シオンへの夢と闘争-11-

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 アル・フセイニと対立するアラブ人社会のリーダー達が暗殺されたのに連鎖して、キブツ(イスラエルの集産主義的協同組合)やユダヤ人入植地の攻撃は勿論、テロ攻撃は社会のインフラにまで及びました。 電柱は引っこ抜く、植林された森は切り倒す、舗装道路はほじくりかえすと、アル・フセイニ一派はやりたい放題で、イギリスの軍も警察も全く対処できなく成ってしまうのです。 9月22日、アル・フセイニは反ユダヤ闘争を反英闘争に拡大し、イギリス政府からシオニズムが排除されるまで戦うと宣言します。 アル・アセイニ(前節参照)はあからさまにナチスとイタリアから資金援助を受けていました。 委任統治政府は、民族主義過激派の牙城イスラム評議会を解散させ、アル・フセイニを逮捕しようとしましたが、彼はシリアへ逃れ、そこから闘争の指揮を執り続けたのです。

一方、こうしたテロに対し、ベン=グリオン、ベンツビら「ハガナー」の指導者達は「防衛はするが、報復はしない」という従来の方針を堅持し続けます。 また、非合法組織であるが故にあまり派手な行動に出る事も出来ませんでした。 しかし、アル・フセイニ一派がイラクからパレスチナのハイファに至る石油パイプラインを攻撃目標に加えると、さすがにイギリスは慌てだし、急遽、ハガナーを合法化して軍事協力を行います。

1936年、イギリス陸軍の情報将校オード・ウィンゲート(当時は大尉)の指導の下で、ハガナー内部に特別夜戦部隊(SNS)が設置されます。 ウィンゲート大尉は、SNSを率いてガリラヤにあるエル・カブーキ一派の隠れ家を急襲し、壮絶な銃撃戦の末、シリアへ追い払うことに成功した。 因みに、ウィンゲートの部隊は、太平洋戦争中、日本軍占領下のビルマに潜入して日本軍に大打撃を与えています。 そしてこの時、ウィンゲート部隊がインパールを出発し、踏破不能のジャングルを突破してきたことが、悲劇の「インパール作戦」のヒントになるのですが、ウィンゲートは、ゲリラ作戦を開発しゲリラ兵を訓練した英国の将軍。 近代的なゲリラ戦の創始者の一人と言われ、彼の長距離浸透技術は、軍事戦略と戦術に大きな影響を与えたのです。

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 「報復はしない」と言いつつも、ベン=グリオンら「ハガナー」の指導部は、ウィンゲートの協力でやるべき事はきっちりやりました。 しかしそれでも、「ハガナー」の穏健な姿勢に不満を抱く人々は、ゼエヴ・ウラディーミル・ジャボチンスキー(前記載の熱血漢、こういう争い事には燃える男)に従って、テロにはテロで対抗するという方針の下、極右的な「ハガナーB」という武装組織を設立しました。 ハガナーBは1937年4月、「イルグン(Irgun Zva’i Leumi 英語ではNational Military Organization)」と名を変えますが、この「イルグン/ユダヤ民族軍事機構」はその過激さで大いに悪名をはせます。 =独立戦争時 の「残酷なユダヤ人」は、概ね「イルグン」メンバーと見て間違いはない=。 何にせよ、これが現代まで続く暴力の連鎖の始まりと言えるでしょう。 ベン=グリオンはこの動きを抑えようとはしませんでしたが、後で激しく後悔することになるのですが・・・・

=ゼエヴ・ジャボチンスキーはロシア帝国領のオデッサ(現・ウクライナ領)で生まれた。彼はユダヤ人中流家庭で育ち、ロシアの学校教育を受けた。そのころにヘブライ語の教育も受けていた。後にジャボチンスキーは彼の自叙伝に、彼はユダヤの信仰や伝統とはかけ離れた環境でしつけられたと書いている。

ジャボチンスキーは高校を終える前にはすでにジャーナリストとしての才能の片鱗を見せ始めていた。彼が16歳の時の初めての書き物は、オデッサの新聞に載った。彼は高校卒業と同時にロシアの新聞社の記者としてスイスのベルン、また後にイタリアに送られた。 彼は外国では『アルタレナ』(イタリア語で「鞦韆」を意味する。 後にイルグンメンバーが使用する輸送船の名前にもなった。)の偽名を使って執筆を行っており、また、ローマ・ラ・サピエンツァ大学で法律を学んだ。 しかし、彼が弁護士の資格を取ったのはロシアへ帰るのと同時期だった。彼のイタリアからの電文は、彼にロシア語の話せる若いジャーナリストとして最も有望な人物としての信認を与え、後にロシア語、イディッシュ、ヘブライ語での新聞の編集を任されることになる。 彼は1907年の終わりにアンナ・マルコヴァ・ゲルペリンと結婚した。彼らには1人の子供、アリがおり、イルグンの影響下にアメリカで立ち上げられたバーグソン・グループ(創設者はヒレル・クークHillel Kook、別名ピーター・バーグソン)に参加した。

1903年のキシニョフ(現・モルドヴァ領)でのポグロムの後、ジャボチンスキーはシオニズム運動に傾倒するようになる。 そこで彼はすぐに豪腕の演説家として頭角を表し、影響力のある指導者となった。 ポグロムのさらなる激化の様相が浮かび上がると、ジャボチンスキーはユダヤ人の義勇軍として自衛組織を設立し、ロシア全体のユダヤ・コミュニティの防衛対策とした。ジャボチンスキーのこの行動は、ロシアのユダヤ人達の間に大きな論争を巻き起こすこととなる。この頃、彼は現代ヘブライ語を学ぶことを目標として掲げ、自分の名をウラジーミルからヘブライ語の「ゼエヴ(狼)」に変えた。

ポグロムの間、彼はロシア中のユダヤ・コミュニティで自衛部隊を組織し、ユダヤ人民衆の市民権のための闘争を行った。この年、ジャボチンスキーはスイスのバーゼルで行われた、世界シオニスト機構の第6回会議にロシア帝国代表として参加した。 1904年のテオドール・ヘルツルの死後、彼は右派シオニストの指導者的立場となっていった。 1906年にヘルシンキで行われたロシアシオン主義者ヘルシングフォシュ会議で彼は筆頭演説者の一人としてヨーロッパのユダヤ人に、Gegenwartsarbeit(意訳: 現在の仕事)に携わることと、ロシアの少数派民族に自治権を要求する運動に加わることを呼びかけた。 彼はこの自由主義的観点に忠実であり続け、長い時を経た後も「それぞれの民族集団は法律の見地から平等の自治権を認められる」と、将来のユダヤ人国家に暮らすアラブ市民を尊重した。=

Jabotinsky

  そして、1937年7月、イギリスは“暴動の連鎖”状況の事態解決のため、ロバート・ピール卿を長とする諮問委員会を設置します。 ピール委員会は、パレスチナで何度か公聴会を開いた後、政府に対して以下の勧告を提出しました。

  • 委任統治政府は廃止し、パレスチナはユダヤ人地域とアラブ人地域に分割する 2、ヤッファからエルサレムに至る地域は、緩衝地帯として英国の統治下もしくは国際管理の下に置く 3、パレスチナの北西部をユダヤ人国家とし、南部地域はアラブ人国家として独立させる。領域外に居住する住民は、それぞれの地域に移住させる 4、両国が独立するまで、ユダヤ人がアラブ人地区に土地を購入することを禁止する厳密な国境の設定は後回しにされましたが、議会はピール委員会の勧告を承認しました。

ユダヤ人社会は、与えられた領域が狭い上にエルサレムが含まれていないことに不満で、勧告案への反対意見が強力でした。 しかしベン=グリオンは、勧告案がとにかくユダヤ人国家設立を明記していることから、祖国再建の最初の足がかりとなると考え、勧告案受け入れを主張します。 激論の末、ベン=グリオンは反対派を強引に説得し、ユダヤ機関も(かなりしぶしぶながら)勧告案を受け入れました。

しかし、一方のアラブ人社会はと言うと、ピール委員会の勧告案が、ユダヤ人移民の増大がアラブ人社会に与える経済的な不利益について言及していない上、移民制限に関する提案もなかったため、完全に受け入れを拒否しました。 そんなこんなで結局、ピール委員会の勧告案は棚上げになり、それどころか、アラブ側の勧告案に対する不満から、一時は沈静化していた暴動がまた再燃してしまいます。

尚、委任統治期間には3つの大きな反ユダヤ暴動が起こっている。 1920年から1921年にかけての“ナビー・ムーサー暴動”とも呼ばれる事件 =1920年4月4日には、エルサレムでのムスリムのナビー・ムーサーの祭りの際に、シオニストやイギリスのユダヤ民族郷土計画に反対する騒動が起き、数日間の間に死者も出た= に続き、1929年8月15日にはユダヤ人青年組織ベタルのメンバーによる行進をきっかけにした“嘆きの壁事件”が起こり、ヘブロンの近代以前からのユダヤ人共同体で虐殺が起きる事態に発展した。

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   1930年代にはナチ党の権力掌握でヨーロッパからの大量のユダヤ人流入が起こりアラブ人との間で土地を巡る対立が深まり、1936年から1939年にかけてはパレスチナのアラブ反乱が起きた。ハジ・アミン・フセイニー率いるアラブ人指導部はイギリス政府にユダヤ人移民の制限やユダヤ人への土地売却禁止を求めてパレスチナ全土でゼネストに入り、イギリス軍はその鎮圧に長期間を要した 。委任統治の限界が明らかになったこの大反乱で、ユダヤ人側はユダヤ機関やハガナーがイギリス軍に協力して戦った。 一方で、この時期から強硬派のユダヤ人がエツェル(イルグン)やレヒのような武装組織を結成し、パレスチナ人とイギリス軍の双方に対してテロも含む過激な攻撃を繰り広げていたのです。

第二次世界大戦も間近い1939年5月、イギリスは新たな解決策を提示しました。 「マクドナルド白書」として知られるこの声明の内容は、

1.10年以内の、アラブ人主導によるパレスチナ国家の設立 2.ユダヤ人移民は今後5年間で75000人に制限し、それ以上の移民についてはアラブ側の承認を必要とすると、ほぼアラブ側の要求を満たしたものでした。このマクドナルド白書、イギリス国内でも受けが良かったわけではなく、ウィンストン・チャーチルをはじめとする親シオニズム派は勿論、バルフォア宣言の矛盾を指摘する者まで反対論が続出します。しかし、委任統治政府から異論が出なかったこともあり(委任統治政府のイギリス人職員は、概してアラブ人と親しかった)、結局、マクドナルド白書はパレスチナ政策の基本方針として受け入れられました。

マクドナルド白書の背景には、ドイツとの戦争が必至となったこの時期に、中東の産油国との関係を悪化させるのは危険だという判断があったからです。 イギリスがそうした判断を下すのも、ある種やむを得ないところがありますし、実際、暴動は沈静化しました。しかしながら、このようなイギリスの態度の豹変ぶりは、かつての三枚舌外交を彷彿とさせるものであり、結局は、ユダヤ、アラブ両民族の対立の解決に何の役にも立たなかったばかりか、却って両者からの不信を買う結果になりました。

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===== 続く =====

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