九日間の女王ジェーン・グレイ =8=

2015.04.06_1

   踏み潰された希望の芽

 1553年7月6日、エドワード6世が15歳で夭折する。 7月10日にはジェーンがロンドン塔に入城しその王位継承が公に宣言される。 一方のメアリーも13日にノリッジで即位を宣言した。 すると、メアリーのもとには支持者が続々と集結し、民衆蜂起となってロンドンに進軍した。 これを自ら鎮圧しようと兵を向けたノーサンバランド公は逆に惨敗を喫してしまう。 これを受けて19日には枢密院も一転メアリー支持を表明、ロンドンに入ったメアリーは改めて即位を宣言した。

そして、翌日の月20日、ジェーンは女王の滞在するホワイト.タワーから、一転して囚人として、別の塔へ監禁された。 そこに、 残酷にも 王冠を差し出したと同じ大蔵大臣ウィリアム・ポーレットが現れ、王冠の返還、ならびに無くした宝石を弁償するように迫った。 ジェーンは王冠とともに、自分の金貨をすべて渡したという。 ノーサンバーランド公も反逆者として、ロンドン塔に投獄された。 彼はメアリー女王メアリー女王に助命すべく、新教徒からカトリック信者になると申し出たが、メアリー女王の怒りは治まらなかった。 

ジェーンとギルフォードは、ロンドン塔内の別々の建物へと移送される。 ギルフォードは「ビーチャムタワー」に、ジェーンは看守用の住居「ナサニエル・パートリッジズ・ハウス」に幽閉となった。 すぐ後に逮捕されたダドリーも「ガーデンタワー」(後にブラッディタワーと改名)、他の息子たちはギルフォードと同じ「ビーチャムタワー」に投獄された。

ダドリーはカトリックへの改宗を宣言し、新たに王位に就いたメアリー1世に己の助命を嘆願したが叶わず、8月22日、タワーヒルにて公開処刑が行われた。 彼は、斬首されるその時まで、恩赦により刑が中止されることに望みをかけていたという。 ジェーンは、女王の使者に向かって語った 「許して下さいね。  ノーサンバーランド公は悲しい災難と悲劇を運んできました。でも彼の改心によって他の人が救われたと期待したいのです・・・・。」と。 他方、驚いたことに、ジェーンやグレイ家に対するメアリー1世の措置は、意外なまでの寛大さを含んでいた。

ジェーンには侍女がついたし、庭を散歩することも許されていた。 父ヘンリーは母フランセスの懇願により、罰金を払っただけで釈放されている。 何も知らないままに担ぎ出された「犠牲者」に、メアリー1世が同情の念を覚えていたとしてもおかしくはない。 メアリー女王がジェーンを憎んでいたとは思えない。 何しろグレイ家は、自分にも同じ名前を与えてくれた、最愛の叔母の家族なのだ。 グレイ家は、メアリー1世の生母キャサリン・オブ・アラゴンの親友でもあった「最愛の叔母」の家族であるということが、大きな意味を持っていたようだ。 メアリー1世とフランセスも、宗派を超えた友人であったとされる。

2015.04.06_2

    もし、何事も起こらなければ、ジェーンは故郷ブレイドゲートにもどり、また静かに勉学の日々を送れたかもしれない。 もし何事もなければ・・・・・・・・・・

11月14日、ジェーンとギルフォードの裁判が開かれ、2人に死刑判決が下される。  しかしながら、ジェーンが王族に連なる者であること、まだ16歳であること、本人に野心がないことなどから、実際には刑は執行されないだろうというのが大方の見方だった。 王位が変わればロンドン塔から釈放され、故郷のブラッドゲートに戻ることも可能だったかもしれない。   …だが、その希望の芽を踏み潰した人物がいた。

1554年1月、メアリー1世とカトリック強国スペインの皇太子(後のフェリペ2世)との婚約が発表されると、結婚に反対するプロテスタント派が、ジェーンを旗印にして相次いで反乱を起こした(最も大きなものがトーマス・ワイアットの乱)。 2月7日までにすべての反乱が鎮圧されたものの、ジェーンを生かしておくのは危険だとの声が高まる。 そしてなお悪いことに、なんとジェーンの父も反乱に乗じて挙兵していたのだ! メアリー1世はこの報を受け、ジェーンとギルフォードの処刑執行令状に署名。 父の浅はかな行為が、娘の運命まで決定づけてしまったのである。 刑の執行は2月12日と決まった。

ジェーンの父・ヘンリー・グレイが挙兵した反乱とは、“トマス・ワイアットの乱”に、二度にわたって関与していたと言われ、グレイ家は断罪されるのだが、後に王位についたエリザベス1世がワイアット家の称号と領地を回復し、トマスの子孫は存続せしめているのであるから、歴史の深部に何かがある。

 

さて、トマス・ワイアット。 この男の気の荒さには定評があった。 彼はケントの豪族として、父親から広大な領地を相続していたが、故郷でじっとしているような男ではなかった。 ロンドンでは暴動鎮圧のおり、上官に逆らった廉で投獄されている。 その後許されてヨーロッパを周遊し、スペイン滞在中に異端審問を目撃 スペイン政府に嫌悪感を抱いたようである。

おそらく1549年頃帰国し、時の権力者ノーサンバーランド公に対して、ロンドンの治安維持について提言をしたものの、 ノーサンバーランドの失脚でご破算となった。 ジェーンが即位した時には、ロチェスターでメアリー支持の宣言を出している。 気性は激しく排他的な愛国者であった。 そしおて、1554年1月、メアリー女王がスペイン王子フェリペとの結婚を発表すると、愛国者達は一斉に反発した。 異国人と結婚しようとする女王から自由と国家を守ることを呼びかけたのである。 中でもワイアットはケントのロチェスターを本拠に、4000名を率いて挙兵した。 いわゆる「ワイアットの乱」である。

2015.04.06_3

   メアリー女王は反乱を知り、24時間以内に軍を去って帰宅した者には赦免を与えるとした。トマスはフランスが反乱を支持していると嘘をついて反乱者たちを引きとめた。 反乱制圧にやって来たノーフォーク公の兵の多くは反乱軍に加わり、ノーフォーク公は逃亡した。 女王は義勇軍を結成し、トマス・ワイアットの首に賞金をかけた。

反乱軍は、国民からまったく支持されず、ロンドンへの入場すら阻止される有り様だった。 しかし強引にゲートを通過したワイアット勢は、女王のいる聖ジェームス宮殿を目指して失敗し、2月7日、捕えられてロンドン塔に送られている。

悪いことに、この反乱に、ジェーンの父・ヘンリー・グレーが関与していた。 ヘンリーは藁の下に身を隠しながら必死に逃亡したが、自分の領地に逃げ込む寸前で捕えられた。 夫を熱愛していた妻フランシスは、半狂乱になって女王に泣きついた。 しかし今まで、明らかに反乱を企てた者が許されたためしはない。

いくらメアリー女王といえども、見逃すことは難かしかった。 だが、メアリーには君主として、ヘンリーよりも先に倒さねばならない存在がいた。 裏切られた悲哀と苦渋のうちに、メアリーは「反逆者ギルフォード・ダッドリーと、その妻」の処刑命令書にサインする。 ヘンリー・グレイの浅はかな行為が、自身のみならず、娘のジェーンの運命まで決定してしまったのである。

「お父様・・・・お父様、なんて事を。」 ジェーンは両手で顔を覆ってすすり泣いた。 グレイ家は女系家族であり、父は唯一の男として、一家の心の支えだった。 母は娘たちよりも夫を愛していた。 その父が死ぬ。死んでしまう。 そう思う時、ジェーンの全身から潮が引くように生きる力が失せていった。 父が獄中で、娘のために嘆き悲しんでいると伝え聞き、ジェーンは手紙を書いた。

「愛するお父様、私はあなたによって死ぬことで、神様を喜ばせました。 それによって、私の魂は生き延びるのです。 神様は私に死をお与えになるかわりに、この悲惨な日々を終わらせて下さるのです。 私には、あなたのお嘆きがわかります。神様の前で、私の血は、きっと無実を叫ぶでしょう。 あなたの従順な娘ジェーン・ダッドリー」

2015.04.06_4

※ 下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます ⇒ ウィキペディア=に移行
===== 続く =====

                         *当該地図・地形図を参照下さい


 

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;歴史小説】 http://ameblo.jp/thunokou/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中