九日間の女王ジェーン・グレイ =1=

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トランプのキングの絵の、モデルになった王様はご存知ですか? 彼の名はヘンリー八世。 彼はイギリスの王様。 いや、イングランドの王様が正確であろうが 彼の後の王は、教科書だとエリザベス一世になっている。 しかし正しくは間にあと二人、国王と女王がいたのです。 一人はマーク・トウェインの小説「王子とこじき」のモデルになった、エドワード六世。 その後はメアリー一世。 でも、もっと正しくはもう一人、それもイギリス初の女王様がいたのです。  ただし・・・・・九日間だけ。 

ヘンリー8世の男児で唯一存命していたエドワードは、父の死に伴い9歳で即位した。 ヘンリー8世は幼い息子を一握りの権臣が操ることを警戒し、顧問団に集団で補佐させるよう遺言を書いていたが、エドワードの母方の伯父であるエドワード・シーモアが握りつぶした。 エドワード・シーモアはエドワード6世の即位直前にサマセット公位を創設し、自ら護国卿(摂政)となってイングランドの事実上の支配者となった。

ヘンリー8世は生前、エドワードをスコットランド女王メアリー・ステュアートと結婚させ、スコットランドをイングランド管理下に置く構想を持っていた。 エドワード・シーモアはこれを引き継ぎ、スコットランドに攻め込んでメアリーを連れ去ろうとした。 しかし1548年、メアリーの母でスコットランドの摂政皇太后であったメアリー・オブ・ギーズが、自らの母国フランスの王太子フランソワ(フランソワ2世)とメアリーを結婚させたため、この計画は実現しなかった。

また、ヘンリー8世の遺言では自分の死後の王位継承権は唯一の正嗣皇子エドワード6世、メアリー王女、エリザベス王女、そして、4番目にこのジェーン・グレイと記載されていた。

=  ヘンリー8世に関する詳細は、拙文前章【連合維持か独立か<スコットランドVsイングラント>】参照  =

1552年、エドワード・シーモアが反逆罪で処刑されると、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーが実権を握り、若き王に政治教育を行った。 エドワード6世は上記のように、父の死に伴い9歳で即位していた。しかし、父ヘンリー8世から感染させられた先天性梅毒による肉体的疾患をもっていた。 激しい咳と痛みに襲われ、七転八倒の日々を送っている。 幼い頃から梅毒にかかり病弱だったことで、父への恨みは大きく、その恨みを果たすためだろうか、激痛の中、エドワードは父の遺言でもあった次期王座に就く人を2人の異母姉メアリーとエリザベスとしないで、遠縁にあたるジェーン・グレイに王位を譲ると祈りと父への怨念を漏らしていた。

童話「乞食王子」のモデルになったエドワード6世は、15歳を間もなく終えようとする初夏のある日、医師に「肺に化膿する腫瘍」があると診断されます。 エドワードの病状から死期が近いと悟ったジョン・ダドリーは、エドワード亡き後について画策する。  ヘンリー8世が1543年に制定した法律では、継承順位はエドワード、メアリー(後のメアリー1世)、エリザベス(後のエリザベス1世、処女王)であったが、エドワードが意中を汲み取り、1553年5月21日、自分の六男ギルフォードをエドワードの従姉フランセス・ブランドンの娘ジェーン・グレイと結婚させた上で、本来は継承順位が低いジェーンを後継として指名する遺言を死の床にあるエドワードに迫った。

ジェーン・グレイ、もしくはレディ・ジェーン・グレイ(Lady Jane Grey)は1537年10月12日、父サフォーク公ヘンリー・グレイ、母フランセス・ブランドン(16世紀イングランドの貴族女性。 ヘンリー8世の妹メアリー王女と、初代サフォーク公爵チャールズ・ブランドンの間の長女)の子供として誕生している。  彼女は母方の祖母が6人の妻をめとった王で知られるヘンリー8世の妹メアリー・テューダーですから、ヘンリー7世の曾孫ということで、必然的に王位継承権を持つことになりますが、ヘンリー8世の遺言では自分の死後の王位継承権はエドワード6世、メアリー王女、エリザベス王女、そして、4番目にこのジェーン・グレイと記載されていましたから、ジョン・ダドリーの策動は無謀ではない。 結局エドワードはそれを了承し、1553年7月6日、祈りの言葉を呟きながら15歳の生涯を終えたのです。

7月6日に15歳のエドワード6世は死亡した。 ただ、遺言がエドワード6世の意思だったのか否か、未だ疑問が残ります。 その4日後、ジョン・ダドリーは、息子の嫁であるジェーン・グレイが女王となると宣言させる。 そして、ジェーンは戴冠式に備えるためロンドン塔に入った。 後述しますが、ジェーン・グレイとジェーン・グレイとの夫婦には愛情などは無かったようだ・・・・・

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ダドリー一派の目論見を危険視した政府は、急遽王女メアリーをロンドンへ呼び戻し、7月19日、民衆の熱烈な支持を受けながらメアリーは法に基づく正統の女王としてロンドンに帰還した。 王女メアリー(血まみれのメアリー)は、直ちに ジョン・ダドリーと息子ギルフォードを反逆罪で斬首刑とし、ジェーン・グレイも反逆罪で幽閉した。

=註:下記にエドワードの意思ではないとした仮説を元にして、在位僅か9日間の女王誕生の経緯=

エドワード6世が王座に就いた1552年、エドワード・シーモアが反逆罪で処刑されると、王のお気に入りの側近ノーサンバランド公ジョン・ダドリーが実権を握り、実質的に政権を掌握しますが、腹黒さは誰にも引けを取らないジョン・ダドリーと酷評しきり。 ダドリーは王エドワード6世が崩御する一月ほど前、王の命の短いことを察し、病床を訪れて、時期王位継承権をジェーン・グレイと指示した勅状を手に入れた、とも伝えられます。 もちろん、エドワード6世はこのことは知りません。 そして、エドワード6世が崩御するとダドリーは王が王位をジェーン・グレイに委譲する旨の遺言を残したと公言します。(遺言状ではなく口頭で遺言を伝えたそうです)

★ ジェーン・グレイを王座に就けたダドリーの真意は、決してジェーンの幸せを思ってではなく、三番目にあった王位継承権を持つジェーンだったことで、彼女と自分の息子のギルフォードとを結婚させ、2人の間に誕生する王子を王位継承者とするのを目的としていたのです。 ですから、その計画を粛々と進め、かねがね邪魔であったサマセット公エドワード・シーモア(エドワード6世の母方の伯父)に反逆の汚名を着せ処刑した後、自分の息子ギルフォード・ダドリーとレディ・ジェーン・グレイを結婚させたのです。 レディ・ジェーン・グレイは、ギリシャ語が堪能で、ラテン語で聖書を読む英国最高と言われた才女は、同時に英国きっての美少女とも言われ、その美しさと賢さは、従姉妹エリザベス(後のエリザべス1世)にとっては嫉妬の種ともなったようです。

★ このときジェーン・グレイはまだ16歳という子供でした。 でも、英国国教会の有力者ジョン・ダドリーという一人の貴族の野望により16歳の少女は結婚と同時に悲劇の道を歩み出したのです。 というのもその策略は順調に前に進むことはなく、エドワード6世が崩御すると、ジョン・ダドリーの陰謀を察知したメアリーは、自分の身を守るために逃亡します。

★ ジョン・ダドリーにとって王位継承第二位のメアリーは脅威になる存在であったことで、部下を総出させ逃亡先を探るのですが、徒労に終わり、メアリーを捕獲できないままダドリーは1553年7月9日、キングズ・リンの居館サイアン・ハウスにジェーンを呼び寄せ、エドワード6世の遺言により王位継承者に指名された旨を告げます。 もちろん、ダドリーの策略を知ろうはずのなかったジェーンは、徐々にその真相に気が付き、事の重大さに慄きますが、ダドリーの陰謀から逃れることはできず、恐怖心を抱きながらも現状に承諾し、ダドリーの意のままとなります。

★ そして、翌10日、それまで極秘にされていたエドワード6世の崩御でしたが公表され、同時にジェーン・グレイ妃の女王即位が、セント・ポールズ・クロスで発表されるのです。 しかし、ダドリー個人の欲から発した王位継承劇は大衆から嘲笑され、笑われただけではなく、国民の反発を買うのですからそのまま前に進むわけはありません。 この茶番劇のためにそれまで静まっていた国民の王位への興味を引き、ジェーンの代わりに王位継承第二位のメアリー王女の王位継承を望む声が大きくなっていったのです。 ダドリーは墓穴を掘ったのです。

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★ ジェーンの即位を知ったメアリー王女は怒り、動き始めます。 国の声が味方でしたから、権利としても正当なメアリーは堂々と戦いを挑んだのです。それはダドリーの身内とも言うべき国教会派(プロテスタント)の貴族たちをメアリー派になびかせましたし、傍らに就いていた私兵たちも、ダドリーのやり方に不満を募らせ、離反してゆくよう、仕向けました。

★ その後もメアリー派の力は止まることはなく、強大になってゆくその過程の中、1553年7月19日、サフォークでメアリーが即位を宣言し、メアリー1世としてテューダー王朝の在位に就きます。 それはジェーンが在位した僅か9日間後でした。

★ そして、16歳のジェーン・グレイと夫ギルフォードが逮捕され、ギルフォードの兄弟、ジョン、アンブローズ、ロバート(後にエリザベス1世の寵臣となる)、ヘンリーらダドリー一族も逮捕され、首謀者であり、ジェーンの義父であったジョン・ダドリーは8月21日、タワー・ヒルで処刑されます。 その後、ジェーンもロンドン塔に収監され、女王メアリーは当初、ジェーンの処刑に躊躇したといわれましたが、1554年2月12日、夫ギルフォードとともに斬首されたのです。
自分の意ではなく、一人の貴族の野望に利用され、僅か9日間の女王であり、16年というあまりにも短い人生を終えたジェーン・グレイ…。 その美しさと賢さは誰にも引けを取らないほど、素晴らしいものがあっただけに、処刑後は多くの人たちの憐みをかい、哀しみを誘いました…。

その詳細に話を進めよう・・・・・・・・

※ ; テューダー家はウェールズを発祥とする、かつてのウェールズの君主の末裔の家系であったが、ヘンリー7世の祖父オウエン・テューダーはイングランド王ヘンリー5世の未亡人キャサリン・オブ・ヴァロワの納戸係秘書を務める下級貴族に過ぎなかった。 しかしオウエンはキャサリンと結婚し、その間に生まれたエドマンド・テューダーらの子供たちは一躍、ヘンリー6世の異父弟として、またフランス王家の血を引く者として上級貴族の一員となった。 エドマンドが、エドワード3世の四男ジョン・オブ・ゴーントの曾孫であるボーフォート家マーガレット・ボーフォートと結婚し、その間に生まれたリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは母方の血統により最後のランカスター家の王位継承権者となった。 1485年、ヘンリー・テューダーはボズワースの戦いリチャード3世を破ってヘンリー7世として即位し、テューダー朝を開いた。

百年戦争薔薇戦争で疲弊した諸侯を抑圧して絶対王政を推進し、海外進出にも積極的で、その政策はヘンリー8世エドワード6世メアリー1世エリザベス1世に受け継がれ、テューダー朝の全盛期を築いた。エリザベス1世の死によりヘンリー8世の血筋が絶えたため、ヘンリー7世の血を引くスコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世としてイングランド王に迎えられ、イングランドにおけるステュアート朝を開いた。

王家の出自もあって、この時代に国王の臣下として活躍した人物には、フランシス・ドレークウォルター・ローリーなどウェールズ系が多いと言われている。

ヘンリー8世は1541年に、アイルランド議会の決議に基づく形で正式にアイルランド王となり(それまではアイルランド卿(Lord of Ireland)を称していた)、イングランド・アイルランド両王国は同君連合ということになった。ただしアイルランドを実際に支配する有力諸侯は推戴も戴冠もしなかったので、史実的には詐称であると言える。とはいえアイルランドの歴史では、1541年をもってアイルランド王国の始まりであるとされている(この時代にはまだ実効支配に程遠いものであった)。

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===== 続く =====

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