シオンへの夢と闘争-13-

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ハイム・ヴァイツマンは 1947年、国連のパレスチナ分割案に対し、パレスチナ国家の独立は認めたが、ネゲブ(イスラエル南部の砂漠地方)をイスラエルに含めるよう主張している。 そして、ハリー・トルーマン大統領と会見して支援を取り付け、主張を認めさせることに成功、翌年の1948年、イスラエルの初代大統領に就任している。 ただし、イスラエルの大統領は名誉職としての性格が濃く、実務はおもに首相がするのだが・・・・。

時を少し戻して 渡米中のベン=グリオンは、1942年5月11日、ニューヨークのビルトモアホテルで、アメリカのシオニスト組織の総会を開催していた。 この総会でパレスチナへのユダヤ移民受け入れ、国家建設に必要な権限のユダヤ機関への委譲、パレスチナにおけるユダヤ共和国の創設をうたった「ビルトモア綱領」が採択されていた。  ベン=グリオンは、また アメリカ国内のスポンサーから多額の資金援助を集め 得た多額の資金で将来の戦いに備える武器製造のために多数の工作機械を買い込んでパレスチナへ送っていたのです。

ビルトモア綱領;シオニズム運動家が集まりビルトモア・ホテルでビルトモア会議が開かれ、パレスチナ全体にユダヤ共同体を確立するという運動方針をアメリカ合衆国を協力相手として確認した綱領=

マクドナルド白書を呪いつつもイギリスへ協力するという方針は、ベン=グリオンに限らず、 まず常識的な考え方として間違いなく パレスチナのユダヤ人社会の主流でした。 しかし、どこにでも困った人々はいるものです。 マクドナルド白書を許しがたい裏切りとして、親英派と目されるベン=グリオンとハガナーに指揮される事を拒み、ナチスというあからさまなユダヤ民族の敵が存在するにもかかわらず、イギリスに対する武力闘争を開始したグループも存在したのです。

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一部のイルグン/もしくはエツェル(ユダヤ民族軍事機構)のメンバーがそういう過激派でしたが、それらの人々に加えて、1940年8月、イルグン過激派の中でも最も凶悪な連中が集まって「Lohamei Herut Yisrael」通称レヒ(Lehi/イスラエル解放戦士団)という新組織が作られます。  イルグンはもともとハガナーの分派なので嫌だ、というのが新組織旗揚げの理由でした。  創設者アブラハム・シュテルン(前節参照、詩人)の名を取って、「シュテルン」とか「シュテルンギャング」の方が通りの良いこの組織、メンバーは100人ほどでしたが、その過激さはイルグン以上であり、資金調達のために銀行強盗までやらかしたため、委任統治政府からは勿論、ハガナーからも敵視されました。 おまけに、イギリス憎しの一念でナチとの取引を計画していたことも発覚し、大ヒンシュクを買います。  1942年2月12日、アブラハム・シュテルンは、警察にテルアビブの隠れ家に踏みこまれ、不法にも拘束後にその場で射殺されるという最期を遂げましたが、その後もレヒの活動はやむ事はありませんでした。

ユダヤ民族軍事機構は、ユダヤ人武装組織。ヘブライ語の略称「エツェル(אצל)」もしくは、英語では組織名の最初の部分を取った「イルグン」と呼ばれるのが一般的。 ちなみに「イルグン」とはヘブライ語の一般名詞で「組織、機構」という意がある。 イシューブイギリス委任統治領パレスチナのユダヤ人社会)の軍事組織ハガナーから脱退した対アラブ強硬派により結成され、そのため「ハガナー・ベート(ב 、つまりB)」とも呼ばれた。シオニズムの中でも領土の拡大維持を重視し理想主義的な修正主義シオニズムの流れを汲む。そのために現実的なシオニズム本流の「指導部」からは疎まれ、また危険視すらされた。

エツェルは1931年に創設。指導者はゼエヴ・ジャボチンスキーであったが、彼の死後は後にイスラエル首相となるメナヘム・ベギンが後継者となった。 パレスチナ内戦および第一次中東戦争では主流派ハガナーによるアラブ人住民追放計画の一端を担い、デイル・ヤシーン事件などアラブ人住民の虐殺も起こした。ハガナー主体のイスラエル国防軍への指揮系統統一に反対し、最終的に国防軍に制圧された。=

・・・・・・・・・・現在もエルサレム郊外に残る壁の落書き「イギリスは植民地主義だ!」と在る。 闘争のキャッチ・コピーだ。 独立闘争の中心にシュテルンがあった。

※ シュテルンは地下武装組織を作るにあたって4つの目標

1)新聞を発行し、さらにラジオでゲリラ戦の正当性を主張する。

2)資金を得るために寄付を募る。また、イギリス資本の銀行ならば強盗に入ることも厭わない。

3)ヨーロッパのユダヤ人を救うために交渉を行い、力を合わせてパレスチナのイギリス統治に対抗する。

4)イギリスと対決するため実践的な軍事武装を行う。しかし、このいずれも完全な実現には至らなかった。

資金不足で発行した新聞は印刷機無しのステンシル方式で刷られ、部数がわずかな上、非常に読みにくかった。銀行強盗やゲリラ攻撃はイギリス警察官との市街での激しい銃撃戦を生む結果となり、両者とも死傷者とけが人を出した。また、イギリスのおとり捜査により、シュテルンがドイツやイタリアと交渉しようとしていることが明るみに出ると、レヒの評判は地に落ちた。

概してこのテの過激なテロ組織と言うものは、目的達成の助けにはならず、却って足を引っ張るものです。  レヒも例外ではなく、やがてとんでもないことをやらかしました。

1944年11月6日、カイロを訪問中のイギリスの中東担当大臣ウォルター・モイン卿がレヒのメンバー二人に射殺されたのです。  1941年末にモイン卿が入港を禁止した難民船が、帰り道に沈没して760人のユダヤ人が死亡するという事件があって以来、モイン卿はレヒに付け狙われていたのです。 犯人二人は翌年早々に絞首刑に処されましたが、この事件の真の問題はモイン卿がチャーチル首相の親友だったことです。

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 チャーチルはマクドナルド白書にも反対を唱えていた長年にわたるシオニズム支持者で、折からもユダヤ人国家建設案を構想中だったのですが、親友を殺されて怒り心頭、一変して反シオニズムに転じました。 さらにイギリス政府自体もパレスチナ問題収拾の意思を無くしてしまいます。  パレスチナ紛争の発端がもともとイギリスであることを考えると、はなはだしく無責任ですが(どこか仕方の無い気もしますが…、 レヒの無謀なテロリズムが、イギリスの対パレスチナ政策をぶち壊しにしたのです。  そして、まだ平和的解決の可能性があったパレスチナ問題は、統治者たるイギリスが手を引いたため、一気に地獄への坂道を転がり始めました。

テロと難民と

1945年5月、第二次世界大戦は終わりました。  しかし、戦争が終わってもパレスチナの問題は解決しませんでした。 1939年以来、暴力沙汰こそ起こっていませんが、アラブ-ユダヤの民族対立の解決策は見出されていない上、ユダヤ人に取っては、ナチスが崩壊したこの時、代わって登場した民族最大の敵はマクドナルド白書(=イギリス)でした。 更に、連合国の勝利が決定的になった1944年末頃、ユダヤ人難民の問題が表面化します。

ベン=グリオンは、ナチスの迫害によって生じた10万人のユダヤ人難民のパレスチナ移住をイギリス政府に対して要請しますが、しかし、この10万人と言う数字はマクドナルド白書の制限以上のものであり、当然、委任統治政府は受け入れを拒否。  ハガナー(ユダヤ人の軍事組織、イスラエル国防軍の基礎)が救出したユダヤ人難民達も、パレスチナやキプロスの難民収容所に押し込まれたまま、不自由な暮らしを余儀なくされていたのです。

そのようなイギリスの態度に深く失望したユダヤ人社会は、もはや祖国建設の願いをイギリスに託すのは諦め、自らの手で祖国を建設すべく、本格的な反英闘争を開始しました。  当時のパレスチナでは60万人のユダヤ人(収容所の住人も含む)と、90万人のアラブ人が住んでいました。  それに対して展開するイギリス軍は10万人。  市民15人に対して1人という大兵力を投入していたのですが、それでひるむことはありませんでした。  先頭に立ったのは勿論、イルグンとレヒ。 レヒは凶暴ながら少人数なのでそれほど派手な事はしていませんが、5000人以上のメンバーを持つイルグンは大暴れします。  アメリカの新聞界に人脈のあったこともあって、イルグンの活動は派手に宣伝されました。  特に1945年5月4日、アッコー刑務所の壁をぶち破って収監中のメンバーを救出した事件はアメリカ人にも大うけ。 おかげでスポンサーが大勢ついてイルグンの活動はますます派手になったのです。

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※ レヒは3つの主な目標

  • パレスチナの解放のためイギリス当局との戦いに参加する意思のある者を集める。
  • 唯一のユダヤの軍事機関として世界に認知される。
  • 聖書に基づくイスラエルの地を軍隊の力で奪い返す。

グループはその黎明期には、その目標がイギリス当局をエレツ・イスラエル(旧約聖書に基づくユダヤの民が神に約束されたとする地、パレスチナのユダヤ人側の呼び名)の地から追放するために国際的な協力を得て、その見返りに軍事力を提供する事により達成されると考えており、そのために「軍事行動を通し、足枷から抜け出す意思を示威する」ための公然かつ、組織化された軍隊を作ることが求められた。

レヒ設立と創設者; 創設者アブラハム・シュテルンはゼエヴ・ジャボチンスキーにより創始された修正シオニズム運動を支持し、イルグン(設立者はジャボチンスキー)に参加していた。 1940年6月、第二次世界大戦の勃発によりイルグンがイギリスに対する地下軍事行動を止めたことで彼はイルグンを去り、自ら発起者となってイスラエル国家軍事機関と呼ばれるグループを設立した。 これが後のレヒとなる。

イギリスは戦争においてナチス・ドイツと敵対していたが、シュテルンはパレスチナに暮らすユダヤ人はイギリスに対して支援するよりも、戦いを仕掛けるべきだと考えており、また軍事的手段に頼ることでより効率的に目標を成し遂げることができると信じていた。

彼は1939年のマクドナルド白書(イギリス国内で決議された、ユダヤ人のパレスチナへの移住や土地の購入を制限する内容の声明)に対しても強く異議を唱えた。 彼はパレスチナの最も重要な役割はヨーロッパから逃げ延びて難民となったユダヤ人達の受け皿となることだと考えていた。 しかし、彼の旧友ダヴィド・ラズィエルはナチスドイツと戦うためにイシューヴ(ユダヤ共同体、この時代のユダヤ人中央暫定政府のこともいう)はイギリス当局を支援すべきとしてシュテルンと袂を分けることになる。 シュテルンの考えは国家の建設を妨げる『外国人居留者』のために死ぬ必要はないということだった。 しかし、イギリス軍に入隊したラズィエルは1941年、イラクでの任務中、命を落としてしまう。

シュテルンはイギリスを『ユダヤ民族の敵』、ナチスを『ユダヤ嫌悪者』として別格のものと見るようになっていた。 シュテルンは、前者は敗北すべきであり、後者は利用すべきと考えた。 そしてイスラエル新国家建国の際に援助を得ることも視野に入れ、第二次世界大戦での協力を条件にユダヤ人難民を解放する交渉をナチス当局に持ちかけたのです。=

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===== 続く =====

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