シオンへの夢と闘争-02-

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 シオニズムの運動に全てのユダヤ人・ユダヤ教指導者が賛同したわけではなく、西欧社会で確固とした地位をえているユダヤ人、特にディアスポラ =イスラエル・パレスチナの外で離散して暮らすユダヤ人集団= の傾向を示す改革派 =“西方ユダヤ人”とも呼ばれる人々= の中には関心を寄せない者もいました。 また、伝統的なユダヤ教徒には、メシアによるイスラエルの再建というヤハウェの約束を信じてきた観点から、シオニズムをユダヤ教のメシア信仰に対する裏切りであるとみなし、反対する者が多かった。

核心が政治的なもの、あるいは「民族的なもの」なのか、宗教的なものなのか、様々な解釈の違いもあったのです。   努力を尽くしたシオニズム運動の成果によって、世界中のユダヤ教徒の置かれていた異常な事態から解放され、大きな宗教的、文化的、精神的、民衆的帰属先を持つことができれば、ユダヤ人にとって、建国の形はどうであれ、これは何物にも代え難い大きな喜びであるはずです。 従って 自ずと シオニズムのうねりは大きく成って行き、エリエゼル・ベン・イェフダーの研鑚によるヘブライ語の復興はシオニズム運動の大きな成果の一つとなった。

=1878年、ダウガフピルスの学校を終えたベン・イェフダーは医学を学ぶため、パリのソルボンヌ大学に留学するが、そこで彼が最も関心を持ったのはヘブライ語のクラスであった。そのクラスではヘブライ語で授業が行われており、このことはヘブライ語を日常言語として復活させるというベン・イェフダーの決意を固めさせた。 パリ留学中、ベン・イェフダーはいくつかの論説をヘブライ語で発表し、ユダヤ人がイスラエルの地でヘブライ語を日常言語として使用する意義を説いた。   1879年、ヘブライ語の月刊誌『夜明け』(HaShachar)で、初めての政治的な論説『重要な質問』を発表し、「イスラエルの民(ユダヤ人)は、イスラエルの地でヘブライ語を使用すべきである、なぜなら共通の言語なしに民族は成り立たないからである」と述べた。 その論説において彼は初めて、ペンネームとして「ベン・イェフダー」と署名し、留学から3年後の1881年、ベン・イェフダーはパリでの医学の勉強を辞め、彼の理想を実現させるべくパレスチナに移住した=

※ シオニズムという呼称は、1890年代、オーストリアの同化ユダヤ人であるナータン・ビルンバウムにより考案された。

ユダヤ人への冤罪であるドレフュス事件を取材していたオーストリア人記者テオドール・ヘルツルは、ユダヤ人自ら国家を建設し諸外国に承認させることを訴える。そして1897年バーゼルで第1回シオニスト会議を主宰。後にヘルツルは建国の父といわれる。1917年にイギリス外相が「パレスチナにおけるユダヤ人居住地の建設とその支援」を約束したバルフォア宣言が出される。1947年に国連によるパレスチナ分割決議を経て、1948年イスラエルが建国され、ユダヤ国家が誕生した。

シオニズムの運動に全てのユダヤ人・ユダヤ教指導者が賛同したわけではなく、西欧社会で確固とした地位をえているユダヤ人(特にディアスポラの傾向を示す改革派など。「西方ユダヤ人」とも呼ばれる)の中には関心を寄せない者もいた。また、伝統的なユダヤ教徒には、メシアによるイスラエルの再建というヤハウェの約束を信じてきた観点から、シオニズムをユダヤ教のメシア信仰に対する裏切りであるとみなし、反対する者が多かった。核心が政治的なもの、あるいは「民族的なもの」なのか(この場合、ユダヤ人を「民族」として定義する傾向が強まる)、宗教的なものなのか、様々な解釈の違いもある。

努力を尽くしたシオニズム運動の成果によって、世界中のユダヤ教徒の置かれていた異常な事態からは解放され、大きな宗教的、文化的、精神的、民衆的帰属先を持つことができ、ユダヤ人にとって、建国の形はどうであれ、これは何物にも代え難い大きな喜びであった。

ヘブライ語の復興はシオニズム運動の大きな成果の一つといえる。イディッシュ語ドイツ語を公用語にしようとする計画もあったが、ホロコーストによってその望みは断たれた。

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 シオニズム指導者とアラブ民族指導者の言葉 

・ 「私はユダヤ教徒(ユダヤ人)であり、シオニストである。私にとってこの二つは切り離せない一つの拠り所である。またこれが、歴史的なユダヤ教の立場であるとも考えている」―ラビ・エマニュエル・ラックマン

・ 「私達アラブ人、特に教育と知識のある者は、シオニズム運動に対して心から共感を覚え、見守っている。(中略)私達アラブ人は、ユダヤ人帰還者を心から歓迎する。我々は改革され、更に改善された中東社会を求め、共に働くつもりである。二つの運動は、相補的であり、また民族的であり、帝国主義的なものとは無縁である。シリアには二つの民族が共存できる余地がある。実際に、どちらか一方が存在しなければ、これは成功する運動ではない。(中略)私は、私の民族と全く同じように、我々が支持しあうようになろう将来を、楽しみに待っている」―ファイサル1 (イラク王)からフェリックス・フランクファーターへ 191933

・ 「我々は、ユダヤ人が、ロシア・ドイツ・オーストリア・スペイン・アメリカなど外国から、パレスチナの地にたどり着くのを見てきた。深い判断力を持っているものならば、ユダヤ人の権利に目を閉ざすことはできない。我々は、あらゆる違っている点にもかかわらず、この土地が共に愛され、あがめられ、共通の祖国であり、同時に、この土地の本来の子らのものであることを知っている」―ヨルダン国王・フセイン1

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アリヤー/ イスラエルの地への移民達

さて、シオニスト機構が成立した当時のパレスチナの状況はどうだったかと言うと、そこに住むムスリムには、現代のような「パレスチナ人」という帰属意識はありませんでした。 パレスチナは当時、オスマン・トルコ帝国の支配下にありましたが、「パレスチナ」という地方の境界すら不明確であることに加えて、パレスチナのほとんどが、レバノンやシリアの不在地主に所有されていたため、住民のほとんどが小作農であり、パレスチナを「故郷」と考える者がいなかったからだと言われています。 しかし、この住人の郷土意識の薄さは、シオニストにとって当時の状況は好都合のように思われました。

1901年、テオドール・ヘルツルはオスマン帝国のスルタン、アブダル・ハミード二世と会見し、ユダヤ人国家の建設について話し合います。 スルタンはヘルツルの人となりにかなり感銘を受けたようで、彼を「ユダヤのプリンス」と呼び、更にはヘルツルの印象を「キリストとは彼のような男だったに違いない」とまで語っている。 しかしスルタンは、トルコ領内全体へのユダヤ人の移住に関しては協力的でしたが、パレスチナへのユダヤ人移住は認めようとはしませんでした。 認めてしまえば、最終的にはパレスチナを失うことになるのですから、為政者としては当然の対応です。 ただし、この時オスマン帝国の財政は逼迫していたので、1000万ドルの融資と引き換えに、パレスチナへのユダヤ人移民受け入れを許可するという約束が、ヘルツルとスルタンの間で交わされました。 これは西欧のユダヤ人社会の経済力をもってすれば十分に可能な計画であり、ヨーロッパに戻ったヘルツルは、ユダヤ系の銀行を歩き回り、オスマン帝国への融資話を持ちかけます。 しかし、行く先々で断られたあげく、最後の訪問先のパリでは、一回目の心臓発作に見舞われた。

その後、ドイツのカイザーや英国政府とも話し合いを持ちましたが、あまりはかばかしい成果は得られません。 そこで、もともとパレスチナにこだわっていなかったヘルツルは、パレスチナへの固執はユダヤ人国家建設を遅らせると考えて、イギリス =当時、世界最大の土地持ち・・・= の政治家達の協力の下に、他の入植地を探しはじめたのです。 最初の候補はキプロス島でしたが、ここはギリシア系住民とトルコ系の対立が激しく、ユダヤ人の入植は話をよけいにややこしくすると却下されました。 次に候補に上がったのはシナイ半島でしたが、そこは掛け値無しに不毛の砂漠であり、とても人の住める場所ではない、とイギリス政府から止めらます。

そうしている間にもロシアや東欧の“ポグロム/ ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)”は激化の一途をたどり、入植地探しはもはや猶予ならない状況に至ったのです。 そこで一部のユダヤ人達は、シオニスト機構とは別にパレスチナ移住を開始した。 “アリヤー”と呼ばれた彼らは、1901年のシオニスト会議で設立された土地購入のための基金、「ユダヤ民族基金」や、ロスチャイルド家その他、西欧の富裕なユダヤ人からの援助によって、パレスチナの土地の「買い占め」をはじめます。 先にも述べた通り、パレスチナの土地の大部分は不在地主の所有地なので、地主達はユダヤ人に土地を売る事に抵抗する理由はありませんでした。

こうした“アリヤー”達は、20世紀初頭の数年間だけでもおよそ一万人にのぼります。 そんな中、1903年3月、ロシアで大規模なユダヤ人虐殺事件が発生しました。 この結果、ユダヤ人のロシアからの流出が増大し、国境を接していて、かつパレスチナを支配するオスマン・トルコにユダヤ人難民が集中しますが、トルコ側では、くだんの融資話が、当のユダヤ人銀行家達の非協力で頓挫したため、スルタンはかなり機嫌を損ねており、ユダヤ人の入国禁止が発令された。 それでも、少数のユダヤ人達は、パレスチナにもぐりこむ事に成功しているのです。 もはや悠長に入植地候補を探している場合ではなくなったのです。

この危機の中で、救いの手を差し伸べたのはイギリスだけでした。 1904年4月、ネヴィル・チェンバレン(当時の植民地大臣)は、財務省や現地のイギリス人の反対を押し切って、東アフリカ、ウガンダでのユダヤ人入植地建設をヘルツルとシオニスト機構に提案しました。 しかし、この三番目の候補地も、パレスチナに固執するシオニストの過激派 =前年3月の虐殺で生き残った人々が中核の一派= の反対に遭い、シオニスト会議で否決されたのです。

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