小説・耶律大石 第二章(04節)

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 日が未だに高く、夕刻には十分な時がある中 一団は可敦城に着いた。 可敦城とは名ばかりの砦である。 その砦は朽ち、城門は無く 蒙古族の遊牧民が冬の家に使っていた。 五六家族であろうか。 彼らは城門近くの 部屋に居住しているらしい。 城門を潜り、中央の広場に集結している耶律磨魯古の運搬先遣隊の将兵の中から、年長の将兵多郁を耶律大石は呼び、使えそうな部屋を兵の宿舎に、倉庫に 集会所、また 家畜舎の場所を決めるように指示を与えた。 将兵が機敏に動き始めた。 その動きを眺めつつ、 チムギと耶律大石が砦城内を歩いている。

砦の中央に約100m四方の広場があり、二を降ろしている兵馬が60頭、将兵の騎馬30頭がひと塊に繋がれている。 足首を結わえつけられているのだ。 広場の外縁には、駱駝、馬を繋いだであろう 門型の木柱が至る所で朽ち果てていた。 広場を囲むように日干し煉瓦の壁が囗状に連なり部屋を作っている。 その部屋と部屋は木材で作られた片流れの屋根で繋がっている。 囗状の砦の南側の中央に城門跡があり、門は朽ち果て広場から陰山が視える。 その門の左右に大小の小部屋が20ほどあり、その部屋を遊牧民が冬営に使っていたのだ。 各部屋への戸も朽ち果てたていた。 毛皮で塞がれている。 この砦に近づいた折に気付いたが南の外壁には開口部たる窓は皆無であった。

北側は石を積み上げ 強固な造りであった。 東西に城門跡がある。 各部屋の広く、 北側の外壁にも窓は無かった。 しかし、広場に面する南の壁には大きな開口部が有り、部屋は明るく、陰山が望める。 だが今は単なる開口でしかない。 北側と南の城門は石と粘土で積み上げられ、幅5メートル程で3メートル程の高さ。 矢を射る腰壁を備えた歩哨用陸屋根に成っている。 踏み板は朽ちているも支えの梁材はしっかり残っていた。 南と北の建造物を繋ぐ木材の壁で城壁としていたのであろう主柱は残っていたが、 板材が朽ち、梁に引っかかっている。 また 要所に築かれていた干し煉瓦の擁壁の多くは壊れている。

大石は使えそうな板材で東西に延びる北側建屋の広場に面した開口部を修復せねばと、また 緊急の対処として野営天幕にて寒さを塞ぐ手当を講じなければと思いながら歩いている。 取りあえず、 北側の部屋をチムギに選ばせた。 北側の各部屋には調度品が在り、そのまま使えそうなものが多かったからである。

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 屋根は木材の梁に小梁が組まれ、小枝の垂木に葦がひかれている。 葦は泥と砂利で押さえ込まれているのであろうか薄く積もった雪面には小石が現れていた。 屋根からの寒気の侵入は無さそうである。 見回り終えた大石は 安堵していた。 30余名と馬100余頭がマイナス40度の酷寒を耐え凌ぐにはことが十分と判断したのである。 また、北側の建屋に残っていた家具に満足を覚えていた。

耶律磨魯古の指揮で搬入した兵糧は南側の空き部屋に搬入、東の城壁沿いに風除けの仮設囲いを設けた耶律磨魯古が、その囲いの中に兵馬を追い込んでいる。 古参の多郁が野営天幕を転用した幕で宿舎用にする部屋の開口部を塞いでいる。 三十名の将兵は多忙であった。 大石とチムギは南の城門近くの小部屋を占拠している遊牧民に会いに行こうとしたとき、耶律楚詞達が可敦城周辺の地形を確認する偵察を終えて帰って来た。

楚詞を先頭に耶律遥、曹舜、畢厳劉が競うように城門を潜り やや遅れて何亨理が大石の前で下馬している。 彼等の帰還を視止めた耶律磨魯古が近づき、彼等の馬を曳いて行った。 大石と楚詞とチムギは短い会話の後、先ほどから中央広場の動きの様子を傍観している遊牧民の男の方へ足を向けた。 耶律遥、曹舜、畢厳劉の三名に多郁が話しかけ、北側の宿舎部屋に歩んで行く。 日は 西に傾きかけている。

大石は佇む蒙古族らしき牧民に話しかけた。 老人である。 他にもこの古城を越冬の宿泊場所に利用しているのであろうが、出入口と窓を毛皮で被っている部屋は四か所のようである。 老人はこの場と楚詞たちが偵察してきた遊牧民の長であった。 楚詞の話では東方に七張のゲル、北方に五張のゲルが散在していると先ほど報告していた。

長はウリヤンカイ部族であった。 ウリヤンカイは蒙古高原の北部が故地なのだが、契丹が漢中で王朝を建設し出した頃より、彼等ウリヤンカイは その勢力を拡大し、多くは南下を開始していたのだ。 勇敢な部族である。 この長は、一族を率いて異邦のこの地に定着したのであろう。  長は大石の名を知ると、床に頭をつけて平身低頭した。 その姿には遊牧民の素朴さと この小さな集団を統率する威厳のような風格が漂う。 ひと目見交える前から、大石はこの長が城内の重要な器物の破損や流用をしていないことから、この長は信用に足る と判断していた。 大石は彼を立たせると、しばらく共に生活する事になろうと告げた。 長の表情に何の変化も起こらなかったが、彼は何かを知っているであろうと感じつつ楚詞とチムギを誘って城門上部の見張り台へと登って行った。

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 見張り台は矢口を設けた腰壁で南と東西の三面で囲まれている。 大石は楚詞から城外の地形状況を聞きつつ、西側と南の陰山側にある大小の窪 また 帯状に続く深い窪みは雪解け水を集める河川であることを確認した。 これらは天与の塹壕だとも理解した。 また、大石は東西の外壁を大きく膨らませ、干し煉瓦で2m程度の城壁と堀を設ければ 堅牢な城が築けると確信する。 200余名の将兵も収容可能、馬は拡張して膨らませた場所に畜舎を設ければ事は澄むと直ちに砦補強と改築の構想を得たのだ。

彼は陰山山麓と東方の平原を眺めつつ、兵糧さえあれば 籠城戦にて 十倍の2000程度の敵兵は簡単駆逐できる。 この地の蒙古族とウリヤンカイやウイグル(回紇)、カルルク、バスミル、沙陀族を取り込めば阿骨打の女真族に対抗できると確信していた。 遠祖の故里 小興安嶺山脈にて再起を図るか、蒙古族に同化し、再興を図るかは、考えていなかった。 この広大な草原が大石に思考の回路を変えさせる作用をしたのかも知れない。

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===== 続く =====

                         *当該地図・地形図を参照下さい

 

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