連合維持か独立か=9=

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 この1707年の合同法から300年余り。 18世紀には、ジャコバイトの反乱が起こるなどしたが、スコットランドは独立するまでに至らず、今日を迎えている。

ジャコバイト(Jacobite)とは、1688年 イギリスで起こった名誉革命の反革命勢力の通称である。 彼らは追放されたステュアート朝のジェームズ2世およびその直系男子を正統な国王であるとして、その復位を支持し、政権を動揺させる運動を幾たびと無く起こした。

ジャコバイトの最大の支持基盤はアウコットランド、特にハイランド地方であった。 もともとスコットランドにはイングランドとの根深い対立意識があったばかりでなく、ステュアート家がスコットランド出身ということもあって、スコットランド人はジェームズに同情的であった。 特に1707年特に批准されたイングランド・スコットランド合同法は、歴史的・宗教的対立を抑えこんで経済的利益を優先させたものであったが、すぐにはスコットランド側が期待していたほどの利益をもたらさず、イングランドに対する不満は高まっていた。 1715年の反乱ではマー伯ジョン・アースキンという指導者を得て、スコットランドのほとんどが反乱軍の手に落ちた。

一方アイルランドでは、宗教的側面からジェームズが支持された。 清教徒革命以降、アイルランドは少数の国教徒が多数のカトリック信徒を支配する構図が成立しており、カトリックに対する宗教的寛容を求めてジャコバイトとなる者が少なくなかった。 ジェームズ2世からアイルランドの統治を任されたティアコネル伯リチャード・タルボットはカトリック支配の浸透とジャコバイトの拡大に尽くしてアイルランドの大半を制圧、アイルランドをジャコバイトの拠点に変えていった。

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  ジェームズ2世はカトリックであった。 このためカトリック国でもあり、大同盟戦争におけるイングランドの敵対国でもあったフランスは、ジャコバイトを積極的に支援した。 特にルイ14世はこの支援に熱心であり、彼の在位中はジャコバイト運動が盛んであった。 ルイ14世没後は、ジャコバイトやステュアート家に冷淡になったフランスに代わって、イタリア諸都市やスウェーデン、スペインなどが後ろ盾となった。

1745年、スコットランドで起きた反乱は、一面においてはジャコバイトの最後の挑戦であったが、むしろ主要な側面は、当時イギリスと交戦していたフランスによる、ジャコバイトとジェームズ老僣王の息子チャールズ若僭王を利用した工作であったとであろう。 この反乱の失敗によって、ステュアート家とそれを支持するジャコバイトは完全に政治的命脈を絶たれ、以降ジャコバイトは歴史の表舞台から姿を消すことになった。 独立を志向したこの反乱は・・・・

「ウォルポールの平和」が1739年のジェンキンスの耳の戦争オーストリア継承戦争、1740年)で破られ、ウォルポール自身も1742年に辞任に追い込まれた。 政権はウィルミントン伯スペンサー・コンプトン(病気のため実質的指導者はジョン・カートレット)に移ったが、翌1743年にコンプトンが死去してヘンリー・ペラムに移行、ペラムを支持するウォルポールの政治的影響力は健在であり、国王ジョージ2世の信任は篤くなかったがなんとか政権運営を可能にしていた。 ところが1745年3月18日、ウォルポールが死亡してペラムの政治的地位が危うくなったところに、この反乱が起こった。

ルイ15世の助力を得て同年7月にチャールズ・エドワードはスコットランドに上陸すると、ハイランドの氏族を糾合し「the ‘Forty-Five」と呼ばれる内戦を起こした。 いまだジャコバイトの多いスコットランドでこそチャールズの軍は優勢だったが、イングランドでは民衆の支持を得られず、12月6日に至り、反乱軍はスコットランドに退いた。 それ以降も政府軍とジャコバイト反乱軍との戦いは続いたが、1746年4月16日、カロデンの戦いで反乱軍は致命的敗北を喫し、チャールズもフランスへ逃走した。 この戦いにおいて、負傷して動けない者まで皆殺しにした指揮官のカンバーランド公ウィリアム・オーガスタス(ジョージ2世の3男)は「屠殺業者」(Butcher)との異名で批判されている。

 イギリス政府はこの反乱を重く見て、諸立法によってスコットランドの氏族(クラン)制度を解体した。 またチャールズはフランスを追われて、放蕩生活に身をやつしていった。 この評判が広まって、ジャコバイトの支持は失われていった。 ジャコバイトのステュアート朝再興の夢は、その核を失って完全に絶たれた。

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  しかし、何のための反乱だったのか、何のための独立なのか。

1853年にはじめてスコットランド議会において自治を求める「ホーム・ルール」運動が保守党寄りの組織であるスコットランド権利擁護協会に取りあげられた。 ここで鍵となったのは、比較対象としてのアイルランドだった。 この運動は幅広い層へと政治的な訴求力を持ちはじめ、まもなく自由党からも支持されるようになった。 1885年にはスコットランド大臣スコットランド省が、イギリス議会においてスコットランドの利益を追求し、懸念を表明するための組織として再編された。 しかし、1886年にウィリアム・グラッドストンアイルランド自治法を提出したように、スコットランド人たちにとって、自分たちの現状とアイルランド人に与えられたホーム・ルールとを比べてみれば、満足のいくものではなかった。 とはいえこの問題は、急を要する憲法上の優先事項とはみなされなかった。 一つには、結局アイルランド自治法が庶民院を通過しなかったこともあった。

第一次世界大戦の直前に、ハーバート・アスキス率いる自由党政権は「広範な自治」(“Home Rule all round”) という構想を支持した。 これにのっとり、統治法でその自治権が打ち出されたアイルランドに、スコットランドも続くこととなった。 アスキスの考えによれば、イギリスの構成国は共通の目的のために団結して行動することはできても、イギリス全体の同意を必要としない構成国内の政治問題には取り組むことができないというのはおかしなことであった。 これは民族主義的な思想に基づいたものではなく、むしろアスキスは連邦主義こそ「連合の根幹」であると考え、ウェストミンスターへの権力の集中こそが「あらゆる失策のなかでも最悪のもの」と考えたのである。 スコットランドの自治法案は1913年にはじめて議会に提出されたが、それ以上進展することはなかった。 議会が重要課題とするのは第一次世界大戦に伴う有事体制だったからである。

イースター蜂起独立戦争を起こしたアイルランドとは異なり、スコットランドは中央の支配に対して抵抗を行うことはなかった。 とはいえ、そこに継続的な自治の要求がなかったわけではない。 1930年代にはスコットランド省がスコットランドのエディンバラ、セントアンドリュース議事堂に移転している。 イギリス政府に対する自治を求めた請願であるスコットランド誓約も1930年に初めてジョン・マコーミックによって提案され、1949年に正式に文書化された。 この訴えには「最終的に200万人の署名が集まった」1951年の国勢調査によれば、スコットランドの人口は510万人だった)。 とはいえ、この誓約が主要な政党に顧みられることはなかった。 1950年にはナショナリストによって、ウェストミンスター寺院からスクーンの石が撤去されている。

そして完全な独立あるいはより穏当な自治の要求は、1960年になるまで政治問題の中心に据えられることはなかった 。しかしハロルド・マクミランによる「変革の風」のスピーチが1960年に行われ、アフリカの急速な脱植民地化の始まりと大英帝国の終わりが多くの人に印象づけられた。 イギリスはすでに1956年のスエズ危機により国際的な非難を浴びており、もはや第二次世界大戦以前のような超大国ではないということは明らかだった。 多くのスコットランド人にとって連合王国の大きな存在意義の一つを失われたも同然であり、当時は名高かったスコットランド連合党を団結させてきた、大衆的な帝国主義と帝国的な統一の終焉を象徴する出来事でもあった。連合党はその後、次第に支持を失っていった。

1979年代、スコットランドに近い北海油田が開発され、イギリスに莫大な利益をもたらす一方で、スコットランドのナショナリズムを刺激した。 スコットランド議会は1707年のイングランドとの合併以来、ウェストミンスター議会に統合されていたが、独自の議会設置を求める声が高まった。 1979年の議会設置の是非を問う住民投票では、賛成派の投票者が過半数を超えたが、結果的に否決された。 しかし1997年に、スコットランド出身のトニー・ブレア政権の下で再度住民投票が行われ、今度は可決された。

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===== 続く =====

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