シオンへの夢と闘争-04-

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 当時ガリラヤ近辺はまだユダヤ人とアラブ人(主にベドウィン族)は平和に共存していました。実際、ガラリヤのアラブ人達は氏族間で揉め事があると、ユダヤ人の長老に調停を依頼した程です。ただ、ここはガラリヤ湖という大きな水源を抱えた豊かな農地であるために、レバノンやヨルダンからやってくる盗人が多くいて、家畜泥棒や作物泥棒が絶えない土地だった。 ガリラヤ地方の伝統として、カナの村 =キリストが奇跡を起こしたとされる村= 出身のアラブ人を夜警に雇う習慣があったが、ベン=グリオンら新参の移民達は、アラブ人に守ってもらうという発想を嫌っていた。

それに、新参の移民達の多くは、ロシアでポログロムから身を守るための自警団に所属していた人が多くいたため、非ユダヤ人をあまり信用していない。 そこで、新参の移民達によって自警団「バル・ギオラ/ イスラエルに相当する)における、ユダヤ人の先駆的防衛組織。秘密性が高かった」が組織され、ベン=グリオンもそのメンバーに加わって運動を起こす。 この「バル・ギオラ」はやがて、パレスチナ全土にまたがる自警団「ショメール」に発展し、さらにはベン=グリオンの指導のもとにイスラエル建国の原動力となる政治結社「ハガナー/ ユダヤ人の軍事組織。イスラエル国防軍の基礎となった」に成長していきます。

=バル・ギオラとショメール; 1907年にイシューヴで若いユダヤ人移民により防衛の為の秘密組織バル・ギオラが結成。1909年にバル・ギオラは解散。防衛組織ショメールへと秘密色を薄めた組織へ発展。 ショメールのメンバーは早くから諜報活動を行っていたが、それは彼らの生命と財産を守る為のもので、反トルコ活動に関わっていなかった=

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 バル・ギオラの創設者は、ロシア出身のマニア・ヴィルブシェウィッツというキツイ女性革命家でした。 そのためか、自警団といいながらも「バル・ギオラ」は、「ユダヤは火と血で滅んでも、火と血からよみがえる」という強烈なモットーを掲げている。 このモットーに恐怖し、引いたのか、最初は誰もバル・ギオラのメンバーを夜警に雇おうとはしなかった。 そこで、ベン=グリオンは非常手段に訴える。 ある夜、親友のイツハク・ベンツビとともに、アラブ人の夜警がサボっていることを確認した後、とある農場からロバをかっぱらい、知らん振りしてその農場主に警告した。 夜警がサボっていた事は露見してクビになり、めでたくベン=グリオンとベンツビが夜警に雇われることになると言う戦略で成功している。

この頃のベンクリオンは、夜警、農夫、そして労働者達のリーダーとして忙しくも楽しい毎日だったと述べているようだが、実際の所 盗人達は武装しており、しばしば銃撃戦になる状況下での労働だったようです。 そして1909年のパス・オーバーの日、二人の夜警が、盗賊に射殺される事件が起こります。 この事件後、「バル・ギオラ」はより大編成の「ショメール」として再出発する。 当初、ショメールの基本方針は、警備は行うが報復はしないというものだったのです。

この方針は「ハガナー」にも受け継がれますが、勿論、アラブ人を相手にする以上、アラブの風習に従わなければ身を守れないという意見もありました。 しかし、アラブ人の「死には死を持って報いる」に従ってしまうと果てしない報復合戦に陥ってしまう、という意見が大勢を占めたのです。・・・・とは言え、現在のテロと報復の連鎖の根はここに在るといえるのですが。

ハガナー創設; 第一次世界大戦が勃発すると、オスマン帝国を積極的に支援するユダヤ人グループのギデオン団がジフロン・ヤアコヴに成立したが途中でギデオン団は英国支持に変更。 ギデオン団メンバーは30人程でイギリス軍に協力する諜報活動を行なう情報機関ニリーを結成。 伝説と化したニリーであるが、当時ハ-イシューヴの多数派ショメールなどはオスマン帝国に敵対するニリーに反対。 だが、ショメールのメンバーもオスマン帝国当局に疑われてエジプトに追放された。 1917/8年のイギリス軍によるエレッツ・イスラエル(祖父の地/ イスラエル人の地)占領後にショメールのメンバーは再び帰還が叶う。

  • ジフロン・ヤアコヴは、イスラエル北部の町でハデラ市の北方12キロに位置する。旧農村型入植地モシャバの伝統を継ぐ。カルメル山麓の南側に位置し、地中海に臨む。中心部は小高い丘の上にある。 歴史的にロスチャイルド家との関係が深く、同家の投資によるワイン工場がある。また、町で最も古い通りである「ハ・メヤスディム(創設者)通り」は現在歩行者専用道路となっており、ワイン販売店などの多さから「ワイン通り」として観光名所となっている。;

1917年から1920年まではイギリス軍による軍事政権がパレスチナを支配。 その期間の1918年に世界シオニスト会議の代表委員会委員達がパレスチナを訪問し、ロシア在住のゼエヴ・ジャボチンスキーの勧めで、世界シオニスト機構の代表委員会に情報事務局が設立された。 目的はアラブ人の行動に関する情報収集とアラブ人民族主義団体の追跡調査であった。 そして、1920年7月に国際連盟英国委任統治という形で民政がパレスチナで始められた。 第一次世界大戦が終わりイギリス軍によるパレスチナ統治が始まると、イシューヴ =イスラエル建国前のパレスチナ地域におけるユダヤ人の共同体= では安全保障に関する事は全て英国に任せようとする雰囲気があった。 だが、1920年に起こったパレスチナでのアラブ人暴動、なかんずくテル・ハイ事件でイギリス軍が傍観したのを見たイシューヴは、それまでの防衛組織ショメールを解散して統括的軍事組織ハガナー(防衛の意)を創設した。

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※ ハガナーは、かつて存在したユダヤ人軍事組織。イスラエル国防軍の基礎となった。

1909年以来パレスチナのキブツ(集団農場)などユダヤ人定住地にはショメールなどが自警団として存在していた。 1920年になると第三次アリアでユダヤ人移民が増えた為に脅威を感じたアラブ人が暴動を起した。それを受けて、同年6月にショメルは解散して統括的軍事組織ハガナーに編成された。

第一次世界大戦歴史的シリア南部地方が国際連盟イギリス委任統治領パレスチナとなると、ハガナーの一部特別野戦隊はイギリス軍の訓練を受た。目的は治安部隊としてのものだった。 1939年頃(第二次世界大戦)には、人員約2,000名を擁していた。 1941年には、特別夜戦隊(SNS)が発展しハガナー常備軍のパルマッハ(突撃隊の意)となった。当時、パレスチナユダヤ人軍事組織にはエツェルレヒという小規模の過激組織もあった。

大戦終了後には、ユダヤ人移民促進と国家建設の為に右派のエツェルやレヒと組んで破壊活動を含む反英行動を行ったが、小規模のエツェルやレヒと違い失う物が多く、逆に英国当局の圧力で右派ユダヤ人の拘束に協力した。 1948年第一次中東戦争の直前には、ハガナーの構成員は世界各地からの義勇兵も含めて約75,000名となっていた。1948年5月14日にイスラエル独立宣言を行うと直ちに第一次中東戦争勃発。戦争勃発後は、ハガナーはユダヤ人側の主力部隊としてアラブ側と交戦。第一次中東戦争停戦期間中の1948年5月28日にイスラエル臨時政府の政令により、エツェルなどの他の組織も含めたイスラエル国防軍が創設。ハガナーは国防軍に再編された。

ハガナーの有力メンバーにはイツハク・ラビンモシェ・ダヤンなどがいる。なお、右派のアリエル・シャロンエツェルやレヒではなくてハガナーの出身である。

ハガナー情報局幹部にはユダヤ機関政治局のルーヴェン・シロアッフや非合法移民機関・機関長シャウル・アヴィグールイサル・ハルエルらがいた。 尚、ハガナー情報局は諜報活動対象別に次の部局に分かれていた。

  • ユダヤ課(後に内事課と変更) イシューブ非主流派のエツェルやレヒを監視。・アラブ課 パレスチナのアラブ人を監視。小規模。
  • 共産課 パレスチナ共産党のユダヤ人及びアラブ人を監視。
  • 英国課(もしくは総合課) 対英情報活動。委任統治政府や英国警察、イギリス軍との連絡役と同時にそれらを監視した。

=シューブ主流派から分離した強硬な修正派(右派)のユダヤ人を監視するユダヤ課・課長が後のイスラエル総保安庁創設者で伝説的イスラエル諜報特務庁長官のイサル・ハルエルである。 ハルエルには当時から独立後まで安全保障任務と政治活動を峻別しなかったという批判がある。 ハルエルは自身のパトロンであるダヴィド・ベン=グリオン首相の政治的立場を強化する為にメナヘム・ベギンなど右派や反シオニストを追跡監視した=

1910年、ベン=グリオンは、イツハク・ベンツビと共にエルサレムで発行される「シオンの労働者」機関紙の編集スタッフに選ばれ、田園生活はひとまず終わりを告げている。 ところで、1908年、オスマン・トルコ帝国では、エンヴェル・パシャを中心とする若手将校達によるクーデターが発生、いわゆる「青年トルコ党の革命」です。 日本の教科書では誉められているこのクーデターですが、現実のエンヴェルは「大トルコ主義」を掲げる民族主義の過激派 =後の大英雄ムスタファ・ケマルもクーデターに参加していたが、下っ端でありエンヴェルと仲が悪かったと言う= でした。 当然、ユダヤ人にもいい顔をするはずは無く、1903年以来の反シオニズム路線に変更はありませんでした。 それでも、オスマン帝国に議会が設置されたため、前記のごとく、1912年、ベン=グリオンら「シオンの労働者」の若手幹部はイスタンブール大学に留学します。 議会にユダヤ人議員を送り込むべく、トルコの法律を勉強するためでした。 これはオスマン帝国の反シオニスト政策を変更させるためにも重要な布石と考えられていたのですが、そんな中で、第一次世界大戦が勃発した。

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青年トルコ人革命は、1908年にオスマン帝国で起こった政変。「統一と進歩委員会」メンバーの将校が中心となってマケドニア駐留軍がスルタン・アブデュルハミト2世に反乱を起こし、スルタンに専制政治を放棄させた。 1878年にアブデュルハミト2世によって停止されたオスマン帝国憲法(ミドハト憲法)の復活を目指す青年トルコ人運動の結実として起こったことからこの名がある。 狭義の「青年トルコ人革命」は1908年7月に起こった軍人の蜂起とそれをきっかけにした憲政の復活のことを指すが、1909年4月に「3月31日事件」と呼ばれる反革命クーデターが鎮圧され、アブデュルハミト2世が廃位されるところまでを含めることもある=。

トルコ自体、この第一次世界大戦に参加する理由は大してなかったのですが、オスマン・トルコの実権を掌握していたエンヴェルら軍部の大物は皆揃って親独派であり、ロシアや英仏の蚕食を受けていたこともあって、青年トルコの傀儡であったメフメト5世はジハードを布告し、正式にオスマン帝国の参戦が宣言され、中央帝国側に立って参戦する。

パレスチナのユダヤ人社会は重大な危機に見舞われました。 先にも述べたとおり、第二アリヤーの多くはロシア、東欧からの(不法)移民であり、多くはまだ元の国籍を保持していました。 そのため、「敵国の民間人」ということで、多くのユダヤ人がパレスチナから追放されてしまうのです。 議員を送り込む、という計画も当然ながら立ち消えになった。

ベン=グリオンとベンツビは、第一次世界大戦勃発時、夏休みでガリラヤに帰ってた。 ベン=グリオン自身はトルコに忠誠を誓う考えだったのですが、ベンツビともども逮捕されてエジプトへ退去させらてしまいますが、しばらく後、二人は「シオンの労働者」のアメリカ支部の招きでニューヨークへと旅立つのです。

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===== 続く =====

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