シオンへの夢と闘争-19-

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失墜 

1953年10月にキビヤ村虐殺事(前節参照)が起こった際、ベン=グリオンは事件を引き起こした軍事作戦での要職にあった。 その地位からして 1953年末、彼は政府職辞任の意を表明し、1954年1月にモシェ・シャレットに第2代首相の座を渡している。 しかし、ベン=グリオンは1955年に国防相のポストを引き受けて政界に復帰し、すぐさま首相に再選した。 そして、 ベン=グリオンは1963年に「個人的理由」として首相の座を辞し、レヴィ・エシュコルを次期首相に指名するが、1年後、ラヴォン事件について2人の対立が始まり、1965年ベン=グリオンは政党を離れ、新政党ラフィ(Rafi)を結成、10の議席を得た。 六日間戦争の後、ベン=グリオンはエルサレム、ゴラン高原、ヘブロン山を除く全ての占領地域を返還することに賛成していた。

1968年、ラフィがマパイと合併しアラインメント(Alignment)となっても、ベン=グリオンは彼の元の政党との和解を拒み、選挙改革として、選挙区制制度から比例代表制方式に移行することを望んでいる。 彼は政治的な信念を貫くために、その後 別の新党としてナショナル・リスト(National List)を立ち上げ、1969年の選挙で4議席を獲得しているのだが、彼の政治的軌跡を追ってみよう。

1953年末にベン=グリオンは、彼は政府職辞任の意を表明したのだが、1953年まで国防大臣兼任の首相を努めていた。 その間、教育制度の整備と国土の開拓 =恐らく占領地域の支配の既成事実化のため= に政策の重点を置いていた。 また、移民政策を推進し、60万人だった人口を建国4年目で倍増させ、イスラエルは驚異的な発展を成し遂げます。 外交では、西ドイツと賠償協定を結んだ上、英仏と同盟関係を成立させている。 そして、彼は突然「公務に疲れた」と大臣職を辞し、ネゲブ砂漠のキブツに引っ込むのですが、この時、涙を流して別れを惜しむマパイ党員達を「泣くくらいなら、俺と一緒に来い!」と怒鳴りつけたとか。  しかし、ベン=グリオンは政界から引退したわけではなく、ネゲブ砂漠のキブツで農業に従事しながらも、マパイとヒスタドルートに対する影響力を保ち続けてましたのです。

そして、1955年、ベン=グリオンは国防大臣として政界に復帰し、同年中に再度首相に就任します。 彼は翌年の「シナイ作戦(第二次中東戦争、スエズ動乱)」を主導、これはエジプト大統領ガマール・アブデル・ナセルのスエズ運河国有化宣言に対し、それまで運河の経営権を有していたイギリスとフランスが、支配権を取り戻そうとしたことに端を発していたのです。

確かに、年間一億ドルもの利益をもたらしてくれる運河を奪われた英仏の怒りも分からぬではないが、スエズ運河の位置と歴史を考えると、フランスはともかくイギリスに権利はあったのでしょうか? それはさておき、国際的非難を避けるため、英仏はまずイスラエルに戦端を開かせ、前線がスエズ運河に迫ったところで「運河の安全を守る」と調停者面してスエズ運河を奪還する計画を立てたいたのです。

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一方、エジプトとイスラエルの関係は、パレスチナ・ゲリラの活動をめぐって緊張していました。 1955年2月には、アリエル・シャロン大佐(←誰の事だか分かりますよね?当時27歳)率いるコマンド部隊がガザ地区を攻撃しています。  1955年9月、ナセル大統領は、イスラエルのインド洋への玄関口、チラン海峡の封鎖を宣言していたので、イスラエルはイラン(当時はまだパーレビ王朝で親アメリカ=親イスラエル)からの原油輸入ルートが危機に瀕していました。 さらに英仏の後ろ盾のもと、シナイ半島のパレスチナゲリラの基地を掃討できるチャンスとあって、ベン=グリオンは英仏の話に乗ったのです。

1956年10月29日、アリエル・シャロン大佐の空挺旅団が、シナイ半島の要衝ミトラ峠に降下したことから始まりました(なお、シャロン大佐の任務はあくまで峠の確保でしたが、独断で近くのエジプト軍に攻撃をかけて大損害を出しています)。  小さな躓きがいくつかあったものの、イスラエルの作戦は順調に進展しました。
10月31日、英仏の空軍機がエジプト各地の空軍基地を空襲します(ただし、飛行機の大半はシリアかエジプト南部の基地に退避していた)。 しかし、英仏両国はアメリカの強い非難を受けてたじろぎました(アメリカは10月23日に発生したハンガリー動乱への非難しようとしていた矢先であり、西側諸国の似たような暴挙に怒った)。 さらにソビエトに至っては核攻撃までちらつかせて英仏両国に脅しをかけました。 11月6日、英仏は国連の停戦勧告を受諾、2日後、イスラエルも停戦を受諾してシナイ半島から撤兵したのです。

露骨な侵略に失敗して大恥かいた英仏両国に対し、大損害を受けながらも国土とスエズ運河を守りぬいたエジプトは一躍、アラブの盟主となりました(もっとも、すぐにイエメン派兵の失敗で権威は地に落ちました)。 イスラエルの方もチラン海峡の封鎖を打破した上、シナイ半島のゲリラ基地も破壊し、おまけにエジプト軍から戦闘機、戦車、トラックなどソ連の最新兵器を多量に捕獲した上、7000トンの弾薬と莫大な量の燃料(200万トン?)を分捕り、軍事作戦は大成功でした。

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結局、英仏はスエズ運河を失い、イギリス首相アンソニー・イーデンは敗戦の責任をとらされる形で辞職した。 アメリカはナセルをこれ以上追い詰めて、ソ連が介入してくることを恐れたが、しかし英仏軍撤退の瞬間にアメリカが欧州に対して圧倒的優位であることを世界に誇示することができた。

イスラエルは率先して戦いを仕掛けたとして国際社会、主にアメリカから非難された。ダレス国務長官は経済制裁を示唆し、イスラエルは上級特使としてハイム・ヘルツォーグとゴルダ・メイアをアメリカに派遣した。 1956年11月14日にイスラエルのクネセト議会で、制圧した全地域からの軍撤退を決める合意が成された。 首相兼国防相のベン=グリオンは右派政党の批判を抑えながら、1957年3月16日に撤退を開始させている。

関係した諸国が戦後処理にそれぞれの利害で対立している。 エジプトは国有化宣言を実行できた上に、イスラエルと英仏に対して正面から戦ったことでアラブから喝采を浴び、中東での発言力を確固たるものとした。 ナセルは翌1957年1月に国内の英仏銀行の国有化を宣言、エジプト国内の欧州勢力を一掃し4月にはスエズ運河の通航を再開した。 しかし英仏は惨憺たる結果で、イギリスは戦費として5億ポンド近く出費したが戦果は得られず、それどころかポンドが大幅に値下がりし、一時スターリング圏が崩壊寸前まで至った。 それが原因となりアメリカに対して経済的立場が弱くなり、以降は追従せざるを得なくなった。フランスもこの戦争で得たものはなかったが、米ソ以外の新しい勢力として、ド・ゴール主義を根幹とする新しい外交政策を創り出した。

さて、シナイ作戦の成功でベン=グリオンの権威は揺るぎないものになったと思われましたが、思わぬところで過去の悪行に足をすくわれました。 しかも間抜けな事に、その悪行はベン=グリオンの政界復帰のきっかけになった事件でもあったのです。

1953年、ベン=グリオンが大臣職を辞した時、国防大臣の後任にはピンカス・ラヴォンという人物が選任されました。 ラヴォン氏は1950年から52年までベン=グリオン内閣の農業大臣を努めていた人物ですが、国防大臣向きの人物ではなく、将軍達の言うことに黙って従うから選ばれたようです。 1954年、イスラエル情報部は、対立の深まっていたエジプトをスポンサーから切り離そうと、エジプトに反英、反米テロ組織が存在するように思わせる作戦を立案したのです。

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 7月、イスラエルの破壊工作部隊がカイロのアメリカ、イギリス関連の施設が爆破したが、イスラエル情報部は明らかにエジプト警察の捜査能力を見くびっていたようで、13人のスパイの内、11人が逮捕されてしまう。 そして、 カイロで裁判が始まると、イスラエル首相モシェ・シャレットは「でっちあげ」とエジプトを非難、しかし、11人がまさしく実行犯であることが証明されたので、2人は処刑され残りは10年以上の懲役刑になる。 この大失敗は当然問題になりました。 問題は、ラヴォン国防相が作戦を認可していなかったことであり、ラヴォンはモシェ・シャレット首相に対して調査を要求しました。

 それを受けてアイザック・オルシャン最高裁判所長官と、イスラエル国防軍のヤーコブ・ドリ将軍からなる調査委員会が開かれるが、ベンヤミン・ジブリ情報局長官は、作戦はラヴォンの承認を得ていたと主張、モシェ・ダヤン将軍とシモン・ペレス国防次官(どちらもベン=グリオンの忠実な部下だった)もジブリ長官の主張を裏付けました。 ラヴォン氏はジブリの証拠をでっちあげと主張し、ジブリ、ダヤン、ペレスのクビを要求します。 しかし、エジプトの裁判で、作戦が国防大臣の承認を得て実行されたものだと証明されていたので、ラヴォンの立場は著しく不利でした。 調査委員会の結論は「誰が責任者かよく分からん」という頼りない物でしたが、シャレット首相はラヴォン氏を辞めさせます。 ベン=グリオンがこの時、事の真相を知っていたのかどうかはよく分かりません。

しかし悪いことは出来ない物で、1960年になって、上司から調査委員会への偽証を命じられたという情報局員から地方裁判所に告発がありました。 その結果、ラヴォン氏が作戦に無関係なことが証明されたので、ラヴォン氏はベン=グリオンに対して名誉回復を要求します。 しかし、何を思ったかベン=グリオンは拒否。 事件の隠蔽に加えて、マパイ党内におけるベン=グリオンの影響力が議会の外務委員会と国防委員会で問題となり、「ラヴォン事件」として知られる政界全体を巻き込む一大スキャンダルに発展しました。  新たな調査委員会が開かれ、全員一致で1954年の作戦にラヴォン氏は無関係であると結論したのだが・・・・・・・・・

ベン=グリオンは委員会の結論に対して声を大にして反対します。  更に、1961年2月4日のマパイ党総会では、明らかにベン=グリオンの圧力により、ラヴォン氏のヒスタドルート総裁解任が決定されました。  しかしながら、テルアビブとエルサレムではラヴォン支持のデモが起きました。

「ベン=グリオン、Sde Boker(ベン=グリオンのキブツ)へ帰れ。ダヤンとペレスも行け!」,ベン=グリオンと子分二人は厳しく糾弾されました。 それでもベン=グリオンは政権の座に留まっていましたが、マパイ党でもヒスタドルートでもベン=グリオンの支配力は完全に失われていました。

ベン=グリオンは、1970年に政界引退しキブツに隠棲した。 ベン=グリオンは閑疎とした不毛のネゲヴ砂漠に入植地を作ることがパレスチナのアラブ人たちの反発を最も抑えられる方法だと考え、身を以って範を垂れるためネゲヴの中心のスデ・ボケル(Sde Boker)というキブツに移ることを選び、水を送るために国立の貯水池を建てた。彼はユダヤの人々が人類に大きく貢献することができる場所として、砂漠を開発する挑戦に努めた。

そして、 1973年、ダビッド・ベン=グリオンはSde Bokerのキブツで、六度の戦争を目の当たりにする波乱の生涯を閉じました。 ダビッド・ベン=グリオンはイスラエル建国の父です。 しかし、その業績は決して派手なものではなく、主として地味な内政の分野でした。 また、イスラエルではベン=グリオンは「カリスマ的指導者」とされていますが、実際のところ、それほどカリスマがあったわけではありません。 少なくとも、ワイツマン博士よりもカリスマ性はずっと劣っていたと言えるでしょう。

人々がベン=グリオンに従ったのは、常にベン=グリオンが正しい判断を下してきたからです。  だから、ラヴォン事件のたった一度のミスで彼の政治生命は終わりました。 とは言え「建国の父」であることには変わり無く、イスラエル国民から相応の尊敬を受け続けました。

ベン=グリオンは死後、ネゲヴ砂漠のミドレシェト・ベン=グリオン(Midreshet Ben-Gurion)に妻とともに埋葬された。1975年発行の旧500イスラエル・リラ紙幣で肖像が使用されている。 また 現在、テルアビブのダビッド・ベン=グリオン空港(旧ロッド空港)で、彼の名を偲んでいます。

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===== 続く =====

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