小説・耶律大石 第二章(05節)

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  見張り台を降りた大石は未だに佇む長老に何事か告げると広場を横切り北側の建屋に歩み寄って行った。 その建物の中央部、下屋の廊下に耶律遥を見つけた多郁が彼に近づきざま 彼の袖を引きながら 足早に広場の中央に向かった。 大石統師から言われた城内の当面の使い方について耶律遥の知恵を借りながら決めようとしているのであろう。 耶律大石は一任した任務については全く口を挟まない指導者であった。 老兵の多郁は部屋割りとは言え任された以上は最善を尽くそうと年は若いが人望がある知恵者の遥の助言を取り入れたものにしたかった。

北側の建屋の中央には大きな部屋があった。 その部屋には両脇の部屋に通じる扉があり、堅固な黒檀であろう扉は軋むことなく開閉できる。 この部屋のみが四辺の壁を石で積み重ねた構造で野性味がある。 西隣りの部屋との石壁には暖炉が設けられていた。 多郁が気を使ったのであろうか、大石がこの部屋に入り前から燃える黒い石が淡い炎を立てている。 また、両脇の部屋の寝台や机・椅子等の備品も黒檀であろうか必要な物は揃っていた。 天井すら造られている。

これら連結して北側建屋の中央部を構成する三部屋は、蒙古高原の獣皮、羊毛やフェルトや乳製品と漢南の茶葉と穀物の交易基地として開設した北庭府の管理事務所の中核だったのであろう。 見渡す限りの平原の真っただ中に、遼王朝を建国しその権勢を拡大させていった耶律大石の五世代前の遠祖たちが、近隣の遊牧民を従わせると同時に北方のキルギスやウリヤンカイの侵攻を防ぐに適したこの場所を前哨基地とし、時の推移と共に この北庭府を増強 北庭都護府に昇格させては兵を駐屯させて可敦城なる交易と防塁を経営して来たのだ。

北側と南側の開口部なき堅強な外壁がそれを物語っている。 しかし、遼の王家は南下してきた女真族から、長城以北の遼の封土を侵略から守り切れずに長城の南に閉塞する状態に追い込まれた。 いや、今は 女真族を率いる阿骨打は遼の王家を壊滅状態に貶め、遼王朝の公臣たちを金政権の下僕にしているのだ。 放置されて一部は朽ち、破損しているとは言え、いまなお 堅強で機能的な可敦城である。

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  見張り台を降りた大石は未だに佇む長老に何事か告げると広場を横切り北側の建屋に歩み寄って行った。 その建物の中央部、下屋の廊下に耶律遥を見つけた多郁が彼に近づきざま 彼の袖を引きながら 足早に広場の中央に向かった。 大石統師から言われた城内の当面の使い方について耶律遥の知恵を借りながら決めようとしているのであろう。 耶律大石は一任した任務については全く口を挟まない指導者であった。 老兵の多郁は部屋割りとは言え任された以上は最善を尽くそうと年は若いが人望がある知恵者の遥の助言を取り入れたものにしたかった。

北側の建屋の中央には大きな部屋があった。 その部屋には両脇の部屋に通じる扉があり、堅固な黒檀であろう扉は軋むことなく開閉できる。 この部屋のみが四辺の壁を石で積み重ねた構造で野性味がある。 西隣りの部屋との石壁には暖炉が設けられていた。 多郁が気を使ったのであろうか、大石がこの部屋に入り前から燃える黒い石が淡い炎を立てている。 また、両脇の部屋の寝台や机・椅子等の備品も黒檀であろうか必要な物は揃っていた。 天井すら造られている。

これら連結して北側建屋の中央部を構成する三部屋は、蒙古高原の獣皮、羊毛やフェルトや乳製品と漢南の茶葉と穀物の交易基地として開設した北庭府の管理事務所の中核だったのであろう。 見渡す限りの平原の真っただ中に、遼王朝を建国しその権勢を拡大させていった耶律大石の五世代前の遠祖たちが、近隣の遊牧民を従わせると同時に北方のキルギスやウリヤンカイの侵攻を防ぐに適したこの場所を前哨基地とし、時の推移と共に この北庭府を増強 北庭都護府に昇格させては兵を駐屯させて可敦城なる交易と防塁を経営して来たのだ。

北側と南側の開口部なき堅強な外壁がそれを物語っている。 しかし、遼の王家は南下してきた女真族から、長城以北の遼の封土を侵略から守り切れずに長城の南に閉塞する状態に追い込まれた。 いや、今は 女真族を率いる阿骨打は遼の王家を壊滅状態に貶め、遼王朝の公臣たちを金政権の下僕にしているのだ。 放置されて一部は朽ち、破損しているとは言え、いまなお 堅強で機能的な可敦城である。

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  持ち込んだ 乾燥肉を中心に宴の料理が 北側の大部屋に並べられた。 大石は満足そうに中央に座り、楚詞とチムギがその左右に座っている。 毛皮の敷物の上である。 三人を中心に34名の若き将兵が床に並べられた大皿の料理を囲んでいる。 曹舜、畢厳劉、何亨理は楽器を持ち込んで 西域の韻律を奏でている。 毛皮は十二分に運び込んだようで、寝具にも敷物にも戦いの盾にも 防寒の幕としても活用するために運び込んでいるようだ。入城を祝う宴に集まった顔には喜びが満ち溢れていた。

宴が始まろうとしたとき、戸が開かれ 長が現れた。 長の後ろには木製の大皿を自分の頭より上に支える12・3歳の子供 二人が長の後ろから付き添っている。 その背後にも二人の若者が網で編んだ籠を持っていた。

長は 歩み寄り、一礼すると 「耶律大石様、 冬の事とて、青い采は叶いませんが 羊を二頭 料理して参りました。 お口に合いますかどうか判りませんが、若き勇士の方々にと思いまして・・・・」 と朴訥な挨拶をした。

二人の子供が頭上の皿を落とさぬように 緊張して近づいてくと、兵士達が座を離れ 道を開けた。 大皿は大石と楚詞の前に並べられ、籠の料理は将兵の円座の中心に置かれた。 大石と楚詞の前に置かれた大皿には 各々 料理された羊の頭が盛られ、血を煮沸して作ったゼリー状の固形物が添えられていた。 漢族の風習に感化している大石であるが、遊牧民が接客する最高の礼儀は屠殺し、祝宴に供する羊の頭部を主客に奉じるが最高の礼儀作法である事は熟知していた。 血の加工品が新鮮さを示し、供される食材が神の手で清められていることをも知っていた。 二人の若者が運んだ籠には 山盛りの羊の肉が盛られていた。 チムギは二頭の羊を提供してくれた長の度量の大きい篤いに ふと 燕京の老父を思い出していた。

 

厳冬期の草原で建設資材を入手するのは不可能に近い。 10日以上の旅をして 定着民の社会に赴き購入か、略奪するかしか方法がない。 表土は凍り、粘土ですら作れない。 勢い、手持ちの家畜の皮・骨 等しかないので これらは建設資材とは言えぬ であろう。 だが、蒙古高原は北庭都護府・可敦城の砦に入った諸将は苦難を苦難と感じない若さがあった。 新しい世界の創造に燃えていたと言える。 北辺から南下した契丹人の帝国である遼王朝の太祖耶律阿保機の末子である耶律牙里果の7世の子孫に当たる耶律大石に彼等全員が心服し、彼の意を推し量って行動する集団であった。

耶律大石は、28歳の時に科挙で状元となって翰林院へ進み翰林応奉に就いた。 太祖耶律阿保機が王朝の根幹として、開闢以降、中華の諸制度を政経の範とした。 模倣した制度の内、科挙制度は若き秀英たちが目指した最高の学位資格である。 官僚登用試験でもあるこの科挙に応試するだけでも名誉であった。 大石はその科挙の状元である。 第一等の成績を修めた者のみに与えられる称号が状元。 大石はそれを得ていた。 遼王朝開闢以来、100年にして やっと誕生した駿馬であった。 北遼皇帝・天錫帝の傍に登籠すれば。 軍事の天才でもあった。 また、彼の人柄に多くの才人が自ずと集まり、多くの異能者が彼の指示の下で働く喜びを覚えていた。

耶律大石が飛躍の足掛かりに選んだ、この地北庭都護府・可敦城は遼王朝が管理していた北方の遊牧民・蒙古族との交易の為に設けられた要塞である。 しかし、遼の衰退・崩壊に伴い見捨てられ、自然の為すままであった。 故意に人が破壊しない限り、木材は乾燥地帯では朽ち果てにくい。 例えば、長城の日干し煉瓦など 砂に埋没するだけで風雨による崩落はない。 また、蒙古草原の遊牧民の生活燃料は家畜の糞であり、木材の薪など使おうという発想すら持っていない。

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===== 続く =====

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