九日間の女王ジェーン・グレイ =5=

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動き出した陰謀

キャサリンを亡くしたトーマス・シーモアの野望は、エリザベスとジェーンに向けられる。 また、サマセット公と成った実兄への羨望から、権力闘争に夢中で、死んだ妻のことなど頭になかったらしい。 更に 彼はエリザベスと婚姻関係を結び、自身が後ろ盾となったジェーンとエドワード6世を娶わせることで、王室の実権を握ろうと画策していた。

しかしながら、事態は思わぬ方向へと進む。 キャサリン・パーが出産のために死んだ半年後の1549年3月、兄の手で処刑されてしまった。 トーマスが反逆罪で逮捕され、ロンドン塔で処刑されたのである。 死刑執行の命を下したのは、兄のサマセット公だった。  これで長年の兄弟闘争に終止符が打たれたかと思いきや、この事件は意外な形でサマセット公の足をすくうことになった。 この事件の後 ジェーンは、再び実家のブレイドゲートに戻って来た。 エリザベスはサマーセット公に憎まれ、しつこくトーマスとの中を詮索されたが、ジェーンは無事に幼年期をすごした楽園に帰郷したのだった。

その頃、 サマセット公は「弟殺し」の烙印を捺されたのだ。 挽回を図ろうとしたサマセット公は失策を繰り返し、まるでトーマスの呪いであるかのように、破滅への坂道を転がり落ちていく。 そんなサマセット公の凋落を虎視眈々と待ち望んでいたのが、当時のウォーリック伯ジョン・ダドリー。 同じく反逆罪でサマセット公を処刑するのに成功したダドリーは、エドワード6世よりノーサンバランド公爵位を賜り、護国卿へと昇進。 念願であったイングランドの最高権力者となった。 ちなみに、この頃ジェーンの父もサフォーク公爵に叙せられているのです・・・・・

元来病弱であったエドワード6世は、天然痘とはしかを患って以来、健康状態は日々悪化の一途をたどっていた。 1553年には悪性の風邪をこじらせて重い肺の病にかかり、床から起き上がれない日も多くなる。「陛下はもう長くないのでは…」。 そんな言葉が王宮内で囁かれはじめていた。

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  赤レンガで造られたテューダー様式の館、当時のイングランド王ヘンリー8世が所有するハンプトン・コート宮殿に次ぐ規模を誇っていたグレイ家の邸宅「ブラッドゲート・ハウス」で過ごすジェーンはよく勉強した。 実際、エリザベスの教師だったロジャー・アスカムが絶句するほど優等生だった。 だが、その知識には大きな偏りがあった。 ジェーンは大切に育てられ過ぎたために、人間そのものを学ぶ機会がなかった。  いかに人の心を読むか、いかに危機に際して対処するか、現実的な方法を知らな過ぎた。   その証が刻々と迫り着ていた。 後に、エリザベス(エリザベス1世・処女王)とジェーンが対照的な人生の轍を突き進むようになる。 ジェーンが天使のように理想世界をふわふわ漂うだけで、ふと気付いた時には、陰謀の泥沼に足首を取られて、もがき 叫ぶすでも知らずに にっちもさっちもいかなくなって、ただ泣くばかり彼女は、 孤児のように育ったエリザベスのように、歯を食いしばって生き残る道を模索するような、強さはなかったことが・・・・・・

王宮内の囁かれはじめてた噂に最も焦ったのが、 ジェーンの新郎ギルフォードが父ジョン・ダドリーである。  ヘンリー8世の遺言に従うと、次に王冠を手にするのは王の異母姉メアリー(後のメアリー1世)。  当時のイングランドでは旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)が対立しており、どちらの宗派の王が即位するかで勢力図が一変する可能性があった。 頑迷なカトリック教徒であるメアリーは、徹底的にプロテスタントを弾圧するだろう。 そうなれば現プロテスタント政権の頂点に立つ自分は良くて宮廷追放、悪ければ断頭台行き。 今のうちに、何か手を打っておかなければ…。 そんな思いが湧き上がっていたに違いない。

そこで目をつけたのがジェーンだ。 グレイ家は敬虔なプロテスタント教徒。 メアリーとエリザベス、ジェーンの母に続いて第4位の王位継承権を持つジェーンは、とても『魅力的』に思えた。 同じプロテスタントとはいえ、エリザベスを懐柔するよりも容易にことが運ぶだろう。 ダドリーは壮大な策略を巡らせはじめる。

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突然の不本意な結婚

「それ」はジェーンにとって、まさに寝耳に水だった。  1553年5月のこと・・・・・・・

15歳を迎えたある日、ジェーンを呼びつけた両親は、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーの4男で、17歳のギルフォードとの婚約を告げた。 仰天したジェーンは、淑女らしく振る舞うことも忘れて思わず叫んだ。 「嫌です!絶対に嫌!」。 ギルフォードは女癖が悪く、酒と賭けごとが好きな放蕩息子として知られていたし、父のダドリーは黒い噂がつきまとう人物。 親が決めた政略結婚に従うのが貴族の娘の宿命ではあるものの、かの一家と縁を結ぶことには不吉な予感しかしなかった。  「私、ハットフォード伯が好きだったのに・・。」ジェーンは弱々しく抵抗した。

バシッと母の強い平手打ちがジェーンの頬で鳴った。 「だいじょうぶ、今までの生活は変わらないわ。 勉強だって続けていいのよ。」 母親はそういって説き伏せた。

「陛下はまだお若い。ノーサンバランド公様は、いわば師父代わりです。そんな方の義理の娘になれば、誰よりも輝かしい未来が待ち受けているのですよ! それにもう決まったことです!」

縁談は不自然なほど迅速に進められ、1553年5月21日、ロンドン・ストランドのテムズ河沿いにあるダドリー家の邸宅「ダラム・ハウス」(現在のアデルフィ・テラスがある場所)で結婚式が行われた。 その日、3姉妹は合同結婚式をあげた。 次女キャサリンはヘイスティングス卿と。 三女メアリーは従兄弟のアーサー・グレイと。 花嫁衣装は、王室のものを使用した。 ジェーンは、緑のベルベットのドレスに金欄のマントを身にまとい、美しかった。 3組合同で開かれた盛大な式は、ジェーンの憂鬱な表情とは対照的にまれに見る煌びやかさだったと言う。 

新郎ギルフォードは、少年王の騎馬試合に出場するために、式の直後に宮中へ行ってしまった。 ジェーンは両親が自分をダーラム・ハウスに残して帰ろうとするので、驚いて問う、「ブレイドゲートに帰ってはいけないの?。」 「何ですって!!。」  姑のノーサンバーランド公妃は、激怒して叱ったという。 ジェーンは亀の子のように首を縮めて、うなだれていたと言う。

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=ギルフォード・ダドリー(Guildford (Guilford) Dudley, 1535年頃- 1554年2月12日)は、1553年7月10日から同月19日までイングランド女王だったジェーン・グレイの夫である。 ギルフォードは人文主義教育を受け、エドワード6世の死のわずか6週間前にジェーンと盛大な結婚式を挙げた。 エドワード6世が死去すると、ギルフォードの父ノーサンバランド公ジョン・ダドリーはジェーンの祖母がヘンリー8世の妹メアリー・テューダーだったことを根拠に彼女を女王に推戴した。

ギルフォードは女王の王配として相応の「王」となることを望んだが、イングランドには女王の先例がなく王配を王として扱うことにはジェーン自身も慎重で、結局夫を共同統治者に据えることを見送った。 ジェーンの在位は10日に満たない短さに終わり、エドワード6世の姉・メアリー1世があらたに女王として即位すると、夫妻は国家反逆罪でロンドン塔の牢獄に別々に入れられ、共に1553年11月に死刑を宣告された。

当初メアリー1世はジェーンとギルフォードを助けるつもりだったが、メアリー女王とスペイン王フェリペ2世との結婚に反対して女王の廃位を主張するワイアットの乱 (Wyatt’s rebellion)が起きると、自身の王座を脅かす危険を排除するため夫妻を処刑した。 幼い夫婦に対する死刑はあまりに無情だという声が広がった。=

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===== 続く =====

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