九日間の女王ジェーン・グレイ =3=

2015.04.01-1

閉ざされた生活

イングランド中部のレスターシャー。 ロンドンの東、レスターから約8キロ、緑深いチャーンウッドの森に囲まれたブラッドゲート(Bradgate)は、13世紀から続く王侯貴族の鹿猟園としてその名を知られており、広大な同地を流れるリン川 小高い丘からこの谷川へと緩やかに傾斜して続く なだらかな斜面あたりに、グレイ家の所有する館があった。 グレイ家の邸宅「ブラッドゲート・ハウス」である。

赤レンガで造られたテューダー様式の館は、当時のイングランド王ヘンリー8世が所有するハンプトン・コート宮殿に次ぐ規模を誇っていた。 1537年当時は、まだ新築7年目であった。 周囲は楡やブナの林で囲まれ、館へと続く丘の斜面には、一面ヒースが風にそよいでいた。 テラス式の庭園には、ヨーロッパグミの木や薔薇が茂り、睡蓮の浮かぶ池には金魚が泳いでいた。 この池で、幼いジェーンはあやうく溺れかけたという。

グレイ家には3人の娘がいた。 グレイ家の子女は、1537年に長女ジェーン、1540年に次女キャサリン、1545年には三女メアリーが誕生している。 三女のメアリーは、生まれながら背骨が曲がっている障害があったが、上の二人の娘は健康だった。 ジェーンは、英国人にしては小柄で、白い肌には淡いソバカスがあった。 ジェーンの幼年時代は、ヘンリー8世の娘たちより、ずっと王女らしかったといってもよい。

何よりも、誰におびやかされることなく、父母の愛に包まれて成長したことは、女王エリザベスより遥かに恵まれていた。 だがその反面、あまりに恵まれた環境が、ジェーンを現実離れした夢見がちな優等生へと変えて行ったのかも知れない。

父は第3代ドーセット侯爵(後のサフォーク公爵)ヘンリー・グレイ、母はヘンリー8世の妹メアリーと初代サフォーク公爵とのあいだに生まれた娘、サフォーク公女フランセス。 ヘンリー・グレイの父親はヘンリー8世の異父兄であったため、3姉妹の両親は「はとこ」という関係でもある。 このグレイ家、先祖を辿れば、エリザベス・ウッドビルが前夫との間にもうけた息子であった。 エリザベスの、2度目の結婚で生まれたのが、今の国王ヘンリー8世の母親エリザベス王女である。 どちらの血筋をたどっても王族と深い繋がりがあり、グレイ家は王家にもっとも血縁の近い一族のひとつであった。

また、1551年 フランシスの実家を継いでいた異母兄が亡くなったため、サフォーク公家の爵位は、ヘンリー・グレイのものとなった。

2015.04.01-2

 ヘンリー・グレイHenry Grey, 1st Duke of Suffolk, 3rd Marquess of Dorset, 1517年1月17日1554年2月23日)は、テューダー朝時代のイングランドの貴族、廷臣。第3代ドーセット侯爵、のち初代サフォーク公爵。1553年にイングランド王位継承者となったジェーン・グレイの父。

第2代ドーセット侯爵トマス・グレイとその妻のマーガレット・ウォットン英語版の間の長男として生まれた。1530年に父が死ぬと、13歳で侯爵位を相続する。 家督相続以前に第18代アランデル伯爵の娘キャサリン・フィッツアランと婚約していたが、これを破棄して1533年にレディ・フランセス・ブランドンと結婚した。 フランセスはヘンリー8世王の妹メアリー王女と初代サフォーク公爵チャールズ・ブランドンの娘であり、イングランド王位継承権を有していた。 夫妻は王妃エリザベス・ウッドヴィルを共通の曾祖母に持つ、又従兄妹同士でもあった。2人の間に生まれた子供のうち、成育したのは3人の娘だけであった。

王室の近縁者であるグレイは、若い頃からヘンリー8世の宮廷で高い地位を与えられた。 1533年のアン・ブーリン王妃戴冠式、1540年のアン・オブ・クレーヴズの入国の歓迎式典、1544年に始まるブローニュ包囲戦ではいずれもでは王の太刀持ち(the king’s sword bearer)を務めた。 バス騎士団騎士であり、1547年にはガーター騎士団の騎士に任じられた。

ヘンリー8世の死後、新王エドワード6世を擁した護国卿サマセット公爵が実権を握り、グレイの宮廷での立場は弱まった。彼は本邸のあるレスターシャーブラッドゲートに戻り、地位の回復を模索した。サマセット公爵の弟トマス・シーモア卿が、グレイの長女ジェーンを引き取ってエドワード6世の王妃とする計画を持ちかけたが、シーモア卿が失脚して処刑されたため、計画は水泡に帰した。 1549年、ノーサンバーランド公爵ジョン・ダドリーがサマセット公を失脚させて護国卿に就任すると、ダドリーの友人だったグレイは枢密院議員に抜擢された。

1551年7月、妻フランセスの異母弟である第3代サフォーク公爵チャールズ・ブランドンが子供の無いまま死んだ。グレイは3か月後の1551年10月11日、妻の相続権に基づいて初代サフォーク公爵に叙せられた。グレイは熱心なプロテスタント信徒として知られ、議会および枢密院でも宗教改革の推進を主張し、スイスの宗教改革者ハインリヒ・ブリンガーとも家族ぐるみで親交を持った。

エドワード6世は1553年7月6日に死去する直前、遺言でグレイの娘ジェーンを王位継承者に指名していた。 王の死から3日後の7月9日、グレイ、ノーサンバーランド公爵および枢密院議員たちは、ジェーンをイングランド女王であると宣言した。 しかし傍系の継承権者に過ぎないジェーンの即位は人々の支持を得られず、エドワード6世の長姉メアリー1世が大多数の支持を得て王位に就いた。

メアリー1世はグレイの妻フランセスの従姉で友人であるため、女王はグレイと娘ジェーン、娘婿のギルフォード・ダドリー(ノーサンバーランド公爵の息子)を助命しようと考えていた。しかしメアリー1世とスペインフェリペ2世の結婚に反対するワイアットの乱が起きると、女王は態度を硬化させ、グレイは1554年2月23日に斬首された。

因みに、妻フランセス・ブランドンとの間の子供のうち、3人の娘が成育した。

2015.04.01-3

両親は、長子であるジェーンをどの姉妹よりも厳格に育て、高度な教育をほどこした。 閉ざされた毎日の中で、彼女が見出した心休まるひとときは、書物があふれる館の塔での読書。 母や侍女たちの目を盗んで塔内の小さな部屋に足を運んでは、本の世界に没頭したり、窓辺に腰掛け、遠くうねる緑の丘陵や駆け巡る鹿の群れを眺めたりしたという。

ジェーンへの読み書きなどの教育は、3、4歳の頃から始まっていた。 早朝6時のお祈りを済ませ平和で単調な日々が流れて行った。 ジェーンは6歳で聖書を読めるようになり、7歳でフランス語、イタリア語など4ヶ国語の授業が始まっていた。 考えてみれば、授業はほとんど語学のみ、後はせいぜい宗教哲学か歴史、体育(ダンス、乗馬)ぐらいである。 単語は違えども、文法的には大した違いも無い。 語学が達者になるのは道理であった。 奇異に思うかも知れないが、混血社会であるヨーロッパ 特に皇族や上級貴族は汎欧州域内での政治的婚儀を結ぶ必然から、上流階級は必然的にバイリンガルであった。

ラテン語学者でジェーンの家庭教師ロジャー・アスカムが、ジェーンについてこんな記述を残している。

≪ブラッドゲートを訪れると、グレイ家夫妻は側近を従えて鹿狩りに出かけていたが、ジェーンは1人でプラトンの『ファイドン』をギリシャ語で読んでいた。 「狩りに加わらないのですか?」と尋ねると、彼女はこう答えた。 「読書に勝る喜びはありません。両親の前では、立ち居振る舞いは当然のこと、会話でも食事でも刺繍でもダンスでも、何でも完璧にやってのけなければなりません。 そうしないと残酷な言葉でののしられ、身体を打たれることもあります。読書や勉学以外は、悲しく恐ろしいことばかりです」≫

おそらくジェーンにとって、塔で過ごすひとときは「自分」になれる欠くことのできない時間であり、書物の中の世界は、 誰にも止められることなくジェーンが自由に駆け巡ることのできる唯一の空間だったのだろう。

2015.04.01-4

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===== 続く =====

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