小説・耶律大石 第二章(14節)

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 翌朝、何蕎の案内で耶律康阮と康這の兄弟、梁山泊の宋江、呉用、燕靑の六名が一団と成ってセデキ・ウルフ邸に出向いた。 西夏の都である興慶は黄河の左岸に広がる黄土高原の北東端に位置しており、地勢は全体として南が高く北が低い。 南部は黄土高原や六磐山地が大部分を占め、北西部は寧夏平原が大部分を占める。 賀蘭山が西部にあり、鄂爾多斯は黄河の対岸である。

因みに、北西部は寧夏平原の奥にアラシャン砂漠が広がる。 ゴビ砂漠と対比されるアラシャン砂漠の西部には西夏の城郭アラシャン王府がある。 草原のシルクロードと幹線シルクロードを結ぶ重要な交易路の中間点が阿拉善王府。 この城塞から南に向かえば酒泉で幹線シルクロードと交わる。 酒泉は河西回廊の西端、西に嘉峪関、哈密、吐魯番と天山地方に続く。 南は敦煌、玉門関、吐蕃・拉薩に抜けると云う要地。

酒泉は西夏王国の生命を握っていた。 西方の富がこの地に集まり、西夏王国の商人によって東方に齎され。 東方の富が西夏を経由して酒泉に集結され、パミールを越えてイラン、ペルシャに流れて行った。 必然的に、酒泉には大きなソグドの集落(コロニー)がある。 ソグド人は、イラン系のオアシス灌漑農耕民族だった。 しかし、マケドニアのアレクサンドロス大王の東方征服に激しく抵抗した結果、故郷を追われ、パミール高原東方の要地に移住した。 以来、彼等は交易を生業に シルクロードを行き交っていた。

また、五世紀 唐がパミールを越え、イラン東方までその勢力を拡大して行った時代。 北方の騎馬民族が南下を開始する。 北方遊牧民族の雄、蒙古草原の覇者であるウイグル族が、騎馬10万でゴビ砂漠を南下。 漢中を侵略し、南方の吐蕃すら馬蹄で荒らし始めた。 その結果、ウイグル、吐蕃、唐の間に三国会盟が締結される。 その後、豊潤な漢中に侵攻したウイグル族は、彼等の騎馬軍団を活かした軍事顧問として また 政経に長ける政治顧問として盤石の基盤を唐王朝の中枢に築いて行った。 厳しい自然環境で生き抜いて来た彼等の民族的な団結力誠に強かったのです。 このウイグル人とソグド人が手を結んでシルクロードを専有した。 ウイグルの戦闘力とソグドの経済力が唐の初期の時代から一体化していたのです。

また、蒙古高原から西方に侵攻したウイグルの一派は、シルクロードの要地トルファン盆地とタリム盆地北部がウイグルの領国として支配して行った。 後に、遼王朝が開闢するに前後して、タムリ盆地を中心とする天山ウイグル王国が誕生するのですが、ソグド人達はマニ教徒だった。 また、彼等は文字を持っていた。 遊牧民のウイグルはソグドと互いの利益が一致し出した時から文化を共有し合った。 ソグドは交易の移動に移動家屋であるパオを利用した。 ソグドの血はウイグル族に飲み込まれて行った。 ウイグル族がマニ教に染まるにはさほど時間が掛からなかったし、ウイグルはソグド文字を改良して自分たちの文字を生んだ。 その結果、天山ウイグル王国は世界史上唯一となるマニ教国家を創り上げたのです。 因みに、ウイグル文字を中華風に縦書きにしたのが、蒙古文字。ジンギスカンの時代です・・・・・

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  やや 横道に迷い込んだようですが、興慶の何蕎宅に寄り集まった耶律康阮と耶律康這の兄弟、梁山泊の豪傑100余名を束ねた宋江、その軍師であった呉用、あらゆる事に通じる美青年の燕靑たちが、 それぞれ 二三日中に この地方に旅立つのですから 今一歩 興慶西方の地政上の最重要要地である酒泉について・・・・

前漢の第7代皇帝武帝は初代皇帝高祖劉邦の雪辱を復したのがこの地である。 紀元前200年のこと、天下統一を成した劉邦は 定期的に北方の穀倉地帯を侵略する匈奴の冒頓単于を討てと、忠臣第一の武将 戦上手の将軍 韓王信を派遣した。 しかし、皇后 呂雉の偽りの妄言を信じた劉邦は韓王信不審を抱いて終しまった。 韓王信を翌年 匈奴に攻められ 冒頓単于に降り、自軍を率いて反乱を起こしてしまう。 劉邦は反乱軍制圧に親征して これを下し、更に 北へ軍を動かした。 しかし、冒頓単于は弱兵を前方に置いて、負けたふりをして後退を繰り返したので、追撃を急いだ劉邦軍の戦線が伸び、劉邦は少数の兵とともに白登山で冒頓単于に包囲され、命からがら包囲網を脱し 和議を結んだ。 この和議は匈奴が兄、漢が弟の関係を明示していた。 毎年 膨大な貢物と王女を貢ぐと言う屈辱的なものだった。

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 60年後、漢の武帝は、寵姫の衛子夫の弟衛青が幼少から匈奴と境を接する北方で羊の放牧の仕事をし、匈奴の生活や文化に詳しかったことから 寵姫の睦言を信じ、また 戯れから 匈奴征伐に際して衛青を車騎将軍に任命し、戦場に出した。 ところが、衛青は思いもよらぬ実績を挙げて凱旋したのです。 霍去病は衛青の姉、衛少児の子であった。 霍去病の伯母にあたる武帝寵愛の衛子夫が戻太子を生んで皇后に立てられたため、親族にあたる霍去病も武帝の覚えが良く、寵愛されていた。 彼は、騎射に優れており、18歳で衛青に従って匈奴征伐に赴いている。 その後も何度も匈奴征伐に功績を挙げ、3万の首を上げ、紀元前121年に驃騎将軍に就くや河西回廊を制圧すべく遠征に向かった。 驃騎将軍の霍去病は破竹の勢いで匈奴本陣を撃破、河西回廊を西進した。

紀元前119年、霍去病が匈奴の本拠地を撃破し、匈奴を打ち負かしたことを聞いた漢の武帝は、10 樽の酒を彼の本陣に送った。 しかし、20万人もの兵士全員にいきわたるはずはなく、霍去病はすべての兵が平等に皇帝からの酒を頂き、戦勝を祝うために酒を泉に注ぎ込んだ。 すると泉の水が濃厚な酒の香を放ち、その美酒はいくら飲んでも尽きることなく沸き続けたと言う。

これにちなんで、「酒の泉」と呼ばれるようになったのだが、地政学上 この酒泉は最重要の城郭都市である。 因みに、大功と武帝の寵愛により権勢並ぶ物が無くなった霍去病だが、紀元前117年、わずか24歳で病死した。 匈奴打倒を達成した武帝は泰山に封禅の儀式を行って、自らの功績を上天に報告した。 その折 息子の霍子侯は武帝封禅の儀において、武帝の供をした唯一の将官であったと言う。

さて、大酒のみの宋江一行がこの酒泉を訪れるのは相応しい・・・・・歴史は繰り返すのか??、上記の話は武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書【史記】の華です。 ただ、追記すれば・・・・紀元前99年に司馬遷は、匈奴に投降した友人の李陵を弁護したゆえに武帝の怒りを買い、獄につながれ、翌年に宮刑に処せられる。 司馬遷は、獄中にて古代の偉人の生きかたを省みて、自分はしっかりとした歴史書を作り上げようと決意したと言う。 この史記の最終章の華である李陵に纏わる史実。

匈奴討伐の戦功著しい将軍であり 李陵の将官である李広利将軍が ふたたび勅命を受け、匈奴討伐のためにオルドス北方の五原から陰山山脈に匈奴を追い詰めていた折、“巫蠱の獄”に連座したとの偽りの密告で、将軍の妻子も処刑された。 この時、李広利将軍は勝ちに乗じて匈奴を追撃していたが、この家族に仕向けられた凶報を聞き、失意ののち匈奴に投降する。 李陵は疑いが晴れた失意の李広利将軍を助ける為に投降して救援するのですが・・・・・・。

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===== 続く =====

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