九日間の女王ジェーン・グレイ =10=終節

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=ギルフォード・ダドリー_④=ギルフォードは処刑前日に妻との最後の面会を求めたが、ジェーンは「そんなことをしても悲惨さと苦痛が増すばかり…もっと別の場所で逢うことができ、断ち切られることのない絆で結ばれて生きていけるならばともかく、そうでないのだから逢わない方がずっとましだ…」と考えて拒否した。 

ギルフォードは212日の朝10時にタワー・ヒルに連行されたが、そこには彼との別れの握手をするために「大勢のジェントルマン」が集まっていた。 ギルフォードは慣習通り、集まった人々の前で短時間の最後の挨拶を述べた。 ギルフォードは「霊的な指導者も呼ばずに」1人でひざまずぎ、祈り、「彼の目と手とを何度も神に見ていただけるように」、人々に彼のために祈るように求めた。 

ギルフォードは斧の一振りで絶命し、その遺骸は荷車に乗せられ、ロンドン塔内のセント・ピーター・アド・ヴィンキュラ王室礼拝堂に納められた。 夫の遺骸が礼拝堂に運ばれていくのを塔の窓から見ていたジェーンは、「ギルフォード!ギルフォード!」と叫んだと言われる。 ギルフォードは、彼の死の1時間後に処刑された妻ジェーンと一緒に、安置された礼拝堂に葬られた。

ギルフォード夫妻の処刑はメアリー女王政府の信望を落とすだけの結果に終わった。 夫妻の死の5カ月後、スコットランドの宗教改革者ジョン・ノックス2人の死について、「全くの潔白だ…抵触する法も信用できる証人もなく、逆心を抱いていた証明も出来なかったのに」と記している。 リチャード・グラフトンは10年後の1564年、ギルフォードについて、「私は彼の死に目には会えなかったが、彼の死を聞くと悲憤の涙が流れた」と記している。  ・・・・・・・・

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断頭台と暗闇の恐怖

その日もいつものように、どんよりとした陰鬱な空が広がっていた。 早朝に目覚めたジェーンは簡素な白いドレスをまとい、その上から黒地のガウン、黒色のケープとフード、黒手袋という黒一色で全身を包んだ。

朝10時前、公開処刑場のタワーヒルへと連行されるギルフォードを見送ろうと、ジェーンは窓の側に歩み寄る。 実は処刑の前日、ギルフォードが「会いたい」と伝えてきていた。 しかしジェーンは「離れ離れになるのはしばしの間だけで、すぐにまた会えます」とだけ伝言してこれを断ったという。

このような運命へと引きずり込んだことをいまだに許せなかったのか、それとも誰かと面会して心が揺れることを恐れたのか――。 今となっては、ジェーンの本心を知る術はない。

1554年2月12日、10時、ビーチャムタワーの窓から、ジェーンは処刑台に向かうギルバートの、最期の姿を見つめていた。 顔色は悪いものの、前を見据えて歩き去っていく彼の背中を見つめる。 数十分後であろうか、そのまま半刻ほど待つと、一台の荷車が音をたてながら戻ってきた。 その荷台の上に、血で汚れた頭部のない遺体がのせられているのが目に入った。 血まみれのギルバートの体が板の上に乗せられて、運ばれてきた。 切断された頭部は、白い布で包まれていた。  「あぁ、ギルフォード! あなたの試練は終わったのですね…」。

「ギルバート!ギルバート!!」 ジェーンは泣き叫んだ。 そして、     「私、恐い、恐い・・・・恐い。」 と嗚咽の声を殺す・・・・・・・次はジェーンの番だった。

1時間後、ついにジェーンの番が来た。 ロンドン塔長官に手をとられて、ロンドン塔内にある、教会前の小さな緑地へ向かった。 王家の血を引くジェーンは、タワーヒルでの公開処刑ではなく、ロンドン塔内のタワーグリーンで処刑されることになっていた。 ジェーンは祈祷書を手に、毅然とした態度で処刑台の階段をのぼっていく。 刑に立ち会った人々へ向けて最後の演説を行い、祈祷書の一説を読み上げると、それを父に渡すように告げて介添えの男性に手渡し、侍女たちには形見としてハンカチと手袋を渡した。

頬を涙で濡らした侍女に手伝われながらガウンやケープを脱ぎ、これから自分がする行為への許しを乞う処刑執行人に、許しの言葉を述べる。 ここまでは完璧だった。 テューダー王家に連なる娘として、また由緒あるグレイ家の長女として、取り乱すことなく堂々とこなすことができた。

処刑台の周辺には、あのフェキンハム博士の、悲しげな顔もあった。 ジェーンは賛美歌を歌った。 それから世話をしてくれた侍女のエレンに形見として、ハンカチと手袋を渡した。 エレンは泣きながらジェーンの頭の飾りとスカーフをはずし、マントを脱ぐのを手伝った。 処刑人はジェーンの前にひざまづき、許しを乞うた。 5分間、静寂が続いた。 女王からの、最後の特赦を待つ時間だった。 しかし、誰も現れなかった。

 だが、5分後、ジェーンは自分の手で目隠しをしてから、パニックに陥った。 藁の上に立ち、ちらりと断頭台に目を落した瞬間、ぞっとする恐怖が身体を這いあがる。 か細い声で 「早く済ませてくださいね」 と処刑執行人に頼んだというジェーンは、すっかり16歳の少女に戻っていたのだろう。 布で目を覆い、震える手でなんとかきつく縛る。 その途端、自分が暗闇の中に放り出され、1人だけ知らない場所に取り残されたような気がした。 怖くなって急いで断頭台に首をのせようと手を伸ばすが、その台が見つからない。 必死に手探りで探しても、どこにあるのかまったくわからない。 必死で手探りをしながら、助けを求めた。 「どうすればいいの?どこへ行けばいいの?」 見るに見かねて、立会人だった神父がジェーンを斬首台まで導いた。  ジェーンはやっと台をみつけると、震える声で小さくつぶやいた。 「神様、あなたを誉め讃えます・・・・。」 すると、誰かの手が優しくジェーンに触れ、導いてくれるのを感じた。 ようやく静かに首を横たえ最期の言葉を唱えた。 「主よ、我が魂をあなたの手に委ねます」 持ち上げられた斧の刃がキラリと光り、うなり声を上げながら勢いよく落下する。 最初の一撃で斧は深く首にめりこみ、ショックで肉体は痙攣する。 さらにもう一撃で、切り損ねた腱を切断する。 行き場のなくなった血は、切断面から激しくほとばしり、足元に敷き詰めた藁を深紅に染めた。 ジェーンの体はその場に4時間放置された後、正面にある聖ピーター教会に葬られた。 1554年2月12日、16歳と4か月の生涯だった。

壁に刻まれた名前

ジェーンの遺体は、ロンドン塔内にあるセント・ピーター・アド・ヴィンキュラ礼拝堂に運ばれ、ヘンリー8世の命で処刑された2人の王妃アン・ブーリンとキャサリン・ハワードの隣に埋葬された。 ジェーンの父は娘が処刑された11日後の2月23日、タワーヒルで斬首される。 母はメアリー1世の好意と友情のおかげで生き残り、ジェーンの妹キャサリンとともに、女王の女官として彼女に仕えた。

ジェーンの処刑後、メアリー1世は周囲の反対を押し切ってスペインのフェリペ皇太子と結婚し、「ブラッディ・メアリー(流血のメアリー)」と呼ばれるほどにプロテスタントに対して過酷な迫害を行った。 しかし子供を授からないまま、即位から5年で病死。 次いで25歳で即位したエリザベスが、イングランドに黄金時代をもたらすことはご存知の通りだ。

メアリーやエリザベスの母が婚姻無効でヘンリー8世と離別させられたからには、2人は確かに本来は王位継承権がない私生児であり、ジェーンの女王即位は必ずしも理屈に合わないわけではない。 だが、緑豊かな田園風景に囲まれて育ち、人と争うことを嫌い、静謐を好んだというジェーンは、メアリーやエリザベスのように、困難なときに歯を食いしばって生き残る道を模索するような強さは、持ち合わせていなかったと思われる。 とはいえ、まだ16歳という若さながら潔く運命を受け入れた姿は、多くの人々の心を打ったに違いない。

もしロンドン塔を訪れる機会があれば、「ビーチャムタワー」の小部屋の壁をご覧いただきたい。 幽閉されていたダドリー家の兄弟たちが彫った家紋などが散らばる中に、「JANE」という名前を見つけることができるだろう。 ギルフォードが刻んだものと伝えられているその弱々しい文字が、460年前に起きた事件の悲しい顛末を今に伝えている。

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メアリー1 (イングランド女王)宗教政策; ウイキより

敬虔なカトリック信者であるメアリー1世は、敬虔なカトリック信者であるメアリー1世は、父ヘンリー8世以来の宗教改革を覆し、イングランドはローマ教皇を中心とするカトリック世界に復帰した[2]。メアリーはプロテスタントを迫害し、女性や子供を含む約300人を処刑したため、「ブラッディ・メアリー」と呼ばれた。処刑された者の中には、トマス・クランマーヒュー・ラティマーニコラス・リドリーらがいる。

母方からスペイン王家の血を引くメアリーは、結婚の相手に従兄の子にあたるスペイン王太子フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)を選んだ。しかしカトリックの宗主国のようなスペイン王太子との結婚は、将来イングランド王位がスペイン王位に統合されてしまう可能性を孕んでいただけに反対する者も多く、トマス・ワイアットらがケントでエリザベスを王位に即けること求めて蜂起する事態となったが、反乱は鎮圧されワイアットは処刑された。この後にもいくつかの反乱が起こるが、そのいずれもがエリザベスを王位に即けることを旗印にしたものだった。

メアリーは幾多の反対を押し切り、1554年7月20日に11歳年下のフェリペと結婚した。フェリペには共同王としてのイングランド王位が与えられたが、1556年にスペイン王として即位するために本国に帰国、1年半後にロンドンに戻ったものの、わずか3か月後には再びスペインに帰国し、以後二度とメアリーに会うことはなかった。フェリペとの結婚後、メアリーには懐妊かと思われた時期もあったが、想像妊娠だった上、実は卵巣腫瘍を発症していた模様で、妊娠と思われたのはその症状だったと推測されている。

この結婚によってイングランドはフランスとスペインの戦争に巻き込まれ、フランスに敗れて大陸に残っていた唯一の領土カレーを失うことになった。

悪いこと尽くめに終わったフェリペとの結婚の果てに、メアリーは自らの健康も害してその死期を悟るようになった。後継者は異母妹エリザベス以外にいなかったが、母を王妃の座から追いやった淫婦の娘としてメアリーはエリザベスのことを終生憎み続けており、死の前日になってしぶしぶ彼女を自身の後継者に指名するほどだった。

メアリー1世は5年余りの在位の後、卵巣腫瘍により1558年11月17日にセント・ジェームズ宮殿で死去した。メアリーの命日はその後200年間にわたって「圧政から解放された日」として祝われた。

近年、ピューリタン寄りでリベラルな従来の歴史観を批判する歴史修正主義によって、メアリー1世の治世に対する極度に否定的な見方は緩みつつある。新しい角度からの視点では次のように評価されている。

メアリー1世は宗教改革に逆行してカトリックへの復帰を目指し、その過程で多くのプロテスタントを処刑したことが非難されてきた。しかし宗教改革はエドワード6世時代には一般社会には浸透せず、イングランドの実質的なプロテスタント化はエリザベス1世時代以後に進んでいったものと考えられる。エドワード6世死去の時点では、教養ある貴族やジェントリ階層は伝統的な宗教慣習に強い愛着を示し、一般民衆と彼らを教導する教区の聖職者もプロテスタントの革命的な改革やその教義を理解しなかった。カトリックへの復帰がさしたる抵抗なく行われたのはこのためだといえる。メアリー1世の治世がもし長ければ、イングランドがプロテスタント国家にならなかった可能性は高い。

フェリペとの結婚はスペインの属国化を招きかねなかったことが非難されてきた。しかし当時はテューダー家の血を引く者のほとんどが女性であり、また国内貴族との結婚はジェーン・グレイの例にも見られるように貴族間の派閥争いや王家乗っ取りを許す虞れから憚られたという事情があった。婚姻時の取り決めでも、フェリペのイングランド共同王としての資格はメアリーとの結婚期間のみに限定されており、イングランド王位の継承権はフェリペとメアリーの間の子のみに認められており、イングランドの独立性は充分に考慮されていた。

・・・・・・・・なお、処女王エリザベス一世については、後日に書き記そう。

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===== 続く =====

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