連合維持か独立か=7=

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ジェームズ6世は、エリザベス1世への謀反の疑いで処刑されたメアリー・スチュワート(スコットランド女王メアリー、前節参照)のひとり息子。 父親はメアリーの2番目の夫で、ヘンリー7世のひ孫、ダーンリー卿であった。 母メアリーは、兄である王子2人が夭逝していたため、ジェームズ5世の急逝を受けてわずか生後6日でスコットランド女王に即位した女性。 16歳でフランスのアンリ2世の皇太子フランソワと結婚。 フランソワは翌年、アンリ2世の事故死にともないフランソワ2世となるも、病弱であったことから、1560年、即位後、1年余りでこの世を去る。

エドワード6世はその短い治世を通じて自らの推定相続人たるメアリーに対しカトリックの信仰を放棄するよう促し続けたが、母キャサリンによって敬虔なカトリックに育てられていたメアリーはそれを拒絶し続けた。 しかしこれはメアリーの王位継承権が再び危ういものとなることを意味した。 病弱のエドワード6世は即位から6年後にはもう回復の見込みがない程病床に伏す身となっていた。 彼が後継者として指名したのは、父・ヘンリー8世の妹・メアリー・テューダーの孫にあたるジェーン・グレイだったが、その背後にはこの直前に自身の子ギルフォードをジェーンと結婚させていた野心家のノーサンバランド公ジョン・ダドリーの暗躍があった。

エドワード6世が1553年7月6日に15歳で夭折すると、枢密院は筋書き通りジェーン・グレイを女王に推戴した。 ノーサンバランド公はメアリーの身柄を拘束しようとしたが、事前に身の危険を察知したメアリーはノーフォーク公トーマス・ハワードに匿われロンドンを脱出する。 その間に7月10日にはジェーンがロンドン塔に入城しその王位継承が公に宣言されたが、一方のメアリーも13日にノリッジで即位を宣言した。 するとメアリー1世のもとには支持者が続々と集結し、民衆蜂起となってロンドンに進軍した。 これを自ら鎮圧しようと兵を向けたノーサンバランド公は逆に惨敗を喫してしまう。 これを受けて19日には枢密院も一転メアリー支持を表明、ロンドンに入ったメアリーは改めて即位を宣言した。ノーサンバランド公とその子ギルフォードはジェーン・グレイとともに身柄を拘束され、大逆罪で処刑された。 こうしてメアリーは名実共にイングランドの女王(メアリー1世)となった。

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=メアリー1世の治世=

ジェーン・グレイ(Jane Grey)は、16世紀中頃のイングランドの女王(在位1553年7月10日-19日)。 異名に九日間の女王(Nine-Day Queen)がある。 数奇な縁でイングランド史上初の女王として即位したが、在位わずか9日間でメアリー1世により廃位され、その7か月後に大逆罪斬首刑に処された。 そうした経緯から、イギリスでは古来彼女のことを「クイーン・ジェーン」(Queen Jane、ジェーン女王)とは呼ばずにレディー・ジェーン・グレイ(Lady Jane Grey、ジェーン・グレイ令嬢)と呼んできた。 ジェーンを正統なイングランド君主とはみなさない史家や学者も少なくないが、今日の英国王室はジェーンをテューダー朝第4代の女王として公式に歴代君主の一人に数えている。 =拙文、【女王ジェーン・グレ;http://bogoda.jugem.jp/?eid=691】参照=

見せかけの異母姉妹の結束は長くは続かなかった。 イングランドで初めて異論のない女王となったメアリー1世はエリザベスが教育を受けたプロテスタント信仰の粉砕を決意し、全ての者がミサへ出席するよう命じた。 これにはエリザベスも含まれており、エリザベスは表面上ではこれに従っていた。 しかし、メアリー1世が神聖ローマ皇帝カルロス5世(スペイン王カルロス1世)の皇子フェリペとの結婚を計画していることが知れ渡ると当初の彼女への人気は衰え、国内に急速に不満が広まり、多くの人々がメアリー1世の宗教政策に対抗する存在としてエリザベスに注目した。

1554年1月から2月にかけてイングランドとウェールズの各地でトマス・ワイアット に率いられた反乱が発生する。 反乱が鎮圧されるとエリザベスは宮廷に召喚されて訊問を受け、3月18日にロンドン塔に収監された。 恐怖したエリザベスは必死に無実を訴えている。 エリザベスが反乱者たちと陰謀を企てたことはありそうにないが、彼らの一部が彼女に近づいたことは知られていた。 メアリー1世の信頼厚いカール5世の大使シモン・ルナール はエリザベスが生きている限り王座は安泰ではないと主張し、イングランドの大法官はエリザベスを裁判にかけるべく動いた。 宮廷内のエリザベス支持者たちはメアリー1世に対して容疑に対する明確な証拠がないとして、エリザベスを助命するよう説得し結果、5月22日にエリザベスはロンドン塔からウッドスタック へ移され、 官警の監視の元でおよそ1年間、幽閉状態に置かれた。 この折、移送されるエリザベスに対して群衆が声援を送ったと言う。

1554年7月10日、メアリーはフェリペと結婚した。 そして、メアリー1世は異端排斥法を復活してプロテスタントに対する過酷な弾圧を行い、「血まみれのメアリー」(Bloody Mary)と呼ばれるように成る。  翌年の4月17日、エリザベスはメアリー1世の出産に立ち会うために宮廷に召喚された。 もしも、メアリー1世と彼女の子が死ねば、エリザベスは女王となる。 一方で、もしも、メアリー1世が健康な子を生めばエリザベスが女王となる機会は大きく後退することになる。

だがしかし、結局 メアリー1世が妊娠していないことが明らかになり、もはや彼女が子を産むと信じる者はいなくなった。 エリザベスの王位継承は確実になったかに見られ、メアリー1世の夫のフェリペでさえ、新たな政治的現実を認識するようになり、この頃から彼はエリザベスと積極的に交わるようになった。 彼はもう一人の王位継承候補者であるスコットランド女王メアリー(フランスで育ち、王太子フランソワの婚約者)よりもエリザベスが好ましいと考えていたのである。 そして、メアリー1世は1556年にスペイン王に即位した夫フェリペの要請により、翌年にフランスとの戦争に参戦するが、 大陸に唯一残されていた領土カレーを失う結果を招いてしまった。

批判者が蠢くイングランド宮中で、1558年にメアリー1世が病に倒れると、フェリペはエリザベスと協議すべくフェリア伯を派遣した。 エリザベスは女王として成すべきせ政策や彼女の政府骨子など、 この年の10月までに計画を作成している。 そして、11月6日にメアリー1世はエリザベスの王位継承を承認し、その11日後の11月17日にメアリー1世はセント・ジェームズ宮殿で死去した。 議会は第三王位継承法に基づきエリザベスの王位継承を承認した。 エリザベス1世の誕生である。

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18歳で未亡人の身になり、スコットランドに戻ったメアリー(メアリー・ステュアート、前節参照)も、イングランド王ヘンリー7世のひ孫であった。 母親のアン・ブリンがヘンリー8世に処刑されて、一時は「庶子」扱いされたエリザベス1世より、イングランド君主にふさわしいと、最後まで主張。 しかも、筋金入りのカトリック信者であったため、イングランド征服を目論むバチカン(カトリック教会)やカトリック大国スペインは、エリザベスを暗殺し、メアリーをイングランド君主の座に据えようと躍起になった。

ところが、メアリーは反カトリック派貴族たちにより廃位させられてしまう。 翌年の1568年、イングランドに亡命したメアリーは、エリザベス1世の温情のもと、19年間の幽閉生活を送ったが、1587年、ついにエリザベス暗殺計画に加担した動かぬ証拠を突きつけられて裁判にかけられ、処刑されたのだった。

一度も結婚することなく生涯を終えたエリザベス1世と、3度結婚したメアリーは、対照的な生き方を選んだ2人の女性として、多くの書や映画で比較されてきた。 世継ぎがいなかったため、後継者を指名するよう議会や側近から執拗に迫られながらも拒否し続け、ついに指名せずに他界したエリザベスの跡を、メアリーの息子が引き継いだというのは運命の皮肉としか言いようがない。

ジェームズ6世、すなわちジェームズ1世以降、スチュワート朝の王は、イングランド王を5代にわたって兼ねる。 この形態は、共通の王を頂きながらも独自の政府・議会を持つ同君連合体制で、英国史上、王冠連合 (Union of the Crowns)と呼ばれている。しかし、いずれもあまり輝かしい治世とはいえず、ジェームズ1世の息子、チャールズ1世は「ピューリタン(清教徒)革命」で議会派により処刑され、孫のチャールズ2世の代で王政復古が成ったものの、その弟でカトリック信者だったジェームズ7世(イングランド王ジェームズ2世)は「名誉革命」でフランスに追放されたのだった。

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メアリ・ステュアートは、いまでもスコットランドで人気のある女王である。メアリにとって不運だったのは、同時代に宗教改革がおこったこと、そしてメアリ自身はフランスで育ち、敬虔なカトリックだったことである。当時のスコットランド教会は、司教など高位聖職者に莫大な富が集中し、あがりを納めねばならない地方の教会は荒廃していた。文字の読めない聖職者が説教壇に立つことも珍しくなかった。その一方で高位聖職者は、貴族の私生児を認知する費用などで富をふくらませ、民衆の怨嗟をあつめていた。

こうしたなかでやってきた宗教改革で、穏健なルター派よりも好戦的なカルヴァン派が選ばれたのは自然なことであった。スコットランド宗教改革の指導者ジョン・ノックスの思想はたちどころに広まり、各地で暴動がおこって聖堂が破壊された。偶像崇拝は徹底的に否定され、華美は悪とされた。建てられた教会は一切の芸術性を排したつくりになっていた。スコットランドで現存する中世建築物が少ないのはこのためであり、以降しばらく、スコットランドは文化的に不毛の地となる。

スコットランドのプロテスタント化は、イングランドへの接近も意味した。メアリの亡命と刑死によってスコットランドは「古い同盟」を捨て、イングランドとの「新しい同盟」への外交転換をはかった。折しもエリザベスには後嗣がなく、スコットランド王のイングランド王位継承が現実味をおびるようになった。

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===== 続く =====

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