連合維持か独立か=5=

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ステュアート家の歴史は11世紀にまで遡れるが、14世紀には宮宰(Steward of Scotland)の地位にあり、王位にあったブルース家は縁続きの関係になっていた。 1371年にディヴィッド二世が没してブルース家の後嗣がとだえたとき、これを継承したのが甥のロバート・ステュアートであった。 これによりステュアート朝は始まるが、アーブロース宣言とタニストリーによって王の力は制限され、氏族の長である貴族たちの覇権争いが表面化した。 このなかで幼少の王が即位したり、時には暗殺されたりという事件も起こった。

このステュアート朝においては、アーブロース宣言とタニストリーによって王の力は制限されていて氏族の長である貴族たちの覇権争いが表面化し、ロバート2世の死後はロバート三世、そしてその息子ジェームス一世へと王位が継承された。 前記の紀述叙したようにジェームズ1世は国王としての権威・権限を取り戻すための強硬策を開始した。 スコットランドを厳格に統治し、多くの金融・法律の改革を行った。 まず他国と交易するための外貨との交換はスコティッシュ・ボーダーズ内だけに限定する。 またスコットランド議会をイングランド風に改造しようとした。 さらに外交政策では1428年にフランスとの「古い同盟」を再開した。 その翌年はフランスでジャンヌ・ダルクが登場したが、多くのスコットランド兵がともに戦っている。 しかし、ジェームズ1世の政策全般は効果的ではあったが、多くの人の反感を買っていた。

ジェームス六世の時代に大きな変化が起こる。 親政に乗り出したジェームズ6世は、当面の懸案であった宗教問題に取り組むことにした。 当時のスコットランドの宗教界は長老主義の影響が強く、彼らは「聖職者の任命は国王ではなく、長老会議によるべき」と主張していた。 ジェームズ6世は、1584年5月に「暗黒法」(ブラック・アクト)を発布し、国王が最高権威者であり、司教制度を謳い、国王や議会に反対する説教を禁止した。 これに対する信徒の反発は強く、1592年には「黄金法」(ゴールデン・アクト)により「集会」を認めることとした。 さらに、1598年には「司教国会議員」を認め、教会(カーク)の推す3人の司教に国会議員同様の立法活動を許すこととした。 ジェームズ6世はみずから『自由なる君主国の真の法』(1598年)という論文を書いて王権神授説を唱えた。

イングランドとの同君連合から合同まで

 1603年、イングランド女王エリザベス一世(処女王/the Virgin Queen)が死去すると、後継者として指名されたジェームズ6世がイングランド王ジェームズⅠ世として即位することになり、アイルランド王も兼ねることになった。 以後イングランドとスコットランドは、1707年に合邦してグレートブリテン王国となるまで、共通の王と異なる政府・議会を持つ同君連合体制をとることとなる。 なお、イングランドの宮廷生活に満足したジェームズⅠ世は、その後スコットランドには1度しか帰ることがなかった。

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ジェームズⅠ世はイングランドとスコットランドの統一を熱望したが、両政府は強硬に反対し続けた。 一方でジェームズⅠ世は統一に向けて自分が影響を与えられることは行った。 第一に「グレートブリテン王」(King of Great Britain)と自称し、第二に新しい硬貨「ユナイト」(the Unite)を発行してイングランドとスコットランド両国に通用させた。 最も重要なことは、イングランドのセント・ジョージ・クロスとスコットランドのセント・アンドリュー・クロスを重ね合せたユニオン・フラッグを1606年に制定したことである。 新しい旗の意匠は他にも5種類ほど提案されたが、他の案は重ね合せではなく組合わせたものであったり、イングランド旗部分が大きいものであったりしたため、ジェームズ1世は「統一を象徴しない」として却下した。
エディンバラからウェストミンスターに移ったジェームズⅠ世以降のステュアート家の王たちは、ほとんどスコットランドに戻ろうとしなかった。 スコットランドには担当国務大臣をおき、それが摂政となって行政にあたることとなった。 この転機は、三王国戦争(いわゆる清教徒革命)によってもたらされた。 監督制教会のイングランドと長老制のスコットランドは教義をめぐって衝突し、主教戦争からスコットランド内戦、そしてクロムウェル(前節参照)によるスコットランド征服という事態を招いた。 このときコモンウェルスのイングランドが施行した航海条例がスコットランド経済に打撃を与え、スコットランドは遮蔽して行く。

 この条例によって、スコットランドも外国とみなされ、ロンドンや植民地の港から締め出されたのである。 スコットランドの経済は徐々に衰え、困窮にあえぐようになった。 スコットランド議会は安全保障法(1704年)によって独自に王を立てる権利を有するという宣言を発し、国勢を立て直そうとする。 これに対してイングランドは外国人法(1705年)で応酬した。 すなわち、合同に同意しなければ航海法体制にくわえて、ヨーロッパとの交易も制限するとしたのである。 人口で5倍、経済力で38倍の相手に対抗できたのはここまでであった。 スコットランドはイングランドの軍門に降った。 そして、航海条例で締め出されたスコットランド経済は停滞し、さらに飢饉が追い討ちをかけた。

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 スコットランドの政治と経済を如何にせんと、起死回生を図ったダリエン計画はイングランドの妨害に遭い破綻し、自力の経済再建は不可能になった。 スコットランドはもがき、イングランドがアン女王のとき、 彼女の寛大を省みて、スコットランド議会は1707年 自らの解散を決議し連合法により独立を放棄し、ジェームズ1世以来100年余りにわたって同君連合を結んできたイングランド、スコットランドの両国は、正式に統合されてグレートブリテン王国になった。

さて 上記の如く、この700年で、スコットランドはイングランドに対して大きな勝利をおさめたことが出来なかった。 『無血』でイングランド王の座を手に入れ、君臨したことがあった。 しかし、1603年、「よき女王ベス」と呼ばれ、44年の長きにわたってイングランドを治めたエリザベスⅠ世が、未婚のまま逝去した。 この1603年春、スコットランドに一大転機が訪れる。 エリザベス一世の死によって、ジェームズ六世にイングランド王位を継承してほしいという急使がやってきたのである。 メアリ・ステュアートが叶えられなかったイングランド征服の夢を、息子のジェームズは無血で叶えることとなった。 スコットランドのスチュワート王家のジェームズⅥ世が、イングランド王ジェームズⅠ世を兼ねることになったのである。

しかし、これは、スコットランドに暗い影をおとす時代の始まりでもあった。 同君連合から合同、そしてジャコバイト反乱にいたる近世スコットランドの変遷は、しばしば暗い時代とされる。 スコットランドは独自の王を失い、つぎに独自の議会を奪われ、そしてスコットランドらしさをもなくしてしまった。この時期のスコットランドは、イングランドに吸収される時代であった。

ジャコバイト( Jacobite)とは、1688年イギリスで起こった名誉革命の反革命勢力の通称。 彼らは追放されたステュアート朝ジェームズ2世およびその直系男子を正統な国王であるとして、その復位を支持し、政権を動揺させた。ジャコバイトの語源はジェームズのラテン名(Jacobus)である。

1688年、名誉革命とその体制はジェームズ2世を追放、ジェームズ2世の娘であるメアリーと夫でジェームズ2世の甥のオランダ総督ウィレム3世をオランダから招聘、メアリー2世ウィリアム3世として戴冠させた。それにともない、議会が王位の継承権を王位継承法によって規定しようとした。

しかし臣下である議会が王位継承に口をはさむという、当時としては革新的な制度に反感を持つ人は多かった。議会は、イングランドは国教会が主流のプロテスタント国であるがジェームズ2世はカトリックであること、さらに当時、非国教会信徒は政府官職につくことが禁じられていたことを理由にしたが、それをもって王の海外追放や議会による王位のコントロールを正当化することには疑問を持つ風潮もあったのである。

そうした疑問を持つ人々の間にも温度差はあったが、とくに熱心にジェームズ2世とその正嫡(男系子孫)をイングランド王に復位させるべきとして、ジェームズを支持した人たちをジャコバイトと呼ぶ。また、彼らのとった政治・軍事的行動はジャコバイト運動とよばれる。

ジャコバイトは、名誉革命以後半世紀にわたって、後述する国王暗殺未遂事件や反乱などを起こし、それらの運動は名誉革命体制に対する深刻な脅威となって、時に政権を動揺させた。しかし運動は次第に尻すぼみになっていき、ウォルポールホイッグの政略もあって、ついに実を結ぶことはなかった。=

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===== 続く =====

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