『光の剣』_闘争の系譜 Ⅱ_13

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  第二次世界大戦時における“中立宣言”は今では、デ・ヴァレラの致命的失政とされているが、デ・ヴァレラの判断が正しかったのか、間違っていたのか、難しいところだろう。 実際のところ、当のアルスターがこの取引を歓迎したとはとても思えないので、デ・ヴァレラの失策と一概に批難することは出来ないはず。 またこの時、ドイツのちょび髭小男の軍隊がフランスを征服し、イギリスの命運も風前の灯火に見えたことも考慮しなければならないだろう。

 アイルランドは第二次世界大戦の間アメリカ合衆国の度重なる勧誘にも関わらず中立を維持したが、数万人の義勇兵が英軍に参加している。 大戦が延びるにつれ食料と燃料の配給は日々悪化した。 最近の研究によるとアイルランドの連合国への関与は従来思われていたよりも大きいことが判り、デ・ヴァレラの偏狂的な連合国への参加拒否に関わらず 庶民レベルで行われていたと言う。 D-デイの決行を決定付けた天候情報はアイルランドから提供されたと判明している。

  第二次世界大戦は1944年の1月、ソビエト軍がレニングラードの包囲網を突破し、900日間におよぶドイツ軍の包囲からの解放を勝ち取ると 連合軍が攻勢に転じた。 本格的な反攻のチャンスをうかがっていた連合軍は6月6日、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハワー将軍指揮の元、北フランスノルマンディー地方にアメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍、そして自由フランス軍など、約17万5000人の将兵、6,000以上の艦艇、延べ12,000機の航空機を動員した大陸反攻作戦「オーバーロード作戦」(ノルマンディー上陸作戦)を開始。 1940年6月のダンケルク撤退以来約4年ぶりに西部戦線が再び構築された。この上陸の2日前、6月4日にはイタリアの首都ローマは連合軍に占領された。 そして、1945年には終局へ、同年(昭和20年)7月17日からポツダム会談が行われ ドイツの戦後分割統治などが取り決められたポツダム協定の締結が行われた。

行政区画

第二次世界大戦後
第二次世界大戦が終わると、イギリス人達は配給制度の無いアイルランドに、大挙して買い物旅行に押し寄せて来た。 そのため、観光業や貿易は記録的な大発展を遂げる。 もともと大した産業の無いアイルランドは、イギリス人に売るための物資のほとんどは輸入に頼らなければならないと言う矛盾した経済構造をもっていた。 このため、支出の増大とともにインフレも亢進する。
国家の非常時を過ぎると、フィアナ・フォイルの影響力は弱まっていった。 デ・ヴァレラは16年権力の座にあったが、自らの党の弱体化と対立政党による批判に曝されることになった。

 16年もの長期間、政権に居座るデ・ヴァレラへの批難 =早いこと、じいさんはとっとと隠居せぇや!!~!= にも結びつき、1948年2月の総選挙では、フィアナ・フェイル党は過半数をわずかに割ってしまい、代わってゲール同盟を中心とする連立内閣が成立し、ジョン・コステロという人物が首相に就任した。 野党党首となったデ・ヴァレラは、北アイルランド問題を解決するため各国の支援をとりつける運動を始める。 他方 与党政権は正面を突く。 このジョン・コステロ首相は、どうもデ・ヴァレラにライバル意識をもっていたようで、アイルランドの共和国としての完全独立というデ・ヴァレラの長年の政策の先を越す、というかなり不純な考えの下、1948年11月、エールのイギリス連邦からの離脱を宣言した。

従来、名目的にイギリス国王のものであった権限を、共和国大統領に付与する「アイルランド共和国法案」を議会に提出した。 イギリスの抗議で、またもアルスターは適応範囲から除外されたが、デ・ヴアレラも含む満場一致で共和国法案は議会を通過し、1949年4月17日、エールは、「アイルランド共和国」として法的にも念願の完全独立を達成しようにみえたが、イギリスはアイルランド共和国の独立を承認するが、同時に、「アルスターは連合王国としの一部にとどまる」「アルスターの市民、および議会の同意無くして連合王国からの離脱はできない」と完全独立にクギを打ち込んだため、イギリスとアイルランドの関係はいっそう悪化した。

その後、念願の共和国設立と言う満塁ホームランをかっ飛ばしたにもかかわらず、単にデ・ヴァレラが嫌いと言う理由で集まっただけの寄り合い所帯だったコステロ政権はあっさりと分裂してしまい、1951年5月の総選挙では、過半数はとれなかったものの ふたたび、デ・ヴァレラが首相の座に返り咲いた。 フィアナ・フェイル党は相変わらず過半数を割っていたが、無所属の議員がデ・ヴァレラ支持に回ったためです。 しかしながら、 その任期は彼のキャリア史上最低のものとなった。 その内閣の顔ぶれが1932年の自身の最初の内閣とまったく変わらなかったからである。

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   1954年、フィアナ・フォイルは再び総選挙で敗れた。 しかし、他の政党の連合のゲール同盟連立与党は3年しか続かなかった。 この野党期間のデ・ヴァレラは、アルスター問題とアイルランドの産業の育成に精力的に取り組んでいる。 他方、コステロ首相がIRAの取り締まりに失敗したため、1957年には再び75歳のデ・ヴァレラとフィアナ・フォイルが圧勝して権力の座に戻った。 そのあとフィアナ・フォイルは16年もの間、与党として君臨し続けることになる。 戦後の世界に合わせた新たな経済政策を示しながらも、政権の座に返り付いた彼は、老衰が激しく、視力障害で失明に近い状態にもなっていた。 首相として政権の実務を担当するのは困難であり、1959年6月、後継者にショーン・レマースを指名して首相を辞任、代わってアイルランド共和国大統領に選任されている。

 基本的にアイルランド共和国大統領は、行政的権限を持たない名誉職です。 二選まで可能な任期7年で、名目的な閣僚の任命、法律の認可、首相の進言に基づく議会の召集と解散、国防軍の最高司令官職が主要な職務だが、そうした名目的な権限以外にも、大統領の諮問機関である国家評議会との協議の上で、法案の違憲立法審査の開始を請求したり、下院の三分の一(つまり少数派)の議員の要請に基づいて法案に拒否権を行使することも出来る。 また、内閣不信任案が可決された場合には、議会の解散を行わずに問答無用で首相をクビにする権限も与えられている職域である。

デ・ヴァレラは2期14年間、大統領を務めた後、1973年に引退するが、この時既に90歳。 ダブリンの老人ホームに引っ込んだ後、1975年8月29日、92年に及ぶ波乱の生涯に幕を閉じた。最愛の妻で4つ上のシネイド・デ・ヴァレラも彼に先立って1月に世を去っていた。それは奇しくも2人の65回目の結婚記念日の前夜であった。 デ・ヴァレラは現在グラスネヴィン・セメタリーで眠る。

Ulster

===== 続く =====

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