北海帝国の興亡 =01=

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  長い英国史の中でも後世に与えた影響の規模では超ド級の大事件が起こった。

ヘイスティングズの戦いである。

その勝利により即位したウィリアム1世は現在の英王室の「祖」とされる。

 さて、2013年6月2日、在位60年を迎えたエリザベス女王のために、「ダイヤモンド・ジュビリー」と銘打って様々な祝賀記念行事が華やかに繰り広げられた。 大成功のうちに幕を閉じたロンドン五輪とパラリンピックのおかげで、既に昔のことのように思えてしまうものの、英王室がその存在感を内外に力強く示す絶好の機会となった。 このエリザベス2世だが、家系図をさかのぼっていくと、ひとりの王にたどりつく。 その名をウィリアム1世という。 もとの名はノルマンディ公ギョーム(Guillame)。 ノルマンディー公は同名の父君が受勲した名前であるゆえ、正しくはギョーム二世と言うが、グレート・ブリテン島と英仏海峡をはさんで真向かいにあるフランス、ノルマンディ地方の有力貴族である公爵家の当主だった。

さてここで、「フランス」と書いたが、少し説明を加えておきたい。 「フランス」という国名が、ゲルマン民族系「フランク人」の国を意味する「フランク王国」を起源とするのをご存知の方も多いことだろう。 987年にカペー朝が成立して初めて「フランス王国」と呼ばれるようになったとされるので、1066年当時、国ができてまだ100年も経っていなかったことになる。 ちなみに前身の「フランク王国」については、最盛期にはフランスのみならず、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、イタリア北部、ドイツ西部などを支配下に置き、ヨーロッパの有力国家として名を馳せていた。

一方、同じくゲルマン民族系アングロ・サクソン人の国で、「アングル人の地」=「イングランド」と呼ばれた地域も、まだ国になってから日が浅く、現在のイングランドとほぼ同じ大きさになったのはエドガー平和王(Edgar the Peaceful 在位942年頃~975年)の時代と言われている。 “ヘイスティングズの戦い”の前夜、イングランド王だった、エドワード懺悔王(Edward the Confessor 在位1042年~66年)は、このエドガー平和王の孫である。

信仰心が篤かったことから「懺悔王」の異名をとったエドワードは、ノルウェー王とデンマーク王を兼ねていたクヌートの妻、エマを母に持つ。 エマはノルマンディ公爵家出身、ギョームの祖父の妹にあたる女性だった。 このエドワード懺悔王に子供がなかったことが、ヘイスティングズの戦いを招くことになるのだが、ノルマンディ公爵家、デンマーク王家、そしてイングランド王家の家系図が複雑に入り乱れているのは下の図でお分かりいただけることだろう。

エドワード懺悔王の義理の弟、ハロルドと、同王の母方の親類であるギョーム(後のウィリアム1世)が、イングランド王の座をめぐり激突する。 英国版『関ヶ原の戦い』とも位置づけられる戦いが勃発するのは、エドワード懺悔王の死から約9ヵ月後にはっせいする・・・・・・・・・

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ギヨーム1世Guillaume Ier, 生年未詳 – 942年12月17日)は、ノルマンディー(在位:925年頃 – 942年)。 剣術に秀で、ノルマン人風の短剣ではなくフランク人風の長剣を好んだことから「長剣公」(Longue-Épée)と呼ばれる。初代ノルマンディー公に封じられたロロ(徒歩のロールヴ)の息子。

ギヨーム1世の生い立ちについてはほとんど知られていない。 ロロがノルマンディーに定住する前にヴァイキングの支配地域のどこかで生まれた。 母親についてはバイユー伯の娘でポッパという名前で、彼女がキリスト教徒であったという記録のみが残っている。 Planctusによれば、ギヨームはクリスティアンという洗礼名を与えられたという。

ギヨームは925年 – 928年頃に父から公位を嗣いだ。 その直後に彼があまりにフランク人化したと考えた家臣から反乱を起こされたらしいが、経過ははっきりしない。 939年からギヨーム1世はフランドル伯アルヌルフ1世と領土を巡って戦った。 この争いは西フランクルイ4世も巻き込んだ。

ルイ4世は、シャルル3世(単純王)とイングランド王エドワード(長兄王)の娘エドギヴァの息子である。 だが、942年、ギヨーム1世は交渉の席でアルヌルフ1世の部下によって暗殺された。 ノルマンデー公の爵位は息子のリシャール1世が継いだ。 そして、リシャール1世942/943-996 / リシャール2世996-1026 / リシャール3世1026-1027 / ロベール1世1027/1028-1035 と爵位(ノルマンディー家)は継承され、1035年にギヨーム2世(征服王)が当主に成った。

1066年にイングランドのヘイスティングスから若干内陸に入ったバトルの丘でノルマンディー公ギヨーム2世とイングランド王ハロルド2世との間で合戦が始まった。 ヘイスティングズの戦いである。

イングランドが1016年、デンマーク・ノールウェー王クヌートによって征服された事によって、クヌートの王国はノルウェーとスウェーデンの一部をも征服したため強大な帝国となった(北海帝国)。 彼の死後、イングランドではエドワード懺悔王が即位してデンマークから自立し、アングロ・サクソンの王統を回復した。 しかし、その王権は弱体で、国内には有力な封建諸侯が割拠していた。

エドワードは、最も有力な諸侯であったウェセックス伯爵ゴドウィンの娘エディスを王妃に迎えて彼の協力を得ていたが、実子がないまま没した。ゴドウィンの子でエディスの兄ハロルドが諸侯に擁立されて王位に就きハロルド2世となったが、これに対し即座に異議を唱えたのが弟トスティとエドワード懺悔王の従甥でフランス貴族のノルマンディーギヨーム2世であった。

ギヨーム2世はノルマンディー公国を強国に育て、フランス王フィリップ1世の摂政でウェセックスアルフレッド大王マーシアオファの子孫であるフランドル伯ボードゥアン5世の娘マティルダを妻にしてフランス内で不動の地位を確立していた。彼は懺悔王からイギリス王位の継承を約束されたと主張し、ローマ教皇アレクサンデル2世からイギリス支配のお墨付きをも取り付けて遠征の準備にかかった。

ギヨーム2世は8月初めに大艦隊を河口に集めて海峡横断の機を待ったが、逆風のため2ヶ月近くも出発できなかった。ギヨーム2世の侵入に備えて軍を待機させていたハロルド2世は、当初用意させた糧食が尽きたため9月初めに備えを解いた。直後、トスティと手を組んだノルウェーハーラル3世がイギリスの王位を狙って北から侵入した。ハロルド2世はノルウェー軍が上陸したヨークまでロンドンからわずか4日間で急行し、油断していたハーラル3世の陣営を急襲し(スタンフォード・ブリッジの戦い)、トスティとハーラル3世を討ち取りノルウェー軍を壊滅させた。

ハーラル3世らが敗死した頃、ギヨーム2世は船団の出港を命じ、約6000の兵力を持ってイングランド南部のヘイスティングズに上陸した。当時のヘイスティングズは岬の先端にあり、ロンドンまでは尾根筋の一本道を進撃する以外に無かった。一方、ハーラル3世を破ったハロルド2世は返す刀で7000の軍と共に南下し、ヘイスティングズのある岬の付け根にあるバトルの丘で陣立てを整えようとした。

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これを察知したギヨーム2世はイングランド軍の陣形が完成しないうちに合戦に持ち込む以外に勝機は無いと考え、バトルの丘に急行。丘の麓に布陣した。決戦は10月14日朝に始まった。ノルマン軍は短弓クロスボウを装備した弓兵に援護させながらの騎兵による突撃を繰り返したが、丘上に布陣したイングランド軍は長大な戦斧を装備した重装歩兵による密集陣形でこれに応じ、昼までに戦闘は膠着状態に陥った。

この後に何が起こったかについては諸説あり、ノルマン側の弓兵がハロルド軍の前衛の盾の列の後方に攻撃を集中した結果、イングランド軍の陣形が綻んだとの説や、ギヨーム2世が退却を装ってイングランド軍の前衛を突出させたところで反転攻撃に転じたとの説もある。いずれにせよノルマン軍はイングランド軍の陣形を崩すことに成功し、ハロルド2世は戦闘中に落命した。

※ ハロルド2世が討ち取られたとされている地点はイングランド軍側から見て右翼の丘の中腹にあるが、丘のこちら側は勾配が他の部分に較べて緩やかなことから、ノルマン軍がイングランド軍の右翼に攻撃を集中させた為、ハロルド2世も右翼に移動して前線で戦闘に参加して落命したとの見方もある。

※ バイユーのタペストリーではハロルド2世は矢で目を射抜かれたことになっているが、これについては「視力を失う」ことが別の何かの象徴なのではないかとの見方もあり、史実がこのようであったと断言出来るわけではないとされる。

この戦いの結果、ギヨーム2世はイングランド南部を平定、12月25日にウィリアム1世として即位し、ノルマン朝を開いた。ウィリアム1世は反抗したアングロ・サクソン系貴族の土地を没収して本土から付き従っていた功臣に与え、彼ら諸侯に忠誠を誓わせて強大な王権を樹立した。またロンドンを首都と定め、教会組織も整えて行った。こうしてイギリスには、中世では例外的に王権が強力な独自の封建制が成立することになった。その後、ノルマン人はアングロ・サクソン人に同化し、文化の融合も行われた。言語もアングロ・サクソンの言葉を中心に、ノルマン・フランスそれぞれの要素を融合させ、今日の英語になっていったのである。

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===== 続く =====

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