九日間の女王ジェーン・グレイ =7=

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メアリーの反撃

女王としての仕事は山のようにあり、ジェーンはとにかく忙しかった。
枢密院(国王の政治上の諮問機関)は午前と午後の1日2回開かれ、その会議に出席した後は報告書に目を通す。 「ジェーン女王Jane the Quene」(Queneは中世英語)と初めて署名した際には手が震えて不恰好だったが、次々と運ばれてくる書類に何度も書き込んでいるうちに上達してきた。 そんなジェーンを見て、ジョン・ダドリーは満足そうな笑みを浮かべた。 今のところ、すべて順調に運んでいるように思われた。 彼女は自分の言うがままだし、枢密院の貴族たちも概ね従順。 軍隊と武器、国庫は彼の手の中。 唯一気にかかるのが、メアリーの動向だった。

ところで、国王の崩御は通常であれば翌日には告示されるが、エドワード6世の場合、7月6日に逝去したにもかかわらず、その死は10日まで公表されなかった。 それは当初の計画では、国王崩御と同時に遺言状を盾にメアリーを逮捕・幽閉し、カトリック派の貴族を押さえ込んだ上で、ジェーンの即位を宣言する予定だったからだ。 ところが、ギルフォードの兄ロバート・ダドリーが軍を率いてメアリーのもとを訪れると、身の危険を察知していた彼女はすでに逃亡を図っていたのである。

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メアリー1世(Mary I of England)は、イングランドアイルランドの女王。 ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの娘として、グリニッジ宮殿で生まれた。 イングランド国教会に連なるプロテスタントに対する過酷な迫害から、ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)と呼ばれた。 王妃キャサリン・オブ・アラゴンは5度の懐妊に失敗していたが、6度目の懐妊でメアリーを出産した。 メアリーの名は、叔母メアリー王女にちなんだものだった。 当初は男児誕生を願っていたヘンリー8世も、娘が健康であると知ると「イングランドでは女子の王位継承を妨げる法はない」として跡継ぎと見なし、鍾愛した。

1525年、ヘンリー8世に庶子ヘンリー・フィッツロイが生まれると、彼はこの男児を直ちにリッチモンド公爵に叙している。 ヘンリー8世の父ヘンリー7世が即位前にリッチモンド伯爵だったことからもわかるように、この叙爵は庶子に対するものとしては破格のもので、この子が正嫡でないことへの無念さがそこには見て取れる。 一方メアリーに対してはプリンス・オブ・ウェールズに相当する王女として「プリンセス・オブ・ウェールズ」の称号が用いられたものの、そこに世継ぎとしての法的な根拠は付与されなかった。

メアリーが9歳になる頃にはキャサリンとの間にもうこれ以上の子はできないことが明らかな情勢となっていた。男子を切望するヘンリー8世は寵愛するアン・ブーリンと再婚するためにキャサリンとの婚姻無効を宣言、これとともにメアリーからは世継ぎの地位ばかりか王女の身位までが剥奪されて庶子とされた。 ヘンリー8世はメアリーに「両親の結婚は間違いだった」と認めさせようとしたが拒否されている。

やがてアン王妃が第2王女エリザベスを産むと、アンはメアリーに対してエリザベスへの臣従を強要したが、メアリーはエリザベスを「妹としては認めるが、王女としては認めない」と突っぱねた。 怒ったアンはメアリーを強引にエリザベスの侍女におとしめた。 この後アンが王妃の間を通じてヘンリー8世はメアリーとの面会は拒絶している。 アンはかつての愛人だったノーサンバーランド伯爵ヘンリー・パーシーに対して、メアリーを殺すつもりだと話していたことが知られている。 またアンの裁判では複数の者がメアリーの毒殺未遂があったことを証言している。 いずれにしても、メアリーがヘンリー8世と再会したのはアンが処刑されてジェーン・シーモアが3番目の王妃になってからのことだった。 しかしそのジェーン王妃がヘンリー8世待望の王子エドワードを生んだことで、メアリーはエリザベスと共に庶子として扱われ続けた。

ヘンリー8世が晩年に6番目の王妃としたキャサリン・パーは家族の絆を大切にすることに心を砕き、まだ幼少のエドワードとエリザベスを自らのもとで養育するとともに、成人していたメアリーも宮廷に呼び戻してさまざまな公務を行わせた。 こうした努力が実って、健康を害して近い将来の死を悟ったヘンリー8世は、エドワードがまだ幼くひ弱な体質であることを危惧して、1546年に王位継承法を改正しメアリーとエリザベスにエドワードに次ぐ王位継承権を与えた。 果してヘンリー8世はその翌年に死去し、まだ9歳のエドワード6世が即位した。

エドワード6世はその短い治世を通じて自らの推定相続人たるメアリーに対しカトリックの信仰を放棄するよう促し続けたが、母キャサリンによって敬虔なカトリックに育てられていたメアリーはそれを拒絶し続けた。 しかしこれはメアリーの王位継承権が再び危ういものとなることを意味した。 病弱のエドワード6世は即位から6年後にはもう回復の見込みがない程病床に伏す身となっていた。 彼が後継者として指名したのは、父・ヘンリー8世の妹・メアリー・テューダーの孫にあたるジェーン・グレイだったが、その背後にはこの直前に自身の子ギルフォードをジェーンと結婚させていた野心家のノーサンバランド公ジョン・ダドリーの暗躍があった。

エドワード6世が1553年7月6日に15歳で夭折すると、枢密院は筋書き通りジェーン・グレイを女王に推戴した。 ノーサンバランド公はメアリーの身柄を拘束しようとしたが、事前に身の危険を察知したメアリーはノーフォーク公トーマス・ハワードに匿われロンドンを脱出する。 その間に7月10日にはジェーンがロンドン塔に入城しその王位継承が公に宣言されたが、一方のメアリーも13日にノリッジで即位を宣言した。 するとメアリーのもとには支持者が続々と集結し、民衆蜂起となってロンドンに進軍した。 これを自ら鎮圧しようと兵を向けたノーサンバランド公は逆に惨敗を喫してしまう。 これを受けて19日には枢密院も一転メアリー支持を表明、ロンドンに入ったメアリーは改めて即位を宣言した。 ノーサンバランド公とその子ギルフォードはジェーン・グレイとともに身柄を拘束され、大逆罪で処刑された。 こうしてメアリーは名実共にイングランドの女王と成る。=

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   メアリーを支持する民衆がこのように蜂起したのは、ヘンリー8世の遺言では王位継承権がエドワード、メアリー、エリザベスの順にあったのにもかかわらず、これを継いだエドワード6世の遺言ではこの異母姉2人を差し置いてプロテスタントであるという理由で従姉のジェーンが後継者に指名されていたことから、それがエドワード6世の真意であることを疑い、ジェーンがノーサンバランド公の傀儡になることを危惧したためといわれている。 エドワード6世の遺言の真偽は別として、少なくともそれを理由に民衆の蜂起を煽ったメアリーの作戦勝ちに終わる。 と史蹟にある。

7月12日、枢密院あてにメアリーから書簡が届く。 ダドリーが代表して開封すると、そこには王位を要求する旨が記されていた。 枢密院はその要求を突っぱねるが、ダドリーの強引なやり方に不満を持っていたプロテスタント派貴族らが次々と寝返りはじめてしまう。 議会も「メアリーこそが正当な女王」と発表し、情勢を静観していたエリザベスもメアリー支持を表明した。

7月14日、いよいよ反撃のためにメアリー皇女が挙兵したとのニュースが流れると、興奮した群衆が、メアリー支持を叫んでロンドン塔に殺到した。 ジェーンは塔の入り口を閉めさせて、中に閉じこもった。

こうして流れがメアリー側へ傾いていき、あっという間に形成が逆転する。 カトリック派や反ダドリー派貴族がメアリーのもとに集結し、彼女は軍勢を率いてロンドンへ進軍。 対するダドリーもメアリーを迎え撃つため、自ら軍隊を率いてロンドンを発った。 しかし、両軍が相対する前に事は終息を見せる。

19日、最後の砦であった枢密院が、メアリーの女王即位を正式に宣言したのである。 ロンドン中の教会の鐘が鳴り響き、人々は「メアリー女王、万歳!」と叫びながら一晩中飲み、笑い、歌った。

 

ジェーンは枢密院から何も知らされていなかったが、塔内にもかすかに聞こえたであろう外界の熱狂ぶりから、おぼろげながらも想像できたに違いない。 彼女の心を占めたのは、一体どんな思いだったのか。 多くの血が流れることを避けられて、ほっとしたのだけは確かだろう。 夕食の時間に大広間に現れたのは、ギルフォードだけだった。 それぞれの母もすでに塔から脱出していた。 2人が黙々と食事をしていると、ついに敗北を悟ったジェーンの父/ヘンリー・グレイから、娘に王位を放棄するように指示する手紙が送りつけられて来た。

尚 不安なのであろう ヘンリー・グレイがロンドン塔へやって来た。 ジェーンは一人玉座に座っていた。 厳しい顔つきをしたジェーンの父ヘンリーが広間に入ってきて、彼女の紋章が刺繍された玉座の天蓋の布を引き剥がし、静かに伝えた。

「もうおまえは、そこには座れなくなった。 こっちへおいで。」  「お父様!もう私は家に帰ってもいいんですね!」 ジェーンは嬉し泣きとも悲しみともつかない涙を流しながら、父親に抱きついた。 その瞬間、ジェーンの心は不思議と安堵感で満たされた。 エドワード6世の崩御を知ったあの日から、 ぐっすり眠ることさえできなかった日々がやっと終わったのだ。 人生で最も長い「9日間」だった。

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===== 続く =====

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