小説・耶律大石 第二章(11節)

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 オルドス地方(鄂爾多斯)は、現行の行政地区では内モンゴル自治区南部の黄河屈曲部、西・北・東を黄河に、南を万里の長城に囲まれた地方を言う。 黄河対岸(北側)の河套平原なども含め、河套(かとう)ともいう。 五原は河套平原の中央部にある湿原地帯であり、いたる所 自由気ままに蛇行した黄河が取り残したのであろう大小の湖、沼がある。  逆U字型に三方を取り囲まれるオルドスの大部分が海抜1500メートル前後の高原で鄂爾多斯高原と呼ばれ、南方 万里の長城を南に超えれば黄土高原に続く。

オルドス地方の中核地である鄂爾多斯からは、延安・銅川・西安の城郭都市はほぼ直線的に真南に位置し、楡林・大原・石家庄は真東に並んでいる。 鄂爾多斯に円の中心点を置けばこれらの城郭都市は等距離の同心円上にくる。 従って、モンゴル高原から華北、華北からモンゴル高原に通じる交通上の要衝が鄂爾多斯であり、古くは蒙古高原の支配者匈奴と秦・漢が争奪した地帯であった。 遊牧民族王朝(遼、西夏、元など)あるいは中華王朝(唐、明など)による支配を受けた。  しかしながら、オルドス高原の一部はステップであり、農耕には適せず遊牧民の世界であった。

因みに、後年にチンギス・カンが西夏の都興慶(現在の銀川)攻略のおり、西夏軍は30万以上を圧倒して夏期の避暑のため六盤山に本営を留め、ここで彼は西夏の降伏を受け入れている。 しかし、金から申し込まれた和平は拒否しつつ 金帝国攻略の戦略を練っていたのだが、突然 陣中で危篤に陥った。 このためモンゴル軍の本隊はモンゴルへの帰途に就いたが、西暦1227年8月18日、チンギス・カンは陣中で死去する。 彼は死の床で西夏皇帝を捕らえて殺すよう命じ、また末子のトルイに金を完全に滅ぼす計画を言い残したという。 元朝のクビライ・カアンはトルイの四男。

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 さて、五十名の騎馬武者を引率して、凍結する黄河を渡り オルドス東部を南下した耶律康阮は隊を東方に向け、楡林から大原に至る燕雲十六州南部の幹線路に将兵を分配していた。 この地帯は金と宋の国境であり、緩和地帯として東西に延びていた。 楡林の商人宿を連絡基地として散在していた。 他方、遅れて五原を出立した耶律康這の四十数騎はオルドス西南部で長城を越え、黄河東岸の昊忠に入って長城沿いに宋と西夏の動向を探る任務に就いていた。

 康阮と康這の兄弟はオルドス東南の長城脇の望夏邑の商人宿で連絡を取り合っていた。 康這が居る昊忠から黄河の流れに沿って下流に北上すれば、一日で興慶 二日で鳥海にいたる。 また、南下すれば広陽、威陽、を抜けて長安(西安)に至り 南宋の城郭に繋がる重要な地点であった。

 厳冬期の北庭都護府・可敦城に200余名の騎馬兵が準備も無く集結して越冬する事の困難さを配慮した大石総師の策ではあるが、兄弟の任務は重い。 天祚皇帝が向かう先は西夏への亡命は、総師と石抹胡呂の策動が西夏の要人であるセデキ・ウルフを動かし、潰えたであろうと思われる。 今 天祚帝が連絡を取り、延命を託せるのは宋である。 しかし、宋は金に攻め込まれて燕雲十六州の支配権を奪われ、金と西夏の関係も怪しくなっている。 その緩衝地帯に彼らが滞在し、三者の動きを偵察しているのだ。

鳥海の商人・忠弁亮がバイカル湖の南域 南面する山丘の麓の窪みで冬の野営を営むキルギス族の村落を回り、可敦城に戻って来たのは厳冬の厳しさが緩み始めた1125年の早春、高原は未だに茶褐色の死の世界で、よく見れば 青き息吹が目覚め始めたと知れる。 120余頭のラクダを曳く忠弁亮に着き従いように古参の多郁が城門を潜り、最後尾を畢厳劉が二十名も騎兵を従え帰還してきた。 一週間前にタタルの動きを探ってきた耶律楚詞と石隻也が耶律大石の執務室で話し込んでいる折に、彼等が帰って来たのだ。

畢厳劉と忠弁亮が前後を互いに譲りながらその部屋に入り来て短い報告をした後に二人して退室していった。 時を置かずに、中央広場で駱駝を纏めるよう指示している忠弁亮の背後に石隻也が近づき『総師さまが北の話が聞きたい、明日の出立など考えずに都合が良ければ二三日付き合って下され』との伝言を伝え、返事も待たずに多郁を探しに北側棟の小部屋に入って行った。 忠弁亮の随行人15名の寝床と駱駝を繋ぐ場所の設営を依頼する為である。

三日後の早朝、朝日が東を空を赤く染める草原を、120余頭のラクダ隊の先頭に連銭葦毛に跨る耶律楚詞の左右を忠弁亮と石隻也が騎馬にて並び鳥海への隊商路を南下していた。 彼等の背後に続く忠弁亮の随行人15名はそれぞれに7,8頭の駱駝を綱で連結して曳いている。 駱駝の背には羊の皮、貂や野鹿、狼等の毛皮が満載されていた。 耶律楚詞と石隻也は陰山山脈南麓の先遣来隊基地に向かうのである。

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 楡林から大原に至る燕雲十六州南部の幹線路に将兵を分配し金の動向と宋の暗躍に五十名の将兵を配して情報を集めていた耶律康阮が望夏邑の商人宿に入った。 オルドスから長安に向かう南北の交易幹線路が西夏の昊忠から楡林・大原と繋がる東西の幹線公路と十字に交差する望夏邑、 その商人宿には耶律康這が二日前から待っていた。 五原の天祚帝が王庭を離れて はや二月は過ぎた頃である。 兵糧が心もとなくなっていた。 黄河の左岸に位置する昊忠から北上する黄河に沿って一日の道程で、西夏の都興慶 二日で鳥海に至る。 五日前に康這は興慶にて何蕎に会っていた。 康阮と康這の兄弟はオルドスに潜伏していた二ヶ月の間、定期的にこの商人宿で合い 情報交換を行っていたのである。

万里の長城が東西に二重、三重に重なって築かれている中間部の荒れ地の小川沿いに望夏邑がある。 春は未だに感じる事はなく、冬の商人宿は活気がない。 それでも、さすがに東西南北の幹線公路が交わる邑、商人宿は十指以上と思われる。 しかし、街道に賑いの無いのは、金と宋 また 金と西夏の関係が険悪である事を如実に示して、冬の暗さに染めているのであろう。

門構えの大きな宿の部屋で、康這が一人の人物を伴って待っていた。 部屋には炉が置かれ、その小部屋は温かかった。 二人が談笑している。 馴染みに成った店番に案内された耶律康阮がその部屋に足を入れ、談笑している弟の話し相手に強い視線むけて口を開いた。 その人物は、見るからに風采のあがらない小男、だが 身に付けている衣服から子柄でも漢南の地主の息子か、裕福な家で育った落ち着きと風貌を持っていた。

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 「兄者、急に呼び出して申し訳ない。 約束の会合には早いのだが、五日前に興慶に向かい 今後の兵糧につき 何蕎殿の知恵を借りにいってきた。 興慶では欽宇阮殿には会えなかったが、何蕎殿の計らいでセデキ・ウルフ殿に見まえ、西夏国の策とする我々への支援を伺った。 この支援を受けるか否かは兄者の決断なのだが、ここに居られる宋江殿を紹介され、宋江殿の意向にてこの邑にまで案内して来た。 この邑に二日前に到達し、連絡を走らせたのだ」

「まずは、自己紹介をいたそう。 身どもは、山東は青州の地主の次男で県の胥吏 小役人を務めておりました宋江。 行きがかり上で、人を殺めてしまったことから逃亡を余儀なくされ、各地を流転し、その間数多くの人物と出会って また 縁が在ったのか 彼らの梁山泊入りへの案内人を務めているしだいです」

「梁山泊の天魁星とは・・・・・山泊の宋江殿でしたか。 これはこれは・・・・・先年、幾度も宋軍の後背を 梁山泊の豪傑諸将を率いて攪乱し、わが遼帝国軍事統帥耶律大石を支援して頂いたと聞いております」

「お恥ずかしい、・・・・・・あれはいつの日でしたか・・・・耶律抹只殿が梁山泊に参られたことがありました。 耶律大石殿の文を携えて。 文には、自分は摩尼の《光明の父》から命を受け華北の“公正な正義”の任を命じられた。 ついては、漢中の“生ける霊”と漢南の“第三の使者”の三者で《光の王国》を建設しようとの記されておりましつ・・・・・」

 

「さて、私くしどもには・・・・・ 《光明の父》とか《光の王国》が何を示し、如何なる意味なのかは計り知れませんが・・・・・・・ それはともかくとして、宋との戦いでは 後方攪乱の支援がなければ、あのような勝利を得る事はあり得ませんでした。 今 改めて お礼を申し上げたい。 それにしましても、如何なる理由で弟に同行なされましか・・・・・・」

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 「兄者、漢中一の豪傑で在られる宋江殿が西夏の重鎮セデキ・ウルフ殿の含みに、義を重んじ困窮する者には援助を惜しみなく与えを是とされる梁山泊の首領が腰を上げておられるのですよ」と叱咤するように言う。 「いやいや、身どもは、文を頂くなでは遼のことなど何も知らなかったのです。 況して、耶律大石殿の事など、小指の先ほどにも 何も知りませなんだ。 ただ、耶律様の文を届けて下された耶律抹只殿の事は、宋の官警や密偵に追われる境遇の我等の事です故に お会いする前に 仲間の燕靑に調べさせた後に 密かに会ったのです 」

「耶律抹只は私くしどもの縁者ですが・・・・・さて」

「そうだったのですか、燕靑が申すに 耶律抹只殿は軍人でありながら 大同軍節度使に転じたおり、この年、霜害のために食糧が不作だったようで、民衆が税を納めるさいに例年は一斗の粟を5銭に換算して納めていたものを6銭で換算して納めさせるよう上奏し 実践された方と聞き、お会いし その立振舞にも敬服したのです。 また、手にした文は、具体的な委細や依頼などの世事は全くなく 知る者のみが心温かく精読できる見事の心情が吐露されているものでした。

むろん、耶律大石殿の手紙が意味するところは、《光明の父》を心の中に持つ者にとって 宋や金がいかに在れ、我が王国を築くのみと公に明言されている文面でした。 耶律大石殿が背負っておられる遼の王朝がいかに在ろうと 耶律大石殿が目ざされる世界が余すことなく読み取れたのです。

「私くしども、兄弟には ますます理解しがたいお話し。・・・・・兄者、抹只叔父から何か聞き及んでいるかな・・・・・    ここ四五日のお付き合いで宋江殿の痛快無比の武勇伝を聞いてきたが、この先の話はお酒を交わして 拝聴致せば いかだろうか・・・・・」

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===== 続く =====

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