連合維持か独立か=2=

2015.03.22_1

森深き地を統一した スコット族

スコットランドに人類が足を踏み入れたのは、紀元前5000年ごろとされている。 しかし、今日のスコットランド人の祖先が、グレートブリテン島北部に定住を始めたのは存外遅く、紀元前800年ごろというのが有力な説だ。 中部ヨーロッパを故郷とするケルト人の一派が、はるばるここまで到達したのである。

歴史書に登場するまでにはさらに長い時間を要し、ようやく言及されたのは西暦84年になってから。イングランドを制圧したローマ軍が北進、大規模な戦闘が行われて「1万人のカレドニア人が殺された」と、ローマの歴史家タキトゥスが書き記したのだった。

カレドニアは「森深き地」の意。 ここで先住民としてローマ軍と戦ったのは、ピクト族だったとされている。体に入れ墨をほどこす習慣があったことから、この名で呼ばれた人々は勇敢で、その後もローマ人をおびやかし続けた。 128年に完成した「ハドリアヌスの長壁」は、ピクト族の南下を抑えるための防御壁で、グレートブリテン島を東西に横切るように幅約2,4メートル、長さ117キロにわたって築かれた。その規模の大きさに、ピクト族に対する恐れの強さが見て取れる。

※ カレドニア(Caledonia)とは、古ラテン語グレートブリテン島の北部を意味する地方の名称であり、ローマ帝国が名付けたことに由来する。ほぼ現在のスコットランドにあたるが、カレドニアがさす地域の境界はかならずしも厳密でなく、ハドリアヌスの長城あるいはアントニヌスの城壁を境界とする場合もある。現在「カレドニア」という呼称は叙情的(romanitic)で詩的(poetic)な響きをもって使われる。  カレドニアという名称の語源はピクト人の一派でカレドゥニー族(カレドニア人とも)から来ていると考えられている。ダンケルドという都市名はカレドニア(ケルド)の砦(ダン)に由来している。 現在では、カレドニア造山帯カレドニア運河ニューカレドニアなどにその名を残している。

ただ、このピクト族も、現在のスコットランド全域を統一したわけではなかった。 東西分裂が招いたローマ帝国の弱体化により、ローマ人が410年にグレートブリテン島の統治を放棄して引き上げてから、カレドニアは4世紀にわたって、戦乱の時代が続く。

ピクト族は主として、ハイランドを含むスコットランド北部を支配。 フォース川以南は、やはりケルト系のブリトン族と、現南ドイツから流れてきたアングル族が分け合い、スコットランド西部のアーガイル・キンタイア地域は、アイルランドから移住してきたスコット族が掌握、ダルリアーダ王国を築いた。 これら4つの部族が領土拡張の争いを続ける一方、スカンジナビアから海路渡ってきたバイキングの襲撃を何度も受け、スコットランドはなかなか穏やかな日々を迎えることができなかった。

大きな変化が起こったのは9世紀半ば。 843年に、ダルリアーダ王国の君主、ケネス・マカルピンが北部を制圧。 統治エリアは「スコティア」と呼ばれるようになる。

※ ブリテン島に関する文字史料が登場する8500年前までには、スコットランドに人類が到達していた。一説によれば、最後の間氷期(13万-7万年前)にヨーロッパ全体が温暖になったときには、人類はスコットランドに到達していたという。しかし、このとき人類がいたとしても、間氷期が終わって寒冷になると人類はいなくなった。ふたたび人間が住めるほどに温暖になるのは紀元前9600年ごろである。

2015.03.22_2

・ 中石器時代、本格的にスコットランドに人類がやってきて、狩猟採集生活を送るようになった。紀元前8500年ごろのものと考えられる遺跡がエディンバラにほど近いクラモンド村で発見されている。かれらは狩猟採集生活を送っていた。ほかにも多数の遺跡・遺構が見つかっており、高い造船技術を持っていたことが判明している。

・ 新石器時代農耕の開始により定住生活が可能になった。オークニー諸島には紀元前3500年頃の遺跡があり、さらにスカラ・ブレイ遺跡群は紀元前3100年頃のものと推定される、きわめて保存状態のよい石造りの住居であり、世界遺産に登録されている。スコットランドの新石器時代人はメイズハウ紀元前3500年頃)に代表される石室をもつ墳墓をつくり、紀元前3000年頃からは環状列石(ストーン・サークル)や列石(ストーン・ロウ)など巨石遺構をつくった。これらの遺構はヨーロッパ各地にみられる巨石文化で、ストーンヘンジも同じ影響下にある。考古学者たちは、当時の人々がすぐれた天文観測能力を有していたと考えている。

・ 青銅器時代になると、こうした巨石建造物にくわえてメルローズ英語版近郊のアイルドン・ヒル遺跡(紀元前1000年頃)など環濠集落の遺跡も見つかるようになる。こうした環濠集落は、数百の民家を包含する規模であった。

・ 鉄器時代を担ったのは、文化的な類似性から、従来、大陸から流入したケルト人と考えられていたが、DNA解析などから現在この説は支持されていない。青銅器文化を担った人々が大陸からの文化的影響を受けつつ、独自の文化を形成したと考えられる。紀元前700年ごろからブロッホ(Broch)とよばれるスコットランド特有の円塔形の要塞の建設も始まった。このことから、戦乱が頻繁だったことがわかる。

2015.03.22_3

  この「スコット族の国」が、現スコットランド全土を勢力下におくことに成功したのは、約2世紀後の1058年、時の君主はマルコム3世である。 別名、「マルコム・カンモー(Malcolm Canmore)」≪canmore=頭の大きな、うぬぼれの強い≫と呼ばれた同王は勢いづき、一度ならず、イングランドへの南下を試みるものの、イングランド王ウィリアム1世軍の反撃を受けて惨敗。 ウィリアム1世は、1066年にヘイスティングズの戦いに勝ち、イングランド王として即位したノルマンディ公であることは言うまでもないだろう。 成立したばかりの小国の王がたちうちできる相手ではなかった。 しかし、マルコム3世もしたたかだったようだ。 1072年、ウィリアム1世に忠誠を誓い、ノルマン貴族たちを迎え入れることに同意しながらも、独立国として、一応の体面は保った。

ちなみに、このマルコム3世時代に、スコットランドの新たな支配者層として定住することになったノルマン貴族の中に、ブルース家、スチュワート家の名が見られた。 スコットランドの悲願となる独立について語るとき、欠かすことのできない大きな役割を果たすことになるのが、こうしたノルマン系貴族の子孫なのだから、歴史はわからないものである。

マルコム3世によって、ようやく統一されたスコットランドではあったが、不安定な状態は一向に改善されなかった。王は戦死するか、暗殺されるか、あるいは不慮の事故で落命するかし、王が亡くなるたびに激しい王位争奪戦が起こった。 カンモー王家の時代に直系の長子が王位を継ぐという制度が採用されるようになったものの、長子を亡き者とすればその次の子に権利がめぐってくる。

有力貴族たちは、どの王子の後ろ盾になるかで勢力図が大きく変わることから、権謀術数に明け暮れた。 また、王家の血を引く者と貴族との婚姻により、系図は複雑化。自分こそが王にふさわしいと名乗り出る者が多数現れる事態となることも珍しくなかった。 スコットランドは、隣国イングランドがつけいる隙をむざむざ作っていたといえる。

2015.03.22_4

 因みに、グレートブリテン島の北部、現在のイギリスのスコッロランドに存在した王国に関して、 843年にケネス1により成立したとされ、1707年のイングランド王国との合同で消滅したのだが、ステュアート朝ジェームズ1が1603年にイングランド王位を兼ねて以来、イングランドとは同君連合の関係にあったが、アン女王時代の1707年の連合法により、イングランド王国と合同してグレートブリテン王国となった。 その経緯を概略すれば・・・・・・・・・。

アルピン朝; ダルリアダ王国の王ケネス・マカルピンは東のアルバ王国を征服したといわれているが不明である。しかし、ダルリアダ王国とアルバ王国が統合されたということは確かであるため、この統合の頃がスコットランド王国の成立といえる。軍を起こしてケネス3世を殺害し、王位を奪ったマルカム2世のとき、1018年アングル人ロージアン王国軍を破り、これを併合した。同じ年、ブリトン人ストラスクライド王国の王位を孫のダンカン(後のダンカン1世)に継承させ、スコットランド独特のタニストリーと呼ばれる王位継承システムを長子相続のシステムに変えた。しかし、実際に効果を発揮するのは、ダンカン1世の長男マルカム3世以降になる。1040年にダンカンは祖父マルカム2世の死去によりダンカン1世となったときには、ストラスクライドと併せて、現在のスコットランドとほぼ同じ領域を手中にした。

マリ朝; ウィリアム・シェイクスピア同名の戯曲でも知られるマクベスは、イングランド王国北部にあるダラムへの侵攻が失敗して重臣たちの信望を失った従兄のダンカン1世を殺害し、王位を奪った。マクベスは、反対勢力や王位継承の可能性のある者たちを次々と抹殺していった。1043年にアルピン王家の血を引くバンクォウを殺害、1045年にはダンカン1世の父でアサル領主のクリナンと戦って彼を殺害した。マクベスは統治能力に優れた人物と言われ、17年と当時としては長期間在位した。また、1050年にはローマ巡礼の旅を行っている。

アサル朝; 殺されたダンカン1世の子で青年期までサクソン風に育てられ、サクソン好みのアサル家のマルカム・カンモーは、1054年にマクベスをスクーンの戦いで破り、1057年ランファナンの戦い英語版で戦死させた。そして王位がケネス3世の曾孫ルーラッハ(マクベスの継子)に移ると、マルカムはその4ヶ月後ストラスボギーでルーラッハを討ち取り、マルカム3世として即位した。これ以降、1290年までアサル王家が支配することとなる。

マルカム3世は、サクソン王の血を引く王妃マーガレットとともにフューダリズム(西欧封建主義)を推し進めた。また、宮廷の習慣をサクソン方式に改め、教会の行事や典礼を伝統的なケルト式からローマ式に改革した(マーガレットは、その功績から後に列聖された)。イングランドへはたびたび侵攻したが、1071年ウィリアム1世に攻め込まれて、イングランドへの臣従を誓い、長男ダンカン(後のダンカン2世)を人質に取られた。マルカム3世はその後もイングランドへの侵攻を繰り返したが、1093年、5度目のイングランド侵攻において戦死した。

マルカム3世の弟であるドナルド・ベインはイングランド嫌いで知られ、中・南部を中心としたマルカム3世の政治に不満を持っていた北・西部の豪族たちに支持されて、マルカム3世の長男ダンカンを差し置いてドナルド3世として王位についた。ドナルド3世は王位につくや、宮廷の様式・習慣をケルト式に戻した。

1094年、イングランドに人質となっていたダンカンはイングランド王ウィリアム2世の援助を受け、王位奪還に立ち上がった。ドナルド3世は敗れてわずか7ヶ月で王位を奪われ、ダンカンはダンカン2世として即位した。しかし、マルカム3世以来のイングランド臣従に対する重臣たちの反発は大きかった。半年後、ドナルド・ベインは支持者やダンカン2世の異母弟エドマンドたちと謀ってダンカン2世を殺害し、王位に復帰してエドマンドと共同統治を行った。それに対して、ダンカン2世の異母弟エドガー1097年にイングランド王ウィリアム2世の援助を受け、ドナルド3世廃位の軍を起こし、ドナルド3世を捕らえて自ら王位についた。

2015.03.22_5

エドガーは、イングランドに対して従順な姿勢をとる一方で、1098年にはノルウェーマグヌス3世に屈服して、キンタイアヘブリディーズ諸島といった西部領域をノルウェー領として認めた。こうした弱腰の外交のため、エドガーは「平和愛好者」と呼ばれた。また、彼はエディンバラ城をスコットランド王の王宮として使用した最初の王として知られる。エドガーは生涯を独身で通し、後継者として次弟アレグザンダー1世を王位につかせた。

アレグザンダーは兄エドガーの遺言通り、スコットランドの中部と北部のみを直接統治し、弟デイヴィッドには南部を統治させ、その他の地域は領主に任せきりであった。しかし、1115年頃に起きた北部のマリや西部のマーンズでの反乱には徹底的な討伐を行い、その過酷さから獰猛王(Fierce)と呼ばれることになった。

アレグザンダー1世はイングランド王ヘンリー1世の庶子シビラを王妃とし、イングランドとの関係を深めていった。アレグザンダーの妹マティルダはすでにヘンリー1世に嫁いでおり、アレグザンダーはヘンリーの義兄であるとともに義理の子という関係にあった。アレグザンダーは宗教の面でもイングランド色を強め、キリスト教の影響力がさらに強まっていった。当時スコットランドはイングランド北部のヨーク大司教の管轄にあったが、ローマ教皇にこうした状況を改めるように請願し、またセント・アンドリューズの司教を独自に招致したりした。

1124年アレグザンダー1世は世継ぎを残さずに死去したため、デイヴィッド1世が王位を嗣いだ。デイヴィッドは兄たちと同様イングランドで育ち、ノルマン風の教育を受け、ノルマン青年たちと親しく交わった。そういうこともあり、イングランドで知り合ったノルマンの友人たちをスコットランドに招き、要職につけた。こうして、デイヴィッドは司法・行政などをノルマン流に改革し、王権の強化に努めた。イングランドでスティーブンと姪マティルダの間に王位争い(無政府時代)が起こると、それに介入した。

2015.03.22_6

※ 下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます ⇒ ウィキペディア=に移行
===== 続く =====

                         *当該地図・地形図を参照下さい

 

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;歴史小説】 http://ameblo.jp/thunokou/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中