シオンへの夢と闘争-07-

2015-03-07_1

 第一次世界大戦は、ユダヤ人の、祖国を持たない民としての悲哀をモロに感じさせる戦争でした。連合国側にも中央帝国側にもユダヤ系市民はおり、彼らはそれぞれの祖国に対して忠誠を誓って同胞と戦う破目になっていたからです。 そのような状況下、シオニスト機構をはじめとする国際的なシオニスト団体は中立を宣言せざるを得なかったのですが、はっきりと親シオニズムを打ち出したイギリスの姿勢に、シオニスト達は一気に親イギリスへと傾きます。 また「バルフォア宣言」と同時に、中東地域での作戦のため、イギリス軍におけるユダヤ人部隊創設も発表されました。 ユダヤ人だけの軍隊の編成は、実にローマ時代以来の出来事であり、イギリス在住のユダヤ人は勿論、アメリカやカナダのユダヤ人達からの志願が殺到した。 他方、ドイツ帝国は勿論、近代シオニズム発祥の地、オーストリアのユダヤ人達は志願出来ず、ただ祖国を持たない民族の悲哀を感じるしかなかったのです。

もともとイギリスはシオニズムに好意的だったので、バルフォア宣言の前にも、ロシア出身のジャーナリスト、ウラジミール・ジャボチンスキー =彼の自警団は、オデッサ市のユダヤ人を虐殺から救ってる= は、ユダヤ人部隊を創設してイギリス軍に協力しようという運動を展開していました。 また、パレスチナ在住のユダヤ人達は、「バルフォア宣言」の前からイギリスのためにスパイ活動をおこなっています。 スパイの中で最も有名なのはサラ・アーロンソンという女性で、彼女は逮捕され、ひどい拷問を受けた後に自殺してしまいましたが、「アラビアのロレンス」ことT・E・ロレンスの著書「知恵の七柱」では、「S.A.」というイニシャルで彼女に対して献辞されている。

ベン=グリオンは当初、パレスチナのユダヤ人社会を弾圧の危険に曝すと、ジャボチンスキーのようなイギリスへの軍事的な協力には反対していました。 しかし「バルフォア宣言」の発表で考えを変え、1918年にイギリス軍に志願。 イツハク・ベンツビ(前記参照)とともにカナダへ渡り、ユダヤ人部隊の組織化に努め、自身も軍事訓練を受けた後、創設された三つのユダヤ人部隊のひとつ、第39フュージリア連隊に配属されてエジプトへ派遣されました。

※ バルフォア宣言(Balfour Declaration)とは、第一次世界大戦中の1917年11月に、イギリス外務大臣アーサー・バルフォアが、イギリスのユダヤ人コミュニティーのリーダーである第2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに対して送った書簡で表明された、イギリス政府のシオニズム支持表明。

バルフォア宣言では、イギリス政府の公式方針として、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地(ナショナルホーム)の建設に賛意を示し、その支援を約束している。

しかし、この方針は、1915年10月に、イギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンが、アラブ人の領袖であるメッカ太守フサイン・イブン・アリーと結んだフサイン=マクマホン協定(マクマホン宣言)と矛盾しているように見えたことが問題になった。すなわち、この協定でイギリス政府は、オスマン帝国との戦争(第一次世界大戦)に協力することを条件に、オスマン帝国の配下にあったアラブ人の独立を承認すると表明していた。フサインは、このイギリス政府の支援約束を受けて、ヒジャーズ王国を建国した。

一方でパレスチナでの国家建設を目指すユダヤ人に支援を約束し、他方でアラブ人にも独立の承認を約束するという、このイギリス政府の二重外交が、現在に至るまでのパレスチナ問題の遠因になったといわれる。しかし、フサイン・マクマホン協定に規定されたアラブ人国家の範囲にパレスチナは含まれていないため、この二つは矛盾していない。フサイン・イブン・アリーも、エルサレム市の施政権以外は地中海側のパレスチナへの関心は無かったことが、後の息子ファイサルとハイム・ワイツマン博士との会談で証明されている。なおバルフォア宣言の原文では「ユダヤ国家」ではなく、あくまで「ユダヤ人居住地」として解釈の余地を残す「national home」(ナショナル・ホーム、民族郷土)と表現されており、パレスチナ先住民における権利を確保することが明記されている。加えて、もし民族自決の原則が厳格に適用されるならば、大多数がアラビア人である以上は主権がアラビア人のものであることは明示的であり、少なくとも移民(ユダヤ人)のものにならないことは、特に協定の必要なく理解されていた。

さらに、この2つの約束は、1916年5月にイギリスフランスロシアの間で結ばれた秘密協定、サイクス・ピコ協定とも矛盾しているように見えたために問題になったが、内容を読めば実際のところはシリアのダマスカス付近の線引きが曖昧なこと以外、特に矛盾していないことがわかる。バルフォアは議会の追及に対して、はっきりと内容に矛盾が無いことを説明している。

メソポタミアはイギリスの自由裁量→保護国としてのアラブ人主権国家イラク誕生

レバノンはフランスの植民地→レバノンはフサイン・マクマホン書簡で規定されたアラブ人国家の範囲外である(フサイン=マクマホン協定も参照のこと)

シリアはフランスの保護下でアラブ人主権国家となる→これまたフサイン・マクマホン書簡の内容とはそれほど矛盾しない。ただしシリアの首府ダマスカス近辺については、フランス統治領なのかアラブ人地域なのか曖昧な部分が残った。

・パレスチナに関しては、上記のとおり「居住地」としての解釈もあり、またフサイン・マクマホン書簡で規定されたアラブ人国家の範囲外である。あくまで居住地である以上、国際管理を規定するサイクス・ピコ協定とは矛盾しない。従って、少なくともバルフォア宣言と他の二つの協定の間には、文面上は何の矛盾もない。

2015-03-07_2

  しかしながら、ユダヤ人部隊の活躍の場はあまりありませんでした。 「バルフォア宣言」の出されたその時、既にイギリス軍はガザ地区で待機中であり、1917年12月11日、バルフォア宣言のわずか一月半後、アレンビー将軍率いるイギリス軍がエルサレムに突入。 ユダヤ人部隊の最大の活躍の場は、こうして失われる。 その後、翌18年10月1日、ファイサル王子のアラブ軍がダマスカスを占領、さらにアラブ軍の協力のもとイギリス軍がホムス、ハマ、アレッポを攻略。 かくてめでたく「フセイン・マクマホン書簡」の都市の全てが陥落した10月30日、オスマン・トルコ帝国と連合国は休戦し、中東における第一次世界大戦は終結したのです。 これはベン=グリオ ンの部隊がパレスチナに到着したのとほぼ同時であり、彼は結局、実戦に参加することはありませんでした。

4年ぶりにパレスチナへ帰還したベン=グリオンは、除隊後、再び労働運動に身を投じます。 第一次世界大戦後、パレスチナへのユダヤ人移民の増大とともに、この地の労働運動は分裂が生じていた。 概して、理論家ベル・ボロコフの死後、ポアレ・ツィオンは左派と右派に別れていたのです。 1919年にベン=グリオンは、彼の友人であり、労働シオニズムの右派勢力の指導者だったベルル・カツネルソンと共にポアレ・ツィオン右派のアフドゥト・ハアヴォダ(Ahdut HaAvoda)を立ち上げ1919年にベン=グリオンはリーダーとなった。 そして、1920年12月、ベン=グリオンは「シオンの労働者」をはじめとする労働者グループを統合して、ヒスタドルート(Histadrut 労働者同盟の意)を結成、その書記長に選出される。 このヒスタドルートは、労働組合を名乗っていましたが、失業対策として雇用機会を創出するために作られた組織であり、その活動は道路工事の請負、セメント工場の経営、キブツ(イスラエル特有の集団農場)の整備、農業機材のリース業など、実質はパレスチナ最大の「企業」でした。 彼は、イギリス統治下のユダヤ人社会での労働者の地位向上に注力し、また、自衛組織のハガナーの結成にも関わりアラブ人によるキブツの襲撃に軍事的に対抗したのです。

現在でも、ヒスタドルートは建設、ホテル経営、海運などの事業を行っていますが、この時に作られた企業群や農場は、後にイスラエルの産業と経済の屋台骨を支えることになります。さらにヒスタドルートは、ヘブライ語の新聞の発行や、文学作品のヘブライ語訳の出版などを通じて教育制度の基盤を作り、病院建設を通じて、医療制度の基礎を作ります。ヒスタドルートは、1920年代を通じてイギリスの委任統治下のパレスチナにおけるユダヤ人社会の「政府」となっていたのです。その結果、1920年代のパレスチナは、労働組合の影響が強い、社会主義的な社会が形成されました。 因みに、そのため、テルアビブのヒスタドルート本部は「クレムリン」と呼ばれたのだが。

しかし、何はともあれ、ベン=グリオンの指導の下、アラブ人の暴動、突然の移民制限やユダヤ人人口の減少傾向に悩まされながらも、ユダヤ人社会は1920年代を通じて飛躍的な発展を遂げ、「国家」としての体裁を整えることが出来る状態に変革していたのです。

2015-03-07_3

 とは言え、1920年代のパレスチナが平和だったのかというと、そうでもありません。 むしろその逆で、パレスチナは、現代まで続く激動の時代に足を踏み入れたのです。 ベン=グリオンはこの時期、地味な「内政」の分野でコツコツ働いていたので、あまり目立ちませんでした。

話を1918年に戻しますが、この年の6月、中東を訪問したハイム・ワイツマン博士は、イギリスの仲介によりヨルダンでファイサル王子と会見しました。 「バルフォア宣言」と「フセイン・マクマホン書簡」との矛盾しているように見える点を解決するためです。 この場にはロレンスもいましたがワイツマン博士との会談は無かったようです。

ファイサル王子はユダヤ人に好意的で、また「フセイン・マクマホン書簡」で合意した範囲外であることもあり、パレスチナの非ユダヤ人の権利や利益を損なわない、というくだりを確認して「バルフォア宣言」を受け入れました。 その上で、パレスチナにおける信仰の自由の保証、イスラム教の聖地(つまりエルサレム市内の一画)のイスラム教徒による管理、「フセイン・マクマホン書簡」で約束されているアラブ人の新国家へのシオニスト機構からの経済援助、ユダヤーアラブ間のいかなる紛争もイギリス政府が責任をもって調停する、という内容の協定が締結され、1919年の1月に、パリで正式調印されました。「サイクス・ピコ協定」がありながら、しらじらしくも調停を申し出るイギリスと、調印の場を提供したフランスの面の皮の厚さには呆れるばかりです。

しかしこの協定、パレスチナのアラブ人社会が拒否したので、調印はされたものの履行されることはありませんでした。ファイサル王子はいささか物分かりが良すぎたようです。 ファイサル王子は父親に似て元来が好人物でした。 「フセイン・マクマホン書簡」の条件を厳密に適用すればパレスチナがアラブ国家に含まれないことも弱点だったのでしょう。 でも何にせよこの協定、アラブ人社会が受け入れても、いずれ反故になったのは確実です。

ファイサル王子との会見の帰り、ワイツマン博士は念願のパレスチナ訪問を果たします。 そこでアレンビー将軍を含めた多くの士官達が「バルフォア宣言」の発表を知らないこと、さらに、イギリス軍の兵士達が「シオン議定書」 =正確には「シオンの長老達の議定書」= の英語版を持っているのを見て唖然としてしまった。

2015-03-07_4

※ 下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます ⇒ ウィキペディア=に移行
===== 続く =====

                         *当該地図・地形図を参照下さい

 

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;歴史小説】 http://ameblo.jp/thunokou/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中