連合維持か独立か=3=

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スコットランド王国のアレグザンダー1世(アサル朝)は、イングランドヘンリー1世の庶子シビラを王妃とし、イングランドとの関係を深めていった。 しかし、1124年にアレグザンダー1世は世継ぎを残さずに死去したため、デイヴィッド1世が王位を継いだ。 デイヴィッドは兄たちと同様イングランドで育ち、ノルマン風の教育を受け、ノルマン青年たちと親しく交わった。 そういうこともあり、イングランドで知り合ったノルマンの友人たちをスコットランドに招き、要職につけ、デイヴィッドは司法・行政などをノルマン流に改革する。 王権の強化に努めた。

また、イングランドでスティーブンと姪マティルダの間に王位争い(無政府時代)が起こると、それに介入した。 1136年、マティルダ支持を宣言してイングランド領に攻め込み、カーライルニューカッスルを占領する。  しかし、1138年 スタンダードでスティーブンに敗れ、いったんはカーライル、ニューカースルを失ったものの、1140年に結ばれたスティーブンとマティルダの和議の結果、ノーサンバーランドカンバーランドなどの支配権を獲得した。 このときにイングランドより得たカーライルの貨幣鋳造所により、スコットランドで初めてコインを鋳造した。 これにより、スコットランドでコインが流通し、経済が発展した。

デイヴィッド1世は宗教政策においても、司教区を整備し、教会や修道院を建設するなど、改革を進めたため、スコットランド国内にキリスト教が広く普及した。 また、スコットランド化した英語(スコットランド語)が共通語として通じるようになった。 デイヴィッド1世の統治した時代、スコットランドは国家と呼ぶにふさわしい国に仕立て上げられ、デイヴィッド1世は最初の偉大な王と呼ばれることになった。

1153年、マルカム4世が即位した。 彼はイングランド王ヘンリー2世に屈して、1157年に北部イングランドのノーサンバーランドカンバーランドの領有権を放棄した。 その跡を継いだウィリアム1世は、マルカム4世が奪われた北部イングランドの奪還を当面の目標とする。 1168年、フランスルイ7世と秘密同盟(いわゆる「古い同盟」(Auld Alliance))を結んで、イングランドと対抗した。 イングランドでヘンリー2世と三男リチャード(後のリチャード1世)、その弟ジョン(後のジョン王)の親子・兄弟の内紛が起こると、リチャードやジョンと同盟を結び、1174年にノーサンバーランドへ攻め込んだ。

しかし、ウィリアム1世はヘンリー2世軍に敗れ、捕らえられた。 そして、スコットランドはイングランドに完全に臣従すること、スコットランド南部の城にはイングランド軍が進駐することなど、屈辱的な講和(ファレーズ協定)を結ばされた。 1189年にイングランド王となったリチャード1世は、十字軍に熱意を燃やし、その資金源としてスコットランドとの臣従関係を金銭で清算することを狙った。 ウィリアム1世は1万マークを支払い、イングランドとの臣従関係の解除、スコットランド王としての主権回復、イングランド軍のスコットランドからの撤退を内容とするという協定(カンタベリー協定)が結ばれた。

また、ウィリアム1世は北部のマリ地方やケイスネス、サザランドを鎮圧し、国王の支配下に置くことに成功した。 こうして、ノーサンバーランド以外の全スコットランドを掌握した。 宗教面では、1192年にローマ教皇ケレスティヌス3世と交渉し、スコットランドの教会は、イングランドのカンタベリー大司教から独立し、自前の教会組織を持つことに成功した。 また、ウィリアム1世は1199年にイングランド王となったジョンとノーサンバーランドを買い戻す交渉をしたが実らないままであったが、49年間在位し スコットランド国王として初めて紋章にライオンを用いたため、獅子王(William the Lion)と呼ばれる。

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1214年、アレグザンダー2世が跡を継ぎ、1219年、イングランドと友好関係を復活させた。 1238年にヘンリー3世に再婚(王妃ジョーンと死別に伴う、フランス貴族の娘マリー・ド・クーシーとの結婚)はイングランドへの敵対行為であると言いがかりをつけられたこともあるが、1249年にニューカッスルで和解した。 1261年、父アレグザンダー1世が果たせなかったヘブリディーズ諸島ノルウェーからの奪還に成功し、1263年には西部のクライド湾でノルウェー王ホーコン4世を討ち破った。 3年後の1266年パースで両国は条約を結び、ヘブリディーズ諸島は正式にスコットランド領となった。アレグザンダー3世の時代、イングランドとの関係は良好で、国内は安定し、「黄金時代」と呼ばれるほど国民生活が向上した。

アレグザンダー3世が嗣子のないまま亡くなり、長老・重臣たちはアレグザンダー3世の血を引くノルウェー王女マルグレーテ(マーガレット)を後継者に選出した。 こうして、わずか3歳のスコットランド初の女王が誕生したが、マーガレットはノルウェーの王宮にとどまったままだった。 隣国イングランドのエドワード1世はスコットランド王位の継承権を狙って、4歳の王太子エドワード(後のエドワード2世)とマーガレットの結婚を迫った。

スコットランドの長老・重臣たちにはこの要求を拒否できず、1290年に2人の結婚に同意することをエドワード1世に通知した。 スコットランド南部で結婚条件が取り決められたが、国境地帯にイングランド軍を配置するばかりか、スコットランドの王位継承権をイングランド側に移すという屈辱的な内容であった。 結婚のためにスコットランドに渡ることになったマーガレットを乗せた船が、ノルウェーのベルゲンからスコットランドを目指した。 荒海の中、9月26日にオークニー諸島に船が着いた。 しかし、マーガレットは極度の船酔いによりわずか7歳で死去した。 マーガレットの死によってスコットランドのアサル王家は断絶し、13人の王位請求者が乱立する事態となった。

『聖人』の異名をとったデヴィッド1世(在位1124~53年)の流れをくむ、アサル王家が1290年年に断絶したこと、 そして、イングランド王が、ウェールズ征服を果たすなど文武に秀でたエドワード1世であったことは、スコットランドにとって2重の不運であった。 スコットランドはイングランドからの独立戦争へ 突入して行く。

アサル王家の後継に名乗りをあげた13名もの『近親者』たちは、内戦勃発を恐れるあまり、あろうことか、イングランドのエドワード1世に仲裁役を依頼したのである。 大軍を率いて北上したエドワード1世の前に、対立したままのスコットランド貴族たちはいいなりになるしかなく、エドワード1世の傀儡として、ジョン・ベイリオル(John Bailliol)が即位する(在位1292~96年)。

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  ベイリオルは、当初こそ、エドワード1世の要求を受け入れていたものの、1294年、他のスコットランド貴族たちがエドワード1世に反旗を翻してフランスと同盟を結んだこともあり、みずからも1296年、挙兵。 しかしながら、エドワード1世軍に大敗を喫し、スコットランド王が代々、戴冠する際の『座』として使われてきた、スクーン宮殿の「運命の石(the Stone of Destiny)」を奪われてしまったのである。

  イングランドの属国と成り下がってしまったスコットランドだったが、このエドワード1世を上回る強運の持ち主が現れる。その名をロバート・ザ・ブルース(Robert the Bruce)という。 ロバートの祖父は、ベイリオルと王座を争った12人のうちのひとりだった。 ロバート・ザ・ブルースは、スコットランド国王になりたい一心で、一時はエドワード1世にすりよったり、一番のライバルであったベイリオルの甥、カミンをよりによって教会の中で刺し殺してしまったりと、人格的に優れているとして尊敬された人物では決してなかった。

しかしながら、カミン殺害の後、1306年にみずから戴冠して「ロバート1世」を名乗ってからは、スコットランド国王として八面六臂の活躍を見せる。 ロバート1世をたたきのめすべく、再び大軍を引き連れ北へと向かう途中でエドワード1世が急逝したことは、天がロバートに味方したことを示す吉兆と言えた。

その運の強さが存分に証明されたのが、1314年の≪バノックバーンの戦い≫である。 父王とは異なり、無能であったエドワード2世の軍を、ロバート1世がスターリング郊外で撃破。 この戦いは今も栄光の勝利としてスコットランド人の心に刻まれている。 1314年からちょうど700年目を迎えた今年、様々な記念行事が行われたが、ひるがえってみると、残念ながら、ここ700年で歴史に特筆される勝利が他にない。 バノックバーンの戦いから700年という節目の年に、独立の是非を問う住民投票が行われることをSNPが意図したかどうかは分からないが、因果めいたものを感じるスコットランド人は少なくないことだろう。

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 ※ バノックバーンの戦いBattle of Bannockburn、は、1314年6月24日日にスコットランド王国とイングランド王国の間で行われた合戦。 スコットランドに侵攻したエドワード二世率いるイングランド軍が、スターリング近郊でロバート1世とスコットランド軍と戦い、大敗した。

1272年に王座についたエドワード1世はイングランドの最も偉大な戦士王の一人であり、ウェールズの征服者、また「スコットランドへの鉄槌」であることを周囲に示した。エドワード1世はウェールズ戦争での経験から弓兵の価値を確信し、王国全土から多数の弓兵を募った。イングランド軍による1296年のスコットランド侵攻では、エドワード1世がフランスとの戦いで不在のときにウィリアム・ウォレスの地形を利用した戦術に敗れた(1297年、スターリング・ブリッジの戦い)が、1298年のファルカークの戦いでは重装騎兵と弓兵の連携によってスコットランド軍を撃破した。当時のスコットランド軍はシルトロン隊形を保つ大勢の槍兵と、剣と円盾を持つ兵で構成されていたが、装備は貧弱でイングランド軍と正面から激突するには限界があったからである。ファルカークの戦いによって大惨敗を喫したスコットランド軍は、ロバート1世も服従の申し出をしなければならない状況になり、エドワード1世は戦略的に重要な拠点であるスターリング城を占拠した。

その後、ロバート・ブルースはイングランドへの服従と反乱を繰り返し、一時はラスリン島に逃げるまで追い詰められたが、1307年にエドワード1世が死去すると、急速に勢力を盛り返してスコットランド全土で権威を確立した。エドワード1世の後を継いだエドワード2世は父の軍才を受け継いでおらず、決戦を避けてゲリラ戦術を駆使し、孤立した城を占領するロバート1世の戦略の前に後手に回った。1314年にスコットランド軍がスターリングを包囲する状況に陥ると、エドワード2世は大軍を編成してスターリングの救援に向かった。バノックバーンはスターリング城の南西に位置し、名称が意味する「小川」や池がいくつもある湿地帯であり、南側(イングランド側)からスターリング城へ向かうには、ここを通過する必要があった。

この戦いの勝利によって、ロバート1世の在位中、スコットランドはイングランドよりも高い士気を保つことができた。しかし、イングランド軍の強さを認識していたロバート1世は軍事行動を制限し、二度と大きな会戦を行うことはなかった。ロバート1世は焦土戦術と小規模戦でイングランド軍に対抗し、1319年と1322年にエドワード2世率いるイングランド軍を撃破、1327年には若いエドワード3世の大軍を補給路の切断で瓦解に追い込んでいる。

ロバート1世は死の間際、デイヴィッド2世に対して、開けた場所でのイングランド軍との戦いを避けることと、ゲリラ戦での奇襲を心掛けるよう助言したが、デイヴィッド2世と後見人はこれを守らなかった。エドワード3世の下で弓兵と騎士の組み合わせに磨きをかけたイングランド軍は、1330年代になるとスコットランド軍を圧倒していくことになる。 イングランド軍にとってバノックバーンの戦いは、弓兵と騎馬攻撃を組み合わせることが難しいことを認識させる戦いだった。そこでイングランド軍の騎士は、騎乗しないで戦うことで弓兵との連携を強化していった。下馬騎士は中央で敵の攻撃を受け止め、左右の弓兵がロングボウによる射撃で敵を消耗させるという戦術である。この戦術はスコットランド軍との戦いで効果を出しはじめ、百年戦争でのクレシーの戦いアジャンクールの戦いの勝利につながることになる。

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===== 続く =====

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