九日間の女王ジェーン・グレイ =2=

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The Execution of Lady Jane Grey /  ジェイン・グレイ姫の処刑はタワー・グリーンで非公開で執行された。 記載の「ポール・ドラローシュ」の絵画は、純白の死衣装に目隠しをしたジェイン・グレイ姫が華奢な手で首切り台を探り当てようとしている。

ロンドンのトラファルガー広場に面して建つ、ナショナル・ギャラリー。 世界有数の名画コレクションで 知られる同館の1つ目の正面階段をのぼり、右手の扉を通り抜けると、18~20世紀初期の絵画が飾ら れているエリアにたどり着く。

ゴッホの『ひまわり』やモネの『睡蓮』などが出迎えてくれる中、さらに足を進めていくと、最奥の「展示 室41」で強い存在感を放つ大きな1枚の絵が目に飛び込んでくる。 『レディ・ジェーン・グレイの処刑 The Execution of Lady Jane Grey』(上掲)

描かれているのは、純白のドレスに身を包み目隠しをされた乙女が、白く華奢な手を伸ばし、 これから 己の首を切り落とすために使われる断頭台を探している姿。 波打つ豊かな髪は滝のように肩へと流され、 斬首しやすいようにドレスの襟元は大きく開けられている。 壮年の男性が女性の身体にそっと手を添えて 断頭台へと導こうとしており、取り乱した侍女たちは柱にすがって泣き崩れたり、気を失ったりしている。

じっと見続けていると、やがて震える手で断頭台を探し当てた彼女がゆっくりと首を台にのせ、最期の祈 りの言葉を唱える静かな声、そして処刑執行人によって勢いよく振り下ろされる斧の風を切る音までもが聞 こえてきそうだ。

介添えする聖職者。 その右に首切り役人。 彼は底光りのする斧を持ち、赤いズボンに赤い帽子。  その傍らの木製の首切り台は、斧で一撃を加えた時にずれないよう、鉄の輪でしっかりと床に固定されて いる。 そして、斧で首を打たれる姫君の血が飛び散らぬよう、周囲には麦藁が敷かれている・・・・・

 

1554年2月19日、 折り返しのついた黒いガウンにベルベットのケープ、漆黒のフレンチフードをかぶ って祈祷書を手にジェイン姫は刑場に現れた。 祈りながら歩む彼女は、毅然とした態度で処刑台に上が った。 そして、手袋とハンカチと祈祷書を侍女に渡した。 ベルベットのコートを脱ぐ時、長いこと仕えた侍 女が「最後のお勤めでございますから。お形見に」と進み出てコートを受け取った。

首切り役人が「藁の上にお立ちください」と誘導すると、ジェイン姫はちらりと首切り台に目を落して、「早く 済ませてくださいね」と言った。 ジェイン姫の用意が整うと、執行人は膝をつき、許しを乞う口上を述べた。 彼女は「心から許します」と答えた。

そして、自らハンカチをあて目隠しをした。 「どうすればよろしいの。どこなの」と言った。 聖職者が首切 り台の上に頭をのせる手助けをし、彼女は静かに首を横たえた。  「主よ、我が魂をあなたの手の内に委ねます」

その麗しさと聡明さはイングランド随一と謳われたジェイン・グレイ姫の頭部は、伝統にしたがって首切り 役人の「女王の敵は滅びぬ。見よ、反逆者の首を!」 の言葉とともに、高々と差し上げられた。

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Nine Days’ Queen =前節と重複する内容ですか時系を追う=

1553年7月6日、童話「乞食王子」のモデルと言われた少年王エドワード六世が、結核で崩御した。 まだ十五歳という若さだった。 彼は父ヘンリー八世から先天性梅毒を受け継ぎ、幼少より虚弱で、その命 の長くないことは誰の目にも明らかだった。 ヘンリー八世はそのことを見越して、王位継承第一位の彼に 子供がなかった場合の王位継承順位について、第二位はメアリー王女、第三位にエリザベス王女、第四 位にヘンリー八世の父ヘンリー七世の曾孫ジェイン・グレイ姫と決めていた。

ジェイン姫は、厳格なプロテスタント(新教徒)で、王妃の文芸サロンの中でも、エリザベス王女と学問上 のライバルでもあった。その学識は、プラトンの哲学書をラテン語で読むほどのインテリで、その容姿の美 しさと共に、内外に知られていた。このときジェイン・グレイは16歳。

そこで、一人の貴族の野望が、王位継承第四位のジェイン姫に向けられた時、彼女は、いわゆる「 Nine Days’ Queen 」の悲劇の運命を辿ることとなる。その人物とは英国国教会(プロテスタント教会)の有力者、 ノーサンバランド公ジョン・ダドリーである。

ジョン・ダドリーはエドワード六世が結核で崩御する一月ほど前、彼の病床を訪れて、熱烈なカトリック教 徒である王位継承第二位のメアリーは、プロテスタント(国教会派)にとって脅威であり、危険であることを 切々と説き、ついにジェイン・グレイ姫の男子の王位継承を指示した勅状を手に入れた。

こうしてダドリーは、ジェイン姫と自分の息子のギルフォードとを結婚させ、二人の間に生まれた男子を 王位継承者とするのが最終的な目的で、その計画を推し進めていった。  しかし、ダドリーの不穏な動き は、間もなくカトリックの貴族、ノーフォーク公トマス・ハワードに察知され。トマスは機先を制してメアリーを 所領のフラムリンガム城に匿い、守るのだった。

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ノーフォーク公爵Duke of Norfolk)は、イギリス公爵位。イングランド貴族。過去に3回創設されており、現存するノーフォーク公爵位は、1483年ジョン・ハワードリチャード3世に叙されたのに始まり、以降その子孫のハワード家によって世襲されている物である。エリザベス朝期の当主4代公爵トマス1572年大逆罪で処刑されたことで約1世紀に渡って失われた時期があるが、1660年の王政復古の際に4代公爵の玄孫トマスが5代公爵に復権を果たし、以降今日まで連綿として続いている。

4代公爵が婚姻でアランデル伯爵フィッツアラン家英語版と結びついた結果、アランデル伯爵位も従属爵位として継承しており、ノーフォーク公爵家の法定推定相続人はこの爵位とサリー伯爵位を儀礼称号として使用する。14代公爵ヘンリーの代に家名をフィッツアラン=ハワード家に改姓した。2015年現在の当主は18代公爵エドワード・フィッツアラン=ハワードである。

イギリスの全ての臣民公爵位の中でも最古参であり、筆頭公爵の立場にある。また紋章院総裁はノーフォーク公爵家の世襲職である。ノーフォークという爵位名になっているが、ノーフォークにはそれほど土地を持っておらず、居城もウェスト・サセックス州アランデル城である。

ノーフォーク公爵家は歴史的に国教忌避の態度をとったカトリック教徒であるため、宗教的迫害を受けることも多かった。分流も数多く存在し、現存する爵位持ちの分家にエフィンガム伯爵家サフォーク伯爵家カーライル伯爵家ペンリスのハワード男爵家の4つがある。

3代公爵トマス(1473-1554)も当初はヘンリー8世の寵愛を受け、二人の姪をヘンリー8世の王妃に送り込むことに成功したが(アン・ブーリンキャサリン・ハワード)、彼女たちは二人とも姦通により処刑されている。やがて3代公爵自身もヘンリー8世の信頼を失い、1546年にはロンドン塔に投獄された。しかしヘンリー8世の崩御で処刑をまぬがれ、1553年にはメアリー1世の即位に功績があったとされて公爵位への復権が勅許された。

4代公爵トマス(1536-1572)は第19代アランデル伯爵ヘンリー・フィッツアラン英語版の女子相続人メアリー・フィッツアラン英語版と結婚し、これによりハワード家はアランデル伯爵家の爵位と領地も得ることになる。しかし4代公爵はスコットランド女王メアリーとの婚約騒動で女王エリザベス1世の不信を買い、1572年大逆罪で処刑された。ノーフォーク公爵位は剥奪され、4代公爵の長男フィリップ(1557-1595)は母方の第20代アランデル伯爵位のみ継承した。以降ノーフォーク公爵位は3代88年にもわたって失われた。

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 7月6日、エドワード六世が結核で崩御すると、その死は10日まで公表されなかった。これは、エドワー ド六世の崩御と同時に、彼の勅状を盾にメアリーを逮捕し、カトリック派を押さえ込んだ上で、ジェイン姫の 王位宣言をするはずであったが、メアリーの避難によって大幅に狂わされてしまったためであった。

  7月9日、メアリー逮捕という重要な布石を欠いたまま、ダドリーはキングズ・リンの居館サイアン・ハウス にジェイン姫を招き、エドワードの勅命により王位継承者に指名された旨を告げた。 この時点まで彼女は ダドリーの野望を全く知らされておらず、はじめはその意味するところを理解できない有り様だったが、や がて事の重大さを認識するに至ると、自己の運命の余りに衝撃的な展開に、その場で失神したと伝えら れる。

そして、翌10日、エドワードの死とグレイ妃の女王即位が、セント・ポールズ・クロスで発表された。 この 突然のグレイ妃の王位宣言は、旧来の政敵(カトリック)たちの激しい反発を招いた。

また国民の支持も 圧倒的にメアリー王女に集まり、妹のエリザベス王女までも姉を支持。 さらに、本来味方に付くはずの国 教会派(プロテスタント)の貴族たちをも、カトリックのメアリー女王の出現を強く恐れてメアリー擁立へ走っ たため、ダドリーは自分の私兵からも離反されるに至り、たちまちダドリー一族は一網打尽にされ、首者ジ ョン・ダドリーは8月21日、タワー・ヒルで処刑された。

こうしてジェイン・グレイの王位は、あえなく9日間 で終焉を迎えた。

10月1日、敬虔なカトリック信者のメアリー王女は、チューダーの正統な王位継承者として即位した。 こうしてエドワード時代のプロテスタント、メアリー時代のカトリックという国を二分する激烈な宗教対立を生 むことになった。 後に「ブラッディ・メアリー」の異名をとり、英国史に拭いがたい血の汚点を残す女王メア リーであるが、このときのジェインらに対する措置は、意外なまでの寛大さを含んでいた。

翌1554年2月、メアリーは、ジェインに、カトリックへの改宗を条件として罪を許すことを伝える。 しかし、 既に死の覚悟をしていたジェインは、「もはや自分には二つの宗教の間を揺れ動く時間は残されていない」 とこれを拒否。 この言葉を文字通りに受け取ったメアリーは、さらに 3日の考慮の猶予を与えた。

もとより、ジェインの真意は見苦しい足掻きなどせず従容と死につく決意にあったのであり、彼女は女王 の心づかいに感謝しつつ、最後の助命の提案を固辞した。 このとき仲介役を務めた司祭フェケナム は、ジェインの気高さと勇気に強い感銘を受け、彼女の処刑の場まで付き添うことになった。

同月12日、ついにジェインとギルフォードの処刑が決定した。  まず、夫ギルフォードがタワー・ヒルで 処刑された。 ジェインは、夫が獄卒に引かれてタワー・ヒルに入り、やがて頭部を失った遺骸が運び出さ れてくる様の一部始終を、獄窓から涙ぐみながら見つめていたと言われている。

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===== 続く =====

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