 しかし、このボイコットはなんの役にも立たなかった。 確かにイギリス国王への忠誠条項は、条約派の間でも良くは受け取られていなかったが、デ・ヴァレラの態度は、この忠誠条項がうるさい共和派を遠ざける格好の虫除けであるとコスグレーブに悟らせてしまった。 事実、コスグレーブは忠誠条項を変更しようとしなかった。 このためデ・ヴァレラは、議会で忠誠条項を廃止するためには、一旦はイギリス国王に忠誠を誓わなければならないという自己矛盾に陥ってしまいました。

= まあ、大見得切ってからそのことに気づいたとは思いたくはないですけど、彼の動向には、スタンドプレーと一貫性のない矛盾がいつも内在している・・・・・・=

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 失敗を悟ったデ・ヴァレラは、現実路線に転換し、議会に参加することを考える。 シン・フェーンのメンバーの多くは、それを自由国政府の承認であると考えてその方針転換を裏切りと憤慨し、IRAもついにデ・ヴァレラへの支持を撤回する。 このためデ・ヴァレラは、シン・フェーンを離党してしまう。 しかしこの時、共和派ではデ・ヴァレラに対する個人崇拝(personal cult)がかなり進行していたので、意外なことに、議会への参加に反対しつつも、シン・フェーンのメンバーの大部分はデ・ヴァレラについていってしまいました。 その結果、シン・フェーンは少数の過激派集団に落ちぶれ、デ・ヴァレラとその信者達は、フィアナ・フェイル党の結束を一段と強固にした。

もっとも、すぐに議会に参加するのはさすがに気が引けたのか、フィアナ・フェイル党もまた、しばらくは忠誠条項の廃止とアルスターとの統一を目標に掲げ、議会をボイコットしつつ院外活動でコスグレーブ内閣を攻撃し続けていた。 尚、詩人イェーツが当時のデ・ヴァレラを評して「人間味が全く無い」と公言している。 実際、デ・ヴァレラは小説や演劇その他、およそ文化的なものには全く関心が無く、イェーツが評したとおりの人物だったのですが、妙なカリスマ性があったようだが・・・・・・

議席数では相変わらず第一党だったので、コスグレーブは首相の座にとどまる事が辛うじてできた。 それもこれも、フィアナ・フェイル党が相変わらず議会をボイコットしていたので、議会に参加して投票出来る反コスグレーブ派の議員が少なかったからであり、ここでもデ・ヴァレラの戦術は齟齬を来たしていた。 だが、ここでコスグレーブもミスを犯した。フィアナ・フェイル党の院外活動を阻止する目的で、候補者の段階で議会に参加する誓約と憲法への忠誠を誓わなければならないという法律を作ってしまった。

さすがのデ・ヴァレラもこれには「屈し」、「大げさで白々しく、芝居がかった動作」で「イギリス国王への忠誠を誓い」、実は「忠誠を誓ったわけではない」などと、無茶な強弁をしつつ、フィアナ・フェイル党の議員ともども議会に参加している。
本当にデ・ヴァレラがコスグレーブの新選挙法に「屈した」のか、これ幸いと飛びついたのかはともあれ、議会に登壇するや否やデ・ヴァレラは、アイルランド労働党、および国民同盟という小政党と連合して、コスグレーブ内閣の不信任案を提出した。 勢力比ではデ・ヴァレラ派が一人分勝っていたのだが、採決の日にその一人が何故か議会を欠席・・・。 投票の結果は同点であり、議長のキャスティングボートでコスグレーブ内閣は存続。 コスグレーブは直ちに議会を解散して総選挙を行うが、その総選挙でもコスグレーブ派61議席、デ・ヴァレラ派57議席と惜敗してしまい、コスグレーブはなおも首相の座にとどまり 政権を担う。

= 1931年、英国議会はウェストミンスター憲章を通過させている。 同法は英帝国を構成するすべての自治領(アイルランド自由国やイギリス連邦そのものも含む)に同等の権利を与え、新たに英連邦を発足させるものであった。 英帝国と各自治領の間に依然として強い法的な連携はあったにせよ、これによって英国本国と自治領との間の関係性は大きく変質し、各国は事実上の独立を果たすことになった =

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  1932年の総選挙でデ・ヴァレラが率いるフィアナ・フォイルは72議席を獲得、過半数に及ばないもののドイル内(アイルランド議会)の第1党に躍り出た。 この結果を受けて3月9日にデ・ヴァレラはアイルランド自由国総督ジェームズ・マクニールによって最高議会議長に任命された。 彼はさっそく選挙の公約であった、臣従の誓い(忠誠条項)の撤廃と、英国への土地年賦の支払いの停止の実現を目指して動き始めた。 これに対して英国は報復措置として、アイルランドへの輸出品に高額の関税を実施したため、アイルランドはたちまち経済危機に陥った。 さらにジョージ5世の名によって総督ジェームズ・マクニールが更迭されるとともに総督のポストそのものも廃され、ドムナール・ウア・ブアハラを「シーナスカル」という総督に代わる新たな地位に就けた。 こうして、アイルランド人にとって目に見える恨みの的であった総督職が、形式的であれ廃止されてしまった。

翌年 デ・ヴァレラは議会における不利を克服しようと1933年に総選挙を実施し、過半数を獲得して狙いどおりの勝利を収めた。 デ・ヴァレラのもとでフィアナ・フォイルは1937年、1938年、1943年、1944年の総選挙でも勝利して行くのだが、デ・ヴァレラは内政のみならず外交も自ら主導し、国際連盟の総会にも自ら出向いている。 総選挙の前年の1932年、ジェノヴァでの連盟総会では自ら議長を務め、連盟の規約に忠実であるよう参加国に求める演説を行って参加者たちに感銘を与えた。1934年にはソビエト連邦の連盟加盟を支持している。1938年9月、第19代議長に選ばれるなど、国際政治の世界で一定の存在感を示すことに成功した。

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===== 続く =====

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