シオンへの夢と闘争-14-

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テロと難民対策の中で
ユダヤ民族最大の敵“マクドナルド白書”撤回へのエツェルとレヒのテロ攻撃、 また 第二次世界大戦後に発生した大量のユダヤ難民問題に対処すべくベン=グリオンは、最初のうちはそうしたテロ行為には加担せず静観、ハガナー(ユダヤ人の軍事組織、当時、パレスチナのユダヤ人軍事組織にはエツェルやレヒという小規模の過激組織もあった)の戦力は専ら不法移民の輸送に向けられていました。
しかし、輸送作戦は必ずしも成功したわけではなく、海上で拿捕されたユダヤ人達は遠慮なくキプロスの収容所にぶち込まれ、成功例も何故かイルグンが手柄を横取り(一応、イグルンは船を二隻提供していましたが・・・)してしまいます。  そんなこんなで過激派のエツェルとレヒに支持が集まり始め、このままシオニズムが極右化することを恐れたベン=グリオン =社会主義者であり、来るべきユダヤ人国家でも社会主義を実践しようと考えてた= は、負けてはならじと反英闘争を開始したのです。

1945年10月、ベン=グリオンは、ハガナーの司令部を用心深くもパリに移し、自身もパリへ移動してから、パルマッハのイーガル・アロンにイギリス軍に対するテロ攻撃を命じます。  パルマッハは、イルグンやレヒのような闇雲な破壊や暗殺は行わず、難民収容所の解放が主要な作戦目標でしたが、イギリス軍から見れば、敵が一つ増えただけでした。  ハガナーは引き続き難民救出作戦(=不法移民)を継続しますが、難民船と臨検しようとするイギリス艦艇との間で衝突が相次ぎました。

武力行使の一方、ベン=グリオンはイギリスは無視し、パレスチナ問題解決のため独自の外交を進めた。  その甲斐あって1945年8月31日、アメリカのトルーマン大統領の後押しにより、パレスチナ問題解決のための米英合同の調査委員会が開かれました。

この調査委員会は1946年5月、
1.  国際連合によるパレスチナの暫定統治。ただし分割はしない
2.  10万人の難民受け入れ(ベン=グリオンが要求していた問題)
3.  マクドナルド白書以来の、ユダヤ人の土地取得制限の撤廃
を骨子とする報告書を発表している。  この報告書が、米英の議会で承認されれば、少なくとも難民問題は解決するわけです。  しかしここでもレヒが足を引っ張ったのです。 どうもこのレヒという団体、規模が小さい割にはいつも重大事件を起こしてくれます。  報告書発表の直前、6人のイギリス兵がレヒに殺害される事件が発生したので、委任統治政府は難民受け入れに難色を示し、イギリスの議会もテロ組織の武装解除の方が先決だということで報告書を承認しなかったのです。

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 それはともかく、この一件でもはやパレスチナ・ユダヤ人とイギリスとの間に和解の可能性は無くなりました。  1946年も半ばになると、ユダヤ人の反英テロに加え、アラブ過激派の対ユダヤテロも頻発します。 実際、テルアビブのユダヤ機関ビルが爆破される事件も発生し、イツハク・ベンツビ(前節参照)が瓦礫に生き埋めになって危うく死ぬところでした。  これだけでも厄介なのに、怒りに駆られた一部イギリス軍人が無差別テロにはしったため、パレスチナはさながら地獄の釜を開けたような悲惨な状態に陥ってしまう。

イギリス軍は、パレスチナの治安を回復すべく精鋭の第6空挺師団をテルアビブに派遣して、1946年6月29日、「ブロードサイド作戦」を発動、ユダヤ機関やヒスタドルート(就中労働組合の連合体、イシューブは独立前のユダヤ人共同体)も含めたユダヤ人団体の家宅捜索と幹部の逮捕に乗り出します。  この日は安息日だったのでユダヤ側は完全に不意をつかれ、パレスチナ全土で2700人のユダヤ人が逮捕されました。  ベン=グリオンはパリに居て無事でしたが、彼の努力で貯めこんできた武器類と武器製造用の工作機械が根こそぎにされ、ハガナーは大打撃を受け、以降の独立戦争で ハガナーは致命的な重火器不足となり、大苦戦に追い込まれるのです。

ブロードサイド作戦の一ヵ月後、委任統治政府の臨時庁舎や駐留軍司令部などの重要施設が置かれていたエルサレムのキングダビッド・ホテルに、一本の電話がかかってた。 「一時間以内にホテルから出ろ」というその電話に対し、応対に出たイギリス軍の司令官は愚かにも「ユダヤ人から命令を受けるいわれは無い」と返事した。  するとホテルが爆発!建物の一画がきれいに吹き飛ばされ、91人が死亡、100人以上が負傷する大惨事が発生したのです。  犯人はイルグン。  ブロードサイド作戦の報復でした。

こうしたテロの応酬の中で、1947年2月19日、ついにイギリスは匙を投げ、パレスチナ問題の解決を国際連合に一任すると一方的に宣言しました。  パレスチナ紛争の現況がイギリスの場当たり外交だったことを考えるとはなはだ無責任ですが、まずは反英闘争の勝利です。 しかしながら、ユダヤ人難民の阻止作戦だけは相変わらず続いたので、ベン=グリオンは難民救出のための作戦を続行していく。

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 そして1947年7月、映画「栄光への脱出」で有名な「エクソダス号」事件が発生しました。  ベン=グリオンは、パレスチナに到着すればそれでよし、失敗してもキプロスの収容所をパンクさせられという両面作戦で、大型船を使った数千人単位の不法移民を計画しました。  この計画に基づき、5000人を収容可能なアメリカの老朽客船ウォーフィールド号が用意され、マルセイユ(元々の目的地はイタリアだったが、イギリスの待ち伏せがあったので急遽変更になった)に入港しました。

  • 栄光への脱出』;1947年にホロコースト生存者らを乗せてフランスからイギリス委任統治領パレスチナに向かおうとしてイギリス軍に制圧された不法移民船エクソダス号(SS_Exodus)をモデルとした物語である。Exodusは「大挙した脱出」という意味だが、「出エジプト記」になぞらえてもいる。1960年に映画化された。
  • あらすじ;ホロコーストを生き延びたヨーロッパのユダヤ人多数がパレスチナへ移民しようとしたが、そのほとんどはイギリスが設けた移民枠を超過した不法移民で、多くがイギリス軍に捕まりキプロス島の難民キャンプに送られていた。難民キャンプで看護婦として働いていたアメリカ人のヒロインの前に、エクソダスと名付けた貨物船を手に入れて彼らを極秘のうちにパレスチナへ送ろうとするユダヤ人で元兵士の主人公が登場する。 船に乗り込んだ移民たちはイギリス軍との緊迫した駆け引きの末にパレスチナへとたどり着き、キブツに受け入れられて農民として働き、アラブ人やイギリス軍と戦って翌年のイスラエル建国を迎える。

この映画の史実は、ここでウォーフィールド号は「エクソダス号」と名を改め、4515人の難民 =ほとんどはナチの強制収容所の生き残りであるドイツ系ユダヤ人= を乗せると、7月11日、フランスの出港禁止命令を無視してパレスチナに向かって出港した。  この航海は最初からツイておらず、港を出たとたんに座礁した上、出港翌日には巡洋艦1隻、駆逐艦6隻からなるイギリスの艦隊に捕捉される。  一週間後、パレスチナ沖22マイルの公海上で、イギリスの駆逐艦がエクソダス号に体当たり攻撃をかけて臨検を強行したため、大騒動になった。
イギリス兵の銃撃に対して、難民達は空き缶や腐った野菜を投げつけて応戦。 三時間の戦闘の末、アメリカ人の船長を含めた三人の犠牲者を出しながらも、難民達は臨検隊を海に叩き込み、エクソダス号に乗り込んでいたアメリカ人牧師がイギリス軍を説得し、それ以上の暴力沙汰には進展しなかったが、体当たり攻撃で浸水していたエクソダス号は降伏。 難民達は三隻の船に分けられた後、パレスチナを離れたのです。

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 ハガナーの目論見は甘すぎたようで、三隻はキプロスの収容所には寄らず、まっすぐマルセイユに向かいました。  フランス政府は難民受け入れを表明しましたが、病気の数人をき、難民達は「船を下りる場所はパレスチナのみである」と、下船を拒否します。 マルセイユで24日間 がんばった後、あきらめた三隻は、難民を乗せたまま出港します。 しかしイギリスは、ここでとんでもない事をしでかしました。  なんと向かった先はドイツのハンブルグ。 ここで難民達は強制的に下船させられ、リューベックの収容所に入れられてしまう。 ナチの手から逃れてきたユダヤ人達を、再びドイツの収容所に入れたこの行為、国際世論は勿論、イギリス国内からも非難の声があがり、イギリスは今後、難民をヨーロッパには戻さないと約束せざるを得なく成るのです。

エクソダス号事件により、際限の無いテロで好意的なものばかりではなかった国際世論は、ここで一気にユダヤ人側に好転する。  また、事件が注目を集めたおかけで、パレスチナ問題は国際連合の最優先課題と成ったのです。  ベン=グリオンはこの機会を逃さず、テロも含めた実力行使を停止して外交で事態を解決すべく行動を開始します。  ちょうどこの時、ルーマニア政府がパレスチナに親類の居るユダヤ人の出国を認めと声明を発表。  またイギリスが強行策に出るかもしれないと、ベン=グリオンは新たな不法移民には反対でしたが、1500人のユダヤ人はハガナーの用意した二隻の船でパレスチナに向かいます。  幸いと言おうか残念と言おうか、この二隻は拿捕されるが、エクソダス号事件の直後なので、イギリスは難民をルーマニアに戻すわけには行かず、仕方なくキプロスへと送りました。  これでキプロスの収容所はめでたく定員オーバーとなり、イギリスは難民を阻止する意図も放棄したのです。

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===== 続く =====

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