シオンへの夢と闘争-08-

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 さて、イギリスの三枚舌外交は見事に破綻しました。 1920年4月に開かれた国際連盟の最高会議では、パレスチナではイギリスによる委任統治が行われること以外、「サイクス・ピコ協定」の内容が再確認されました。 そして6月25日、フランス軍がダマスカスに突入、ファイサル王子のアラブ軍を追い払い、シリアの支配権を確保しました。ファイサル王子はイギリスに亡命する破目になり、アラブ社会は激昂します。

幸か不幸か、イギリスは「フセイン・マクマホン書簡」と「バルフォア宣言」により、フランスのような強行策を取ることが出来なかったため、アラブ人の敵意は主としてフランスへ向けられましたが、明らかになった裏切り行為にイギリス国内の世論が沸騰します。 イギリスは泥沼にはまり込んだが、それでも「サイクス・ピコ協定」で得た利権だけは手放したくもなく、イギリスの中東政策は支離滅裂な状態に陥る。 更に、国内に於いて、これらの中東問題がアイルランドの反乱と同時期の出来事であり、戦勝国と言えどもイギリスはかなり悲惨な状態に陥っていた。 事実、アイルランドの独立闘争指導者と“アラビヤのロレンス”ことトーマス・エドワード・ロレンスとの接触を植民地省長官のチャーチルが阻害している。

= トーマス・エドワード・ロレンスThomas Edward Lawrence1888年8月16日1935年5月19日)は、イギリス軍人考古学者オスマン帝国に対するアラブ人の反乱(アラブ反乱)を支援した人物で、映画『アラビアのロレンス』の主人公のモデルとして知られる。 ≪拙文“異郷の王となった男”  参照 ;https://thubokou.wordpress.com/2013/11/24/ ≫

トーマス・エドワード・ロレンスは1888年ウェールズトレマドックで生まれた。父はトーマス・ロバート・タイ・チャップマン(後に準男爵となる)、母はセアラ・ロレンス。夫妻は正式な結婚ができなかったため、ロレンス姓で生活し、彼らの子供たちもこれに倣った。 1907年オックスフォード大学ジーザス・カレッジに入学。1907年と1908年の夏には長期に渡ってフランスを自転車で旅し、中世の城を見て回った。1909年の夏にはレバノンを訪れ、1600キロもの距離を徒歩で移動しながら、十字軍遺跡調査をしている。1910年の卒業時には、これらの調査結果を踏まえた論文を著し、最優秀の評価を得た。

卒業後は、アラビア語の習得のため、ベイルートを経由してビブロスに滞在した。1911年には、恩師のデイヴィッド・ホガース英語版)博士による大英博物館の調査隊に参加し、カルケミシュで考古学の仕事に従事した。同じ頃、ガートルード・ベルと知己を得ている。 ロレンスは短期の帰国をはさんで再び中東に戻り、考古学者のレオナード・ウーリーと共にカルケミシュでの調査を続けた。同地での研究のかたわらで、ウーリーとロレンスはイギリス陸軍の依頼を受け、水源確保の点から戦略的価値が高いとされていたネゲヴ砂漠を調査し、軍用の地図を作成している。

1914年7月、第一次世界大戦が勃発し、イギリスも連合国の一員として参戦することになった。ロレンスは同年10月に召集を受け、イギリス陸軍省作戦部地図課に勤務することになる。臨時陸軍中尉に任官された後、同年12月にはカイロの陸軍情報部に転属となり、軍用地図の作成に従事する一方で、語学力を活かし連絡係を務めるようになった。 1916年10月には、新設された外務省管轄下のアラブ局英語版)(局長はホガース)に転属され、同年3月には大尉に昇進。この間の休暇にアラビア半島へ旅行しているが、これはオスマン帝国に対するアラブの反乱の指導者を選定する非公式任務であったと言われる。

情報将校としての任務を通じて、ロレンスはハーシム家当主フサイン・イブン・アリーの三男ファイサル・イブン・フサインと接触する。ロレンスはファイサル1世とその配下のゲリラ部隊に目をつけ、共闘を申し出た。そして、強大なオスマン帝国軍と正面から戦うのではなく、各地でゲリラ戦を行いヒジャーズ鉄道を破壊するという戦略を提案した。この提案の背景には、ヒジャーズ鉄道に対する絶えざる攻撃と破壊活動を続ければ、オスマン帝国軍は鉄道沿線に釘付けにされ、結果としてイギリス軍のスエズ運河防衛やパレスチナ進軍を助けることができるという目論見があった。

1917年、ロレンスとアラブ人の部隊は紅海北部の海岸の町アル・ワジュの攻略に成功した。これによりロレンスの思惑通り、オスマン帝国軍はヒジャーズの中心であるメッカへの侵攻をあきらめ、メディナと鉄道沿線の拠点を死守することを選んだ。続いてロレンスは、戦略的に重要な場所に位置するにもかかわらず防御が十分でなかったアカバに奇襲し、陥落させた。この功により、彼は少佐に昇進している。 1918年、ロレンスはダマスカス占領に重要な役割を果たしたとして中佐に昇進する。大戦が終わりに近づく中、従軍記者のローウェル・トーマスと彼のカメラマンは、ロレンスの写真と映像を記録している。

除隊から二ヶ月後の1935年5月13日、ロレンスはブラフ・シューペリア社製のオートバイ[2]を運転中、自転車に乗っていた二人の少年を避けようとして事故を起こして意識不明の重体になり、6日後の5月19日に死去。46歳だった。墓所はドーセット州モートンの教会に現存する。この事故がきっかけとなりオートバイ乗車におけるヘルメットの重要性が認識されるようになった。

ロレンスの死後、オスマン帝国はトルコ民族国家のトルコ共和国となり、エジプトシリアイラクアラビア半島マグリブを放棄せざるを得なくなった。これらの地域は、西欧諸国の植民地となった後、西欧諸国によって人工的な国境線を決められ独立を果たしたが、4世紀の間続いた「オスマン帝国の平和」は崩れ、現在に至るまで十字軍モンゴル帝国ティムールの襲来以来の政治的混乱が続いている。=

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 紆余曲折の末、事態打開のための会議がカイロで開催され、当時の植民地大臣、ウインストン・チャーチルは中東の次のように色分けしました。

メソポタミア地域はイラク王国として独立させ、ファイサル王子を国王に就任させる。

  • ヨルダン川東岸からイラクまでの地域は、トランスヨルダン王国として独立させ、反仏運動の指導者、アブドゥッラー(ファイサル王子の兄)を国王とする。
  • パレスチナでは委任統治を継続。「バルフォア宣言」に基づいてユダヤ人移民は受け入れる。

これで「フセイン・マクマホン書簡」の約束は概ね守られた上に、親英派のファイサル国王がイラクを支配した事で念願だった石油利権を確保出来たイギリスは大満足。 反仏運動のリーダーにも独立国を与えた事で、フランスとアラブ社会の対立も沈静化に向かいました。 ユダヤ人達はと言うと、イギリスの委任統治下で「バルフォア宣言」の路線が踏襲されたので何の文句もありませんでした。 しかし、一見して分かるように、パレスチナに住むアラブ人のことはしっかりと見落とされています。 このため、パレスチナのアラブ社会は反イギリス、反シオニズムの姿勢を強めることに成ったのです。 この重大なミスこそが、現在も続くパレスチナの戦いの発端となったと言えます。

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ハイム・ヴァイツマン博士は1921年、世界シオニスト機構 (WZO) 代表に就いている。 そして アメリカ合衆国を訪れ、アルベルト・アインシュタインとともに、シオニズム運動のための資金集めのキャンペーンを展開した。 1925年、アインシュタインやバルフォア(前記載参照)とともに、エルサレムのスコプス (Scopus) 山にヘブライ大学を創設した。 また、死海のリン酸塩工場、ナハライム (Naharayim) の水力発電所の建設を助成していた。 しかし、その後起こった世界恐慌に対して、1929年、ユダヤ機関 (Jewish Agency) を設立し、1931年には1度WZO代表を退き研究生活に戻っている。 彼がイスラエル国建国への情熱を滾らせていたこの期間に・・・・・

戦いの始まり

委任統治が開始される前、パレスチナのイギリス軍政庁の顧問官に、ハジ・アミン・アル・フセイニという人物がいた。 彼はパレスチナの名門、フセイニ家の当主で、事実を無視した過激な記事で有名なジャーナリストであり、アラブ民族主義の過激派の頭目で扇動者として長けている。

アル・フセイニとその信奉者達は、モスクをユダヤ人が乗っ取ろうとしていると、エルサレムのあちこちで作為的に吹きまくった。 そして1920年のパス・オーバーの日 =イスラーム教の祝日ネビ・ムーサ祭(モーセ祭;過ぎ越しの祭りと同日)= 、モスクを守れ、とアラブ人のデモ隊が、旧市街のユダヤ人地区になだれ込んだのです。 ユダヤ人部隊の生みの親ジャボチンスキー(前記載参照)は、このような事態を見越し、ユダヤ人部隊の元兵士による自警団を復活させていた。 暴動の発生を知ると、直ちに自警団は駆けつけるのですが、旧市街の城門でイギリス軍に阻止されてしまいます。 押し問答の末、ようやく自警団が旧市街に突入した時、ユダヤ人地区は暴徒の略奪に遭っていました。

この騒動の結果、四人のユダヤ人が殺され、二人の女性がレイプされた。 また、自警団との乱闘で五人のアラブ人が殺されたのです。 殺人とレイプの容疑者であるアラブ人達とジャボチンスキーら自警団メンバー19名は逮捕され、全員一括で懲役15年を言い渡されました。 更に、暴動の後に逃亡していたアル・フセイニは、欠席裁判で10年の懲役刑を宣告されたが 受刑せず ダマスカスに逃亡している。

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1920年7月、委任統治政府の初代高等弁務官、ハーバート・サミュエル卿(前記載参照)が着任すると、アラブ人もユダヤ人も、逮捕者はまとめて釈放 =ただし、逃亡中のアル・フセイニは恩赦の対象外= される。 これで対立は沈静化したかに見えたが、8月に未確定の国境を越えてきたフランス軍が、何を思ったかガリラヤ地方のアラブ人の村を攻撃。 このどさくさの中で、「フランス兵をかくまった」という噂がたったキブツがアラブ人に攻撃され、6人のユダヤ人が死ぬ事件が発生する。 噂話で逃亡中のアル・フセイニが扇動したと流れる。しかしこれは、アル・フセイニの差し金では無いようでした。

高等弁務官サミュエル卿は、実はユダヤ人で熱心なシオニズムの信奉者でした。 当時、委任統治区域の人口は75万人。 その内ユダヤ人は7万人程度でしたが、8月、40年ほどで人口比が半々になるという計算の元、彼はユダヤ人の移民枠を年間16,500人と一方的に設定したのです。 本来、高等弁務官は公平であるべきなのですが、このシオニストの代理人的な行動がアラブ人社会の反発を買います。

この不満を静めるため、委任統治政府はパレスチナのヨルダン川東岸地区を、トランスヨルダン王国領とする決定を下したのです(参考図参照)。 シオニスト側もこの分割案を了承する。 もともと東岸地区にユダヤ人は多く無かったのです。 この提案によって、アラブ人が委任統治政府に対して抱いていた不公平感を静めることが出来たのですが、しかし、ここでサミュエル卿はやりすぎました。

アラブ人社会の不満を完全に抑えるため、アル・フセイニの特赦を決定したのです。 実を言うと、アル・フセイニの暴力的なやり方と、暴動の後にさっさと逃げ出した態度は大顰蹙を買っており、アラブ人達の人気を失っていたのです。 しかしイギリスは、彼を懐柔するためエルサレムの「ムフティ」という宗教指導者の地位につかせようとしました。 選挙の上位三人の中から高等弁務官がムフティを任命出来るという規則を作り、更に選挙権のある聖職者に露骨な圧力もかけましたが、それでもアル・フセイニは第四位・・・・・・。 得票一位の人に辞退してもらって、なんとかアル・フセイニをムフティの地位に就けたのです。

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ムフティーとは、シャリーア(イスラム法)の解釈と適用に関して意見を述べる資格を認められたイスラム教の宗教指導者であり、一般的にファトワー(イスラム教における勧告・布告・見解・裁断)を発行する資格を有する。ウラマー(イスラームにおける知識人)の中でも上位に属する人物がムフティーとなる。 実質的にウラマー集団のリーダーとなる役職である。

ムフティーはオスマン帝国で官職として各州・地区・都市ごとに任命された。首都イスタンブルのムフティーはシャイフ・アル=イスラームという最高位の地位として権力を振るっていた。ムフティーはカーディー(裁判官)と違って、イスラム法学に秀でていれば女性や奴隷や身体障害者でもなることができた。

ウサーマ・ビン=ラーディンはこのような事情によりムフティーを自称してファトワーを発行している。 しかし、現実には多くの国でオレンブルク・ムスリム宗務局などのように候補者が選定された中から政府によって任命される場合や、ウラマーの集団の中で選挙が行われるなどのローカルルールとしての選出システムを持っていることが大半である。国によってはこのような公的な組織によって選出された者でなければムフティーと認めないことも多い=

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===== 続く =====

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