『光の剣』_闘争の系譜 Ⅱ_15

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 デ・ヴァレラの人生は、政治家として生き抜いた時代へ執った彼の舵がアイルランドを荒波の海に誘った。 今日 アイルランドに蠢く諸問題の底流を遡れば、過度に頑迷なデ・ヴァレラに辿り着く。 親友同士であったマイケル・コリンズデ・ヴァレラが袂を分かたず共鳴する関係を保ち続け、互いに切磋して指導者としてアイルランドを牽引していたならば・・・・・・

《プロテスタント国家》
1921年から1971年にかけて北アイルランドは東ベルファストに基盤を置くアルスター統一党政府により統治されていた。 創設者のジェームズ・クレイグは北アイルランドを「プロテスタントによるプロテスタント国家」であると述べている。

カトリック教徒が被っていた就職や住居そして政治上の差別は多数派に有利な選挙システムにより成り立っていた。 1960年代アメリカ合衆国における公民権運動の活発化により差別撤廃への関心が強まった。 カトリックによるデモが右派ユニオニストの影響下にあるロイヤル・アルスター警察(RUC)により暴力を用いて鎮圧されたため社会不安が増加した。 騒乱を鎮めるために英軍部隊が北アイルランドに派遣され現地の警察に変わり街の警備につくことになった。 紛争は血の日曜日事件と血の金曜日事件が発生した1970年代前半に頂点を迎えた。

血の日曜日事件(Bloody Sunday) は、1972年1月30日、北アイルランドのロンドンデリーで、デモ行進中の市民27名がイギリス陸軍落下傘連隊に銃撃された事件。 14名死亡、13名負傷。事件のあった地区の名を取って「ボグサイドの虐殺(Bogside Massacre)」とも呼ばれる。 IRA暫定派は、1970年からイギリス統治に対する反対運動を行っていた。 軍が非武装の市民を殺傷したこの事件は、現代アイルランド史における重要な事件である。
尚、1920年11月21日にアイルランド独立戦争中のダブリンで発生した“血の日曜日”事件は別件の事件。 14人のイギリス人、14人のアイルランド人市民、3人のアイルランド共和軍 (IRA) 捕虜が殺害され、合計では31人の犠牲者が発生している。 この事件はイギリス政府の諜報機関とイギリス軍情報部のスパイ網を破壊するマイケル・コリンズの計画だった=

これらの北アイルランド問題は英語ではシンプルにThe Troublesと呼ばれている。 紛争に対しなす術のないストーモント議会(北アイルランド議会)は1972年に閉会し翌年正式に廃止された。 北アイルランドではIRA暫定派、IRA、INLA、アルスター防衛同盟、アルスター義勇軍、RUCと英軍が互いに攻撃・テロを繰りかえし、これらの事件による死者は3,000名にも及ぶ。 テロは北アイルランドのみならず、イギリス、アイルランドにも伝播していった。

行政区画

《直接統治》
以後の27年間、北アイルランドはイギリス政府に設けられた北アイルランド担当大臣による直接統治下に置かれた。 この統治に要する主要な法律は通常の手続きに従い下院で可決・成立したが、多くの微細な取り決めは議会の審議を受けることなく枢密院令によって発布された。 イギリス政府は地方分権を指向していたが、北アイルランドConstitution Actとサニングデール合意および1975年の北アイルランドConstitutional Conventionなどによる北アイルランド問題解決の試みは全て世論の支持を得られず失敗に終わった。

1970年代イギリス政府はアルスター化の方針のもとIRAに対する対決姿勢を維持した。 IRAとの対立の最前線にはRUCおよび英軍予備役であるUlster Defence Regimentがあたっていた。政府の強硬姿勢によりIRAによるテロは減少したものの、長期的にはどちらの勝利も望めないことは明らかであった。 IRAのテロ活動に反対するカトリックも存在したが、差別措置を撤廃しない北アイルランド政府に対して彼らが好意的になることはなかった。

1980年代になるとIRAはリビアから大量の武器を調達して攻勢にでようとこころみた。IRAに浸透していたMI5の諜報活動によりこの計画が失敗すると、IRAはその目標を準軍事的なものから政治的な方向へシフトするようになる。 IRAの”停戦”はこの動きの一部であった。 1986年にはイギリスとアイルランド政府がアングロ・アイリッシュ協定を調印し政治的な解決を模索した。長期にわたる紛争により北アイルランドは高い失業率に苦しめられ、70年代から80年代にかけて行われたイギリス政府のてこ入れによる公共サービスの近代化も遅々として進まなかった。

90年代に入るとイギリス・アイルランド両国の経済が好転し紛争も沈静化する傾向が見えてきた。近年北アイルランドではカトリックの人口が増加しつつあり、全人口の40%以上を占めるようになっている。

《地方分権による北アイルランド問題の解決》
1998年4月10日のベルファスト合意(聖金曜日協定またはグッドフライデー合意とも)により北アイルランド統治に関する取り決めがなされ、ユニオニストとナショナリストの双方が北アイルランド政府に参加することとなった。 しかし両党の党首と北アイルランド議会は総選挙の延期を決定した。

現在は各テロ組織の武装解除、北アイルランドの政治体制の変革、イギリス軍基地の撤退問題などが注目されているが、これまでの和平を担ってきた穏健派のアルスター統一党(ユニオニスト)と社会民主労働党(ナショナリスト)両党よりも急進的な民主統一党とシン・フェイン党の党勢が拡大しており今後も予断を許さない状況にある。

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《アイルランド闘争指導者の系譜;参考資料として
・ ダグラス・ハイド、 1938-1945  ;初代アイルランド大統領
・ ショーン・T・オケリー、 1945-1959  ;第二期・第三期、アイルランド大統領
・ エイモン・デ・ヴァレラ、 1959-1973  ;第四・五期、アイルランド共和国大統領
・ アースキン・ハミルトン・チルダース、 1973-1974  ;第六期、アイルランド共和国大統領
・ カハル・オドーリー、 1974-1976 ;第七期、アイルランド共和国大統領
・ パトリック・ヒラリー、 1976-1990  ;第八・九期、アイルランド共和国大統領
・ アリー・ロビンソン、 1990-1997  ;第十期、アイルランド共和国大統領(女性)
・ メアリー・マッカリース、 1997-2011 ;第十一・十二期、アイルランド共和国大統領(女性)
・ マイケル・D・ヒギンズ、 2011- ;第十三期、アイルランド共和国大統領

因みに、通常、大統領は直接選挙によって選出され、任期は7年。 また、アイルランドには副大統領職はない。 大統領職が任期途中に空席となった場合、60日以内に選挙を実施しなければならない。 その間の大統領の職務と権能は大統領委員会によって代行される。 大統領委員会は最高裁判所長官、下院議長及び上院(シャナズ・エアラン)議長によって構成される。 また、大統領への特別な下記二項の制限がある。

  • 大統領は政府の同意なく国を離れることはできない。
  • 大統領の演説は政府の事前承認が必要である。

後日に彼等を書き綴ろう・・・・・・

ダブリンのお宝

===== 耶律大石 第二章へ 続く =====

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