小説・耶律大石 第二章(17節)

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苞力強は脆い山肌に道を拓いていた。 ゴビ砂漠を南北に断ち割っている陰山山脈が東西に横たわる中間部であろう。 山脈の幅が大きく、小さな山並みが東西に三層並ぶ。 苞力強は五原北東にあるダルハンの水場の設けた先遣隊支援砦から北東に延びる枯れ沢の川床を遡行して陰山山脈に分け入り、蒙古高原へ続く間道を整備していたのである。 この間道は遊牧民が山中の草を求めて羊を追った道であり、陰山山中に網の目のように広がっていた.

しかし、遮二無二、真北へ進んでも北側にもゴビ砂漠が横たわり 兵馬や兵士の飲み水の保障は無い。 北へ脆い山肌の斜面を登り、下りて谷を横切り 再び登って北への道を拓く。 この道は北庭都護府・可敦城と張家口を直線的に結べば、最短の陰山山脈越えの間道と成る。 北側に抜け切れれば、蒙古草原を東西に走る交易幹線道のマンラン邑に至るはずであった。 しかし、金の侵攻で陰山南山麓の遊牧民は四散してしまい、まして、冬季に羊を追う遊牧民などはいない。 道案内になる人も情報の無かったのである。

ただ、苞力強には苦い記憶があった。 彼が、成人の儀式に臨む少年最後の日にタタル族に父を殺された。 その折、父の親友であり、後見人になるはずのケレイトの長が、ゴビ南の遼に向かい 燕京に居られる耶律将軍に縋れと道を教えてくれた。 遼の力でタタルの一派への指弾を また 父の仇を取るために陰山山脈を南に抜けた経験があった。 彼が必死で踏破した道は、振り返れば、その道は山脈東方の二連浩特から鳥蘭祭布に南下した後、張家口から燕京に至る交易の幹道であった。

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 耶律時は、万里の長城に於ける裏の第一門と言われ、重要な大境門の北側に基地を設けて、金の動向を探っていた。 彼の基地は張家口城郭の北、馬足で半日の距離にあるこの大境門城郭が覗える谷間にあった。 長城北側を長城に沿って走る間道に近接している基地に、20騎の精鋭を配し、日夜東西へと巡回の偵察を行っていた。 また、 定期的に陰山山麓に設けたダルハン砦に帰還しては、苞力強や耶律巖と種々の状況分析と指示を与えていた。 大境門城郭からダルハン砦まではゴビ砂漠縦断の三日の旅程、時は二日で踏破していた。

時の指示を仰いで徘徊する勇者20騎は四つの班に分かれて、東方は砂漠東端の錫林郭靭まで巡回しいている。 この場所から東方に大草原が広がり 何時しか 大興安山脈山麓に連なる契丹族の故郷に行き着くのだが、この地より南に転じて赤峰、承徳から長城に沿って戻る。 燕京の北域を偵察している。 そして、西部の巡回は、鳥蘭察布から呼和浩特までの地域を巡る。 燕雲十六州の北域地帯で南の金軍勢と北西の五原、天祚帝の動向を探っている。 時折、オルドス北辺の包頭城郭や羅農邑に潜伏している間諜からの情報を集めて来る。

苞力強は、先週 耶律遥が鳥海の忠弁亮を案内して、間道の造営に必要な第一次資材を運び込み終えた以来、十名の兵と共に道の普請に汗を流している。 砦は、当面の間 誠実な耶律巖が預かる事と相談して決めていた。 なにの心配もない。 前触れも無く 時殿が帰還されても、笑って頷かれるはずと彼は確信していた。 山中 日陰の斜面には雪があるが、汗する作業が続く。 十日後には第二次の資材が届手配で、諸事 急いで進行させねばならない。 山脈北側の緩やかな斜面に到達するまでの南側な脆い山肌の連続、しかも 急な上り下りの連続が続く。 着工する前に北に至る道筋は調べてある。

大石統帥さまの指示は、短期間の内に北に抜ける間道を確保しろとの短いものであった。 しかし、遥殿を交えた巖殿との造営打ち合わせの折に この間道は、金軍が五原を落とし 可敦城に向かう金軍の横腹を突くダルハン砦への北からの補給路なのだろう。 がしかし、四五十の兵ではダルハン砦は守り切れぬ。 考えれば、この道は可敦城への退路でもあろう。なれば 要所に敵撃墜の仕掛、“岩落とし”を髄所に設け、兵糧を随所に隠し置き、兵馬の飲料水の備えが肝心になるはずと言ったことから 苞力強が責任者に成ったのだ。 彼は戦いではないこの任務に満足している。 鳥海に戻った耶律遥が諸々の追加資材、隠し置く兵糧、水瓶等を手配して順次送りつけるであろう。 砦の半数を道普請に割く許可を時殿から頂かねだならぬと・・・・・・

 

間道の造営を開始した苞力強は人が変わったような武人になった。 彼は、この半年しかった。 大石統帥さまの指示でそれぞれの将がその器に充当する任務を与えられ、統帥さまの夢実現に賭けている。 彼等は苦難を喜びに変えている。 しかし、我は統帥さまの計略で長城を越えたタタルの一派のはぐれ狼を父の仇として討ち果たしたあの寸刻以来、 我を失っていると悩んでいた。 統帥さまに心服した我を 取り巻きの一人にしてもらっているが、汗することなく 追随の日々であったと苦悶していた。

彼は、心の中で自分を叱咤し、鼓舞していた。 北の草原は、俺の故郷。 友がいる。 しかも、このみちの造営は大石統帥さまの飛翔を守る大切な道。 友に会える。 そう 我ら蒙古族が言う肉親の血よりも濃い交わりを誓う義兄弟の“アンダ”がいる。 父のアンダ、我の後見人であるケレイトの族長ソルカン・シカが、彼の息子で我のアンダ、バインタラがいる。 彼等に会えれば、必ず統帥さまの夢は実現するはずだ。 このつぶやきが若い苞力強を変えたのであろう。

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 黄河屈曲部で、西・北・東を黄河に、南を万里の長城に囲まれた鄂爾多斯地方は大部分が海抜1500メートル前後の高原でオルドス高原と呼ばれ、南側は黄土高原に続く。匈奴、趙、秦、漢によって次々に征服され、北方の遊牧民が南下し、その侵略を防ぐ為に秦の時代から万里の長城が築かれた。 黄河北側は河套平原と呼ばれ大小の湖が散在する。 河套平原とオルドス高原を区切り、西から東に流れる黄河の川床は広い。 堤らしき土手の隆起も無く、黄色く濁るその流れは自由気ままに蛇行し 毎年 流れる場所を変えているようである。

冬季には緩やかな流れから氷結し、何時しか騎馬や荷車が行き来可能な氷の原野と化す。 しかし、万里の長城以南の黄土高原を深くえぐる黄河の流速は激しく、渡渉できる箇所は限られている。 黄河を俯瞰すれば、蘭州辺りから北に流れる黄河流域で、昊忠近郊には数か所、興慶(現在の銀川)の南郊、興慶と鳥海間には二ヵ所の渡渉地点がある。 そして バヤンノールから黄河は東に流れる。

包頭東方から黄河は南下するのだが、どの流れが本流なのか判別できない様で燕雲十六州西端地区の朔州境辺りで、大河の様子を再築して再び黄土高原の中をほぼ真南に向かい、陝西省で渭水と合流する。 今度はまっすぐ東へと向かう。 そして、華北平原をまっすぐ東へと向かい、渤海に黄濁したチベット高原の水を注ぐ。  本稿に関与する黄河は、オルドス・ループ北東部の黄河は河川ではなく自由に往来できる河原であり、冬季は氷原なのである。 また、黄土高原を流れる黄河は、深い谷をなしながら流れ、蘭州などいくつかの街を除いては切り立った崖に周囲を囲まれ、灌漑などに水を利用することは困難で、無論 渡渉できる箇所は無いに等しく天与の障害物なのです。

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===== 続く =====

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