シオンへの夢と闘争-18-

2015.03.19_1

 ユダヤ人国家の生き残る道は対決に勝つ事だけになったが、ハガナーは相変わらず重火器の不足に苦しんでいました。 それでも、これまでは相手も同レベルなのでなんとか戦えたのですが、今度の敵はいずれも国家の正規軍であり、戦闘機や戦車、大口径の野戦砲まで備えた大部隊なのです。 ヨーロッパ諸国でベン=グリオンの密使が調達した重火器や装甲戦闘車両、戦闘機などを積んだ船は、全速でパレスチナに向かっていましたが、船が到着するまでイスラエル国が存在しているかどうか、大いに怪しい状況でした。

グラブ中将のアラブ軍団(トランスヨルダン)は、17日までにテルアビブとエルサレムの連絡線を遮断し、エルサレムを包囲しました。 イルグンとハガナーの合同部隊300人は、ユダヤ人市民と共に旧市街に立て篭もるが、28日に陥落。 残ったユダヤ人は新市街に移って抵抗を続けるも、補給路が完全に遮断されており、長く持たないことは明白だった。  5月23日、ハガナーは補給路を奪回すべく、テルアビブ-イスラエル間の要衝、ラトルン警察署を攻撃するが、装備と訓練で勝るアラブ軍団に撃退されてしまった。

一方、南部のネゲブ砂漠でもエジプト軍の攻撃が始まっていた。 エジプトのファルーク国王は宣戦布告と同時に戦勝記念切手を発行しているが、当初はその期待は裏切られませんでした。 戦車や大砲まで持ち出した1万人のエジプト軍に対し、イスラエル軍はわずか3800人で、しかも重火器は一切無し。 イスラエル軍の防衛線はやすやすと突破され、エジプト軍は首都テルアビブへ驀進します。

そして5月19日、エジプト軍はヤッハ・モハルディというキブツに到達した。 このキブツを守るのは75人の住人とわずか70人のハガナー兵士で、武器はライフルが80丁。  珍しく対戦車ロケットが一丁配備されていましたが、肝心のロケット弾は五発だけ。 民族主義のぶつかり合いは、「ちっぽけな城だから敵は見逃す、増援は要らん」と言った中国の故事にも似たような、悠長に物ではなく、エジプト軍はこのちっぽけなキブツに対しても、激しい砲爆撃の支援の元、戦車を先頭に押し立てて正面攻撃をかけている。 しかし、キブツの住人とハガナーの英雄的な抗戦により、圧倒的なエジプト軍は5月24日まで阻止されたと言う。

そして、この5日間こそ、イスラエルにとって起死回生の5日間と成った。 この5日の間に待望の重装備がテルアビブに到着し、ハガナーは首都の守りを固めることができたのです。 5月29日、4機の戦闘機が南部戦線の近接支援に出動する。 4機の内1機が撃墜され、もう1機も帰り道に墜落。  それでいてエジプト軍にはかすり傷一つ与える事も出来ず、世界最強のイスラエル空軍のスタートとしては非常に格好悪いものでしたが、突然の空襲にエジプト軍は動揺しました。

さらに、イスラエル空軍はチェコスロバギアを通じて購入した50機のスピットファイア9型(第二次世界大戦中のイギリスの主力戦闘機)と、映画撮影に使うと偽ってかっぱらったB17、モスキート =1942年に登場した英国の双発爆撃機。非常に優秀な飛行機で同時期のドイツ空軍のいかなる戦闘機よりも高速であり、空戦性能もほぼ互角だった= などの爆撃機を中心に、短期間で中東最大の空軍力を作り上げました。  対して15機のスピットファイアしかないエジプトは不安を感じ、エジプト陸軍は前進を止めて占領地の防衛体制に入りました。

 アルタレナ号事件 ; 1948年6月19日、第一次中東戦争の休戦中、900人のイスラエルへの移民と多数のイルグン義勇兵、他にライフル、軽機関銃などイルグンの武器を積み込んだ輸送船アルタレナ号が、南フランスからイスラエルの海岸に航行してきた。ベン=グリオンはすでに正式にIDFに編入されていたイルグンの分派活動を許さず、武器の引渡しを求めたが、ベギンはこの要求に応じなかった。20日にはアルタレナ号はクファル・ヴィトキン沿岸に接近した。結果イスラエル軍と銃撃戦となり、その場でイスラエル軍側2名、イルグン側6名の死者を出した。上陸したイルグンは降伏し、命令に従うことを約束したが、アルタレナ号はその場を去っていった。

翌21日夜、ベン=グリオンと国防次官レヴィ・エシュコル、シモン・ペレスらはテルアヴィヴから少し内陸にあるラマト・ガンの陸軍本部で反対派の襲撃に備え、ライフル片手に一夜を過ごした。その頃、ベギンらの乗るアルタレナ号は南下してテルアヴィヴに向かっていた。ベン=グリオンは彼らに繰り返し武器の引渡しを命じたが、拒否された。アルタレナのイルグン勢は海岸付近に集結したイスラエル軍に対し機関銃を浴びせ、戦端を開いた。応戦で船は炎上した。

22日、ベン=グリオンは臨時評議会の会議を招集し、この事件を報告したとき、「船を燃え上がらせた船は幸いだ。この銃はやがてイスラエル戦争博物館に展示されるだろう」と語った。

また、イルグン側に死者が出たことに世論が悼んでいることを憂慮したが、評議会の一員のラビ(導師)メイル・ベルリンは『ユダヤ人によるユダヤ人の殺害』として警告を発した。

ベン=グリオンは反論し、次のように述べた。≪国家あるいは軍に対する武装蜂起は軍事力で鎮圧することも出来るが、危険を取り除くには軍事力だけでは十分ではない。反対派のごまかしが通用したのは、主として各層の支持を受けたからだ。以前ならこうした支持は正当化するのは難しいにしても説明はついたかもしれない。だが今ではその説明すら難しい。我々は今、生きるか死ぬかの闘いのさなかにあるからだ。今は休戦中だが戦争が終わったわけではない。敵は国内に砦を築いて立てこもっている。エルサレムはアラブ軍団とその砲列に包囲されている。ネゲブ街道はエジプト大群の掌中にある。ミシュマル・ハ・ヤルデンはシリアが占拠している。さらに国境にはアラブ軍が待機している。国内武装ギャングの傲慢な行動は、我々の未来を防衛しユダヤ民族全体の未来を防衛する力をはなはだしく損ねている。この国の国民と全世界のユダヤ人がこうした組織が存在することの悲劇的な意味を理解しない限り、この種の危険は続くだろう。この悪を根絶するために、軍だけでなく全国民が力を尽くさなければならない。≫

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 北部では5月18日からシリア軍の攻撃が開始されましたが、2日後に到着した重火器のおかげで撃退に成功しました。 南部でもイスラエル軍は攻勢に転じ、エジプト軍を押し戻しています。  しかし、ヨルダンのアラブ軍団にはどうしても勝てず、ラトルンへの攻撃も失敗を繰り返し、エルサレムとテルアビブは分断されたままでした。  ベン=グリオンは、ラトルン警察署の攻略を最優先事項と位置付け、元アメリカ陸軍のダビッド・マーカス大佐を作戦指揮官に任命した。

しかし、大佐はラトルンを攻撃せず、突貫工事で向かいの丘の斜面を崩して道路を切り開くことでエルサレムへの補給路を確保しました。 おかけで新市街のユダヤ人は休戦まで街を守り抜きました。

だが、こうした勝利にもかかわらず、イスラエルの軍事的劣勢は動かしがたい物でした。  独立宣言に署名した人々の中からも祖国再建をあきらめる声が出はじめた5月29日、4週間の休戦と休戦監視機構の設置を定めた国連決議題50号が発行されました。 そしてスウェーデン赤十字社総裁、フォルケ・ベルナドット伯爵の仲介により、アラブ・イスラエル間で6月11日から7月8日までの4週間の休戦が合意に達します。 イスラエルにとって、まさに「地獄に仏」でした。

ベン=グリオンはこの4週間を利用して最大限の形成挽回を図ります。 去る5月28日、ベン=グリオンはハガナーを中心とするイスラエル国防軍(IDF)設立を決定しており、イルグンやレヒにも国防軍の指揮下に入るように命じている。 しかしイルグンは命令を受け入れず、国防軍とイルグンの間で緊張が高まります。  6月21日、イルグンの仕立てた輸送船「アルタレナ号」が、約1000人の兵士と多量の武器弾薬を載せてテルアビブに到着しました。  ベン=グリオンは(のどから手が出るほど欲しい。  ついでにいうと、休戦中の武器輸入は禁止されていた)武器類を直ちに国防軍に引き渡すよう命じましたが、イルグンの司令官メナム・ベギン(後、イスラエル首相)は命令を拒否。 ベン=グリオンはこれまで極右を大目に見てきましたが、今度ばかりは許さず、国防軍にイルグンを攻撃させます。  元はハガナーである国防軍の兵士は、それまでの鬱憤を晴らすように撃ちまくり、アルタレナ号は積荷ごと撃沈され、一週間の戦闘の末イルグンは降伏、国防軍の指揮下に入り、レヒは解散しました。

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こうしてベン=グリオンは全軍の統一に成功しましたが、反対にアラブ諸国では対立が表面化しました。 特に、ヨルダン川西岸地区を併合しようとするトランスヨルダンの意図が明らかになったため、他のアラブ諸国はヨルダンの勢力拡大に利用されるのではという疑いを抱き、イスラエルのような戦力強化策を取ることが出来ませんでした。

7月9日の深夜、休戦期限切れと同時にイスラエル軍は攻勢をかけ、テルアビブ周辺のアラブ軍を撃破しました。 イスラエルは占領地を奪還するまで「停戦」するつもりはありませんでした。 またアラブ側も休戦の延長を拒否していたので、7月15日、パレスチナにおける無期限の軍事行動の停止とエルサレムの非武装化を定めた国連決議第54号を採択します。 イスラエルもアラブもこの決議を受諾し、18日には再度の休戦となりましたが、初期の失地を回復すると共に、後々の国土の安全を考えて可能な限りの領土を確保しようとイスラエル軍は攻撃を続けました。 このため、国際世論はイスラエルの制裁に傾きます。

9月17日、ベルナドット伯爵がエルサレムで暗殺された。 犯人は結局捕まりませんでしたが、こんなことをするのは勿論、レヒ。  最後の最後に後足で砂を引っ掛けてくた。 この事件後、国際世論はにわかにイスラエルにとって逆風となり、国連はイスラエルに対して再三停戦勧告を出されます。 だがしかし、イスラエルは無視ぶっちぎりで攻勢を続ける。

ヨルダン軍に勝つ自信がなかったのか、攻撃は専らエジプトとシリアに向けられ、1948年末まで、181号決議で規定されたユダヤ人地区をはるかに逸脱する地域を占領した上、更にシナイ半島のエジプト領になだれ込みました。 この事態に1949年の元旦、エジプト領からイスラエル軍を撤退させるよう、ついにイギリスが最後通牒を発します。 ベン=グリオンは、イギリスの恫喝に屈し、シナイ半島からイスラエル軍を撤退させたのです。  そして、1949年1月12日から和平交渉が開始され、7月までにイラクを除く交戦国との停戦が成立します。

ユダヤ人はようやく祖国を手に入れました。 しかし、イスラエルの建国と膨張により70万-100万のパレスチナ・アラブ人が父祖の地を追われることになり、かつてのユダヤ人のように、流浪の民として辛酸をなめることになります。  ユダヤ人の長い迫害の歴史は分かりますが、同じ運命を他の民族に負わせたイスラエルの姿勢には疑問を感ぜずにはおれません。だがしかし、民族主義とはそんな安っぽい感傷論で語る問題ではないのでしょう・・・・・・・・

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