小説・耶律大石 第二章(02節)

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 欽宇 阮と何蕎は二十騎の騎馬武者と共に 凍てつく黄河沿いに鳥海を走り抜け西夏の興慶(現在の銀川)へと南下した。 黄河が屈曲して東方に流れる地点で蒙古高原の北庭都護府・可敦城へ運び込む越冬兵糧と弓矢を準備している耶律磨魯古が率いる三十余騎と兵馬20頭に別れての行動である。 彼等は、東方約80キロの包頭集落から送られてくる“燃える黒い石”を待っていた。 早朝に出立した石隻也が燕京に伝令に走る途中で手配する荷物である。 また、鳥海で買い付ける荷物も少々残っていた。 耶律磨魯古の運搬隊な三日後に成ろう。

蕎が先導する阮と二十騎の騎馬武者は鳥加河を離れ、巴彦連弥を過ぎ鳥海に至った頃には太陽が頭上にあった。 鳥海の商人宿の主に何蕎は、耶律磨魯古が運び上げねばならない不足する兵糧資材の手配と鳥加河へ運搬し手渡す支援を依頼して先を急いだ。 黄河に沿って南下する平坦な通商路であるが、路面が凍りついている。 踏み荒れた道であるが故に、馬脚を気遣いながらの早駈けである。 この先の石嘴山村落を過ぎれば興慶の城下には日が落ちる前に入るころができる。 日が落ちてしまえば、城門は閉ざされ 寒空の下で野営しなければならない。 何蕎を先頭に欽宇阮と二十騎の騎馬武者が石嘴山の黄河左岸を走り抜けて行った。

絹の絨毯が敷かれ、壁際には大きな枕を思わせる肘当て、部屋の中央には足を持つ大銀皿 個々にナツメ・ブドウ・リィチが盛られていた。 床は豪華な絨毯で全面覆われている。 その床に胡坐をかいて座るのである。 セデキ・ウルフの屋敷であった。

言うまでもないが、大皿に盛られている果菜は 燕京でのこの時期には到底手に入らない。 たとえ それらを乾燥させたものすら宮中でも珍しかった。

 

「欽宇 阮と申されたな、 何蕎がお世話になった。 それに、姪のチムギもお世話になっている。 この寒さの中 よく参られた。 朝餉は済まされましたかな・・・・」

「突然 まかり越しまして 申し訳ございません。 昨夜 城門が閉まる前に この地に至り、 何蕎殿宅にお世話に成りました 」

欽宇阮が何蕎に伴われて西夏の実力者であるセデキ・ウルフを訪問していた。 セデキ邸は興慶城内北側に位置する皇居近くにあった。 瓦と粘土で層積みした高い外壁に立派な門構え、門の両側には衛兵の宿舎であろうか小部屋がある。 門を潜れば、大樹が散在する庭があり 更に 干し煉瓦の塀があった。 木製で観音開きの木戸を抜ければ奇岩を集めた中庭があり、三面が回廊で囲まれている。 何蕎は全てを熟知しているのであろう。 回廊右隅から奥に通じる廊下を抜けて 四面を回廊が回る池を配置した庭を横切り、西側中央部の部屋に欽宇阮を案内したのだ。 その部屋は、朝日を受けて明るかった。

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  「欽宇 阮殿、 耶律大石殿は ご壮健かな・・・・」

「はい、五原を去った10日ほど前に 酒を共に酌み交わし、挨拶をして こちらに出向いて参りました。 ここ一年 宋と金な狭間に また 天祚帝との厭きれつに心が塞がれる日々のご様子を憂慮しておりましたが、 北帰行に心を決められた統師さまは、チムギさまの来訪以来 誠に晴れやかな様子です。 セデキ殿にはくれぐれも よしなに伝えてくれと、また ぜひ一度お会いしたいと申しておりました。 これに、文を預かっております 」

「燕京の安禄衝さまより 耶律大石殿の苦悩と 天下を揺り動かすご活躍は聞き知っております。 また、今 聞きました“北帰行”とはいかなることかな・・この文に仔細は書かれていようが・・・・・。 話は別ですが、姪のチムギをとどけてくれた耶律楚詞さまが禄衝さまの文で遼の皇子であると知り、驚きました。 五山・少林寺の達人で在られる事も・・・」

「御父上の無念を胸に秘めて、統師さまを兄と慕われ 一体に成られ 天狗と自認しての言動には統師さまと旧来より一体の私どもが感服いたしております。 あの若さがゆえに 感服以上の敬服と申し上げても言葉が足りませんと。 統師さまの後継者として異論を唱える者はいないでしょう・・・・」

「チムギの我儘にて 楚詞さまに同行することを独断で許したのですが、耶律大石殿が受け入れくだされた事 有りがたく思っておりました。  勿論、燕京の石抹言には連絡の文で知らせてありますが、ところで 昨夜、何蕎から話は聞いていますが、 欽宇阮殿  いかほどの勇者が参っておる・・・・」

「二十名を同行して参りました 」

「なれば、 何蕎の東屋では狭かろう、 今夕からこちらに参られよ。 何蕎は 日夜 毎日 我がもとへ顔を出している。 ここに居れば詮索する輩も出まい。 何蕎、そなた 全て 手配いたすがいいい 」

「誠に ありがたき お言葉、 お言葉に甘えさせていただきます。 が・・・」   「 ・・・いかがいたした、 ・・・・・」

「 いえ、更に 甘えた御援助を 賜りたくぞんじます 」

 

「聞けば、何蕎も耶律大石殿に魅せられたもよう、 何蕎とそなたは 今や 義兄弟の契りを結んでいるそうではないか 遠慮は無用にいたそう」

「ありがたき お言葉。 では、申し上げます。 耶律大石の命により、手の者60名が南宋の動きを探り、長城西部にて他の者と落合い 集結する100名の若者が 近々 この地に参ります。 いま 大石総統は 五原を離れ、北の北庭都護府 酷寒の可敦城跡に向かわれていると思われます。 北に向かった大石統師の考えは その文にございましょう・・・・・・。 大石統師は 厳冬の草原 使われなくなって はや十数年の可敦城に 200有余の将兵が集結する困難を憂いられ、春までこの地に潜伏する旨を引率している康阮と康這兄弟に申して旅立たせました」

「では、彼らの処遇の事だな、 大石殿の悩みは居城を持たぬ将が部下を如何に安心させるかの苦悩、我には軍兵と共に彷徨った覚えはないが、よく解る。 大石殿の意向は この文を拝見いたさば、解るであろし、 時間もある事じゃー、大石殿のお考えに沿った良策を考えておこう。 何蕎、 汝も知恵を出せ 」

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  「 欽宇阮殿、 別の話じゃが、 あのじゃじゃ馬・チムギは耶律楚詞皇子と北に向かったようじゅあなぁ 」

「失礼を申し上げるようですが、チムギ殿は観音菩薩でございます。 しかも、剣を持つ

「ハッハッハァ よく 申された。 されば、大石殿と楚詞皇子の徳がチムギをして 変えさせたのであろう。 大石殿が向かわれた地に この俺も 増々 行かずば 成らなくなった。 それに、 先ほどお聞きした欽宇阮殿 康這殿の御兄弟からも南宋の動向話を聞かねばならぬ、 何蕎 御兄弟が入門される前に 下僕を走らせ、先ず こちらから 遼将軍の支援の意をつてえておけ。 南東方面の間諜組織に伝える事も忘れるでない。 また、ご両名には早い時期にお会いしたいとも。 他所に寄る事無く 直ちにこの屋に通せ。 それまでには さきほどの良策 立てておこう 」

「・・・・・それはそうとして、 欽宇阮殿、 目の前の皿 見る物ではなく 食するもの、 我らは火の神ミスラさまの子、 ちと 不便に思う時もあるが、酒は日の在る内は 遠ざけておる。 何蕎 お勧めせんか、汝も北に向かうと 口にできぬぞ 」

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===== 続く =====

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