シオンへの夢と闘争-15-

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国連決議第181
1947年5月、国連はイギリスの無責任な要請を受け入れ、「パレスチナ問題特別委員会」が開設されます。  委員会はテロの応酬の中、12回の現地調査を行いますが、パレスチナをユダヤ、アラブ間で分割するかどうかについて明確な結論を下すことが出来なかった。  しかし、アメリカとソビエトが分割案支持を表明したため、委員会もパレスチナ分割の方向に傾いて行きます。  シオニズムに好意的なアメリカは勿論の事、伝統的にユダヤ人への偏見が強いロシアでも、ユダヤ人が出て行ってくれることを望んでいたわけです。 ただし、問題はその分割案の内容でした。=前地図参照=
1946年の段階で、ユダヤ人の所有地はテルアビブ周辺とガリラヤを中心に全体の10%程度に過ぎなかったのですが、分割案ではユダヤ人地区はパレスチナの半分に及んでいます。  委員会としては公平に分けたつもりなのでしょうが、アラブ側にとっては不公平極まりなく、アラブ諸国は激しく反発しました。

しかし、ワイツマン博士(前記載参照)のどぶ板戦術が功を奏し、1947年11月29日の国連総会の投票では、賛成22、反対13、棄権10で、パレスチナをユダヤ領、アラブ領に分割してエルサレムを国連の管理下に置くことを規定し、6ヶ月後のイギリスのパレスチナ撤退 =つまりパレスチナの独立= を定めた国連決議第181号が採択されました。  この報せにパレスチナのユダヤ人は喜びに沸きかえり、イギリス兵もお祭り騒ぎに加わりました。

だがしかし、今度はアラブ人が愕然とする番であり、その衝撃は、ユダヤ人にとってのマクドナルド白書の比ではありませんでした。  181号決議の規定では、ユダヤ人国家の面積はパレスチナの半分に及び、しかも最も農地である地中海沿岸地区と、将来有望なネゲブ砂漠が丸ごとユダヤ人地区に編入されていたからです。 この事は、多くのアラブ人が、自らの土地を追われることを意味するのは当然の帰結でしょう。

181号決議に賛成票を投じたのは、アメリカ、ソビエトの二大国を含め、棄権に回ったイギリスとユーゴスラビアを除く東西ヨーロッパの加盟国全部、カナダ、オーストラリア、ニュージランド、南アフリカ連邦、パナマやブラジルなど多くの中南米諸国とカリブ海からハイチとドミニカ、そして何故かフィリピンも。 反対票を投じたのは、アフガニスタン、エジプト、ギリシア、インド、キューバ、イラン、イラク、イエメン、トルコ、レバノン、パキスタン、サウジアラビア、シリア。  キューバが反対票を投じた理由は分かりませんが、他はイスラム教国か、国内に多数のイスラム教徒を抱える国でした。

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 この内訳を見れば分かりますが、欧米諸国や欧米と関係の深い国々が、イスラム系の諸国を数で押し切ったのが明白です。 何にせよ、パレスチナのアラブ人達は、自分達に一言の相談も無く生活圏を大幅に狭められた事に激昂しました。  アル・フセイニ一派によるテロが荒れ狂っていた時期でも、パレスチナ・アラブ人の大部分はユダヤ人との共存を望んでいましたし、迫害を逃れてパレスチナに流入して来るユダヤ人達を助けていました。

マクドナルド白書以来ユダヤ人の反英テロが頻発していたのに対し、アラブ人社会は、イギリスに対してもユダヤ人社会に対しても暴力行為に及ぶ事はありませんでした。それだけに裏切られた怒りは大きく、イギリスに協力的だった穏健派も態度が一変、11月29日を「服喪と圧政の日」として、大々的な反英反ユダヤ闘争の開始を呼びかけました。

反応はすばやく、翌30日には7人のユダヤ人が殺され、決議案に賛成票を投じた国の領事館がデモ隊に襲撃されました。決議案発表後の12日間で32人のアラブ人と79人のユダヤ人が殺されます。  勿論、こうした事態にイルグンやレヒが黙っているはずも無く、たちまちパレスチナ全土をテロと流血が覆いました。アラブ側も負けてはおらず、12月17日、アラブ連盟は国連によるパレスチナ分割を断固阻止するという声明を発し、ユダヤ人に対するジハードの遂行を訴えました。

決議案からイスラエルの独立宣言までの約半年間は「非公式のパレスチナ戦争」と呼ばれていますが、その「戦争」の最中、この上パレスチナに関わる気の無いイギリス軍は、(キングダビッドホテル爆破事件に懲りて)要塞化されたビルに立て篭もって何もしようとはせず、あまつさえイギリス政府は、国連決議に定められた撤退期限8月1日を5月15日まで繰り上げてしまいます。  イギリスは、最後の最後まで無責任でした。

ベン=グリオンは1948年5月14日、イスラエル国家の設立を宣言している。 彼はイスラエル独立宣言の中で、新しい国家は「人種、信条、性差に偏見を持たず、市民の完全な社会的、政治的平等を守る」と述べたのです。 独立直後に第1次中東戦争が勃発するのですが、その期間中にベン=グリオンは初代イスラエル首相に選ばれ、これを戦い抜いて領土拡大など戦果を収めている。

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 以来彼は、1948年5月14日から1963年まで、1954年から1955年の約2年間を除いて首相であり続け、首相としては国の機関の設立を監督し、占領地の開拓に力を入れると共に、1949年から翌年にかけてイエメンからユダヤ系住民を空輸して受け入れる魔法の絨毯作戦を実行し、「国の水がめ」(National Water Carrier of Israel)の建設、地方開発計画とニュータウンや都市の建設など、国と国民の生活の発展に全力を注いでいく。 さまざまな国家プロジェクトを統括する立場にあって、 特に 彼はネゲヴなどの辺境の地域の入植地開拓に力を注いで行きます。 その政治的な経緯は・・・・・・・

  • ヨーゼフ・ロート(Joseph Roth, 1894年9月2日- 1939年5月27日)は、オーストリアのユダヤ系作家。 ガリチアのシュテットル、ブロディ近郊のドイツ植民村シュヴァーベンドルフ Schwabendorf(シュファビ Szwaby、現ピドヒルチ Pidhirci)で生まれたと称していたが、実際はブロディ。 ウィーン大学に学び、第一次世界大戦に従軍した後、ジャーナリストとして活動する一方で、明晰な文体で物語性に富む小説を次々と発表した主な作品に『果てしなき逃走』『ラデツキー行進曲』『聖なる酔っ払いの伝説』などがある。

政治的にはシオニズム思想を支持する一方で、多民族が共存していたかつてのオーストリア・ハンガリー帝国に郷愁を抱き続けた。 ヒトラーの政権掌握後はフランスなど各国を転々と亡命し、パリで病死。大量の飲酒が命を縮めたとも言われている。

1930年の存命中に小松太郎が『脱走者フランツ 涯しなき逃走』を翻訳した。『ヨーゼフ・ロート作品集』全3巻が東邦出版社(1974)より、『ヨーゼフ・ロート小説集』全5巻が鳥影社より刊行されている。

  • ゲルショム・ゲルハルト・ショーレム(Gershom Gerhard Scholem 1897年12月5日- 1982年2月21日)はドイツ生まれのイスラエルの思想家。 ユダヤ神秘主義(カバラ)の世界的権威で、ヘブライ大学教授を務めた。 1968年にはイスラエル文理学士院の院長に選ばれた。
    彼はベルリンでユダヤ人の家庭に生まれ育った。父はアルトゥール・ショーレム、母はベティ・ヒルシュ・ショーレム。 画家だった父は同化主義者で、息子がユダヤ教に興味を持つのを喜ばなかったが、ショーレムは母のとりなしにより正統派のラビのもとでヘブライ語やタルムードを学ぶことを許された。

博士論文のテーマは、最古のカバラ文献(セフェル・ハ=バヒール; “光輝の書”)だった。 シオニズムに傾倒し、友人ブーバーの影響もあって、1923年に英領パレスチナへ移住。 ここで彼はユダヤ神秘主義の研究に没頭し、司書の職を得た。最終的にはイスラエル国会図書館のヘブライ・ユダヤ文献部門の責任者となった。のちにエルサレムのヘブライ大学で、講師として教え始めた。

彼の特色は、自然科学の素養を活かして、カバラを科学的に教えた点にある。1933年にはヘブライ大学のユダヤ神秘主義講座の初代教授に就任、1965年に名誉教授となるまでこの地位にあった。ユング等が関わった「エラノス会議」にも参加1936年、ファニア・フロイトと再婚。 兄のヴェルナー・ショーレムはドイツの極左組織<フィッシャー=マスロフ団>の一員で、ドイツ帝国議会ではドイツ共産党選出の議員だったが、のちに議会から追放され、ナチによって暗殺された。

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