北海帝国の興亡 =03=

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前記・第一節にてヘイスティングズの戦いの概略を述べた。 天下分け目の戦いであり、バイキングの北海帝国の血筋がイングランドに進出、今日の英国王室を祖ウイリアム一世(ノルマンディ公ギョーム2世)のイングランドへの進攻ぶりを詳しく見てみよう。

1063年、エドワード懺悔王の義理の弟であるハロルドがノルマンディを訪れる。ハロルドは、ギョームを次期イングランド王として認めるという誓いを神の名にかけて行うとともに、ギョームの幼い娘と婚約するなど、ギョームに従う姿勢を全面に押し出した。 ところが、このハロルドがくせものだった。 1066年1月、懺悔王が逝去するやハロルド2世として即座に戴冠し、イングランド王の座についてしまった。 激怒したギョームは強く抗議するが、ハロルド2世は聞く耳をもたなかった。

デンマーク王国やノールウェーとも血の繋がるギョーム、妻はフランス王の娘マティルダ。 ヨーロッパ大陸で不動の地位を確立していた彼は、イングランドへの出兵を決意した。 船の建造を急ピッチで進めさせるかたわら、ハロルド2世は神聖なる誓いを破ったとして、教皇に訴え、ハロルド征伐は「聖戦」であるというお墨付きを得ることに成功する。 これにより、教皇の旗を掲げることが許されたギョームは、戦略家として、すでにハロルドより何枚も上手であることを証明して見せていたのである。

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天も味方したノルマン軍
まもなく、1016年の夏がきた。 ノルマンディにてノルマン人、ブルトン人、フラマン人の軍団7000人の出航の準備が整ったとの報を受けたハロルドは、ギョームの上陸ルートを想定し、イングランド軍を海岸線沿いに展開させた。 しかし、ノルマン軍の船影は一向に見えない。 ギヨーム2世は8月初めに大艦隊を河口に集めて、海峡横断の機会を待っていた。 しかし、逆風のため2ヶ月近くも出発出来なかった。 ギヨーム2世の侵入に備えて軍を待機させていたハロルド2世は、当初用意させた糧食が尽きたため9月初めに備えを解いた。

直後、トスティと手を組んだノルウェー王ハラール3世がイギリスの王位を狙って北から侵入した。 ヴァイキングの大軍がヨークに迫りつつあると言うニュースがハロルド2世に届けられた。 イングランド軍を引き連れ、急遽 北上したハロルド2世は、ノルウェー軍が上陸したヨークまで ロンドンからわずか4日間で急行する。 3月25日、油断していたノルウェー王ハラール3世の陣営を急襲し(スタンフォード・ブリッジの戦い)、ノルウェー軍と対決。 激戦の末、トスティとハラール3世を討ち取り、ノルウェー軍を壊滅させた。

その2日後、ギョームはようやく重い腰をあげる。 いや、ギョームは好きこのんで、ノルマンディで待機していたのではなかった。 風が吹かなかったのだ。 2千の騎兵、歩兵を含む5千の人員、2千頭の軍馬を700隻の船でイングランドまで運ぼうとしたものの、動力の風がなくてはお話にならない。 ギョームは辛抱強く待った。 その甲斐あってか、9月27日、風向きが変わった。 夜の闇にまぎれて出航し、翌日朝にノルマン軍はヘイスティングズ近郊のペヴェンシーの海岸に到達。 上陸とともに大規模な戦闘になると覚悟していたギョームは、肩透かしをくらう。

当時のヘイスティングズは岬の先端にあり、ロンドンまでは尾根筋の一本道を進撃する以外に無かった。 一方、ハーラル3世を破ったハロルド2世は返す刀で7000の軍と共に南下し、ヘイスティングズのある岬の付け根にあるバトルの丘で陣立てを整えようとした。 ハロルド2世軍が、はるか北のヨーク近郊まで出払ってしまっているとは、ギョームにとって信じられないほどのうれしい誤算だった。 ギョームはこの幸運を最大限にいかすため、躊躇することなく、全軍をロンドンに向けて出発させた。

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 ギョーム上陸の報に驚いたハロルドは、いまだ疲労困ぱい状態の自軍をむちうち、400キロの強行軍を開始する。 一刻も早く南下せねばならない―1日40キロという過酷な前進だった。 やがて、イングランド軍とノルマン軍は、ヘイスティングズの北、約11キロにある、なだらかな丘陵地にそれぞれの布陣を敷いた。 後に「バトル」と名づけられるその地を覆う夏草は、ところどころ褐色となり、秋の深まりを感じさせるようになっていた。 時に1066年10月14日。 迎え撃つハロルド2世45歳、攻め込むギョーム2世38歳(ともに推定)。まさに天下分け目の戦いが始まったのである。

ノルマン軍は短弓クロスボウを装備した弓兵に援護させながらの騎兵による突撃を繰り返したが、丘上に布陣したイングランド軍は長大な戦斧を装備した重装歩兵による密集陣形でこれに応じ、昼までに戦闘は膠着状態に陥った。 この後に何が起こったかについては諸説あり、ノルマン側の弓兵がハロルド軍の前衛の盾の列の後方に攻撃を集中した結果、イングランド軍の陣形が綻んだとの説や、ギヨーム2世が退却を装ってイングランド軍の前衛を突出させたところで反転攻撃に転じたとの説もある。 いずれにせよノルマン軍はイングランド軍の陣形を崩すことに成功し、ハロルド2世は戦闘中に落命した。 ハロルド2世が討ち取られたとされている地点はイングランド軍側から見て右翼の丘の中腹にあるが、丘のこちら側は勾配が他の部分に較べて緩やかなことから、ノルマン軍がイングランド軍の右翼に攻撃を集中させた為、ハロルド2世も右翼に移動して前線で戦闘に参加して落命したとの見方もある。

ハロルドが敗れ、ギョームが勝利を収めた。 1066年12月25日、ウェストミンスター寺院でウィリアム1世としてイングランド王に即位したギョームは、ノルマン朝を開いた。 ウィリアム1世は、イングランド内の抵抗勢力と戦うかたわら、城や要塞を各地に次々と建造。 反抗したアングロ・サクソン系貴族の土地を没収して本土から付き従っていた功臣に与え、彼ら諸侯に忠誠を誓わせて強大な王権を樹立した。 またロンドンを首都と定め、教会組織も整えた。

1070年代前半には、イングランドをほぼ平定したウィリアム1世は、中世では例外的に王権が強力な独自の封建制を成立することになった。 その後、ノルマン人はアングロ・サクソン人に同化し、文化の融合も行われた。 言語もアングロ・サクソンの言葉を中心に、ノルマン・フランスそれぞれの要素を融合させ、今日の英語になっていったのである。 1086年には、全国規模の土地台帳「ドゥームズデイ・ブック」を完成させるなど、ウィリアム1世が英国史に残した足跡は、実に大きい。 最期は、長男ロベールを相手に戦う羽目になり、戦場で負った傷がもとで5週間苦しんだ末に息を引き取るという、幸せなものではなかったものの、ウィリアム1世の約60年にわたる生涯の充実度は、英国の歴代君主の中でも群を抜いていると言っても過言ではないだろう。

毎年、バトルで“ヘイスティングズの戦い”を再現する行事が予定されている。 バトルを吹き抜ける秋の風は、950年前と変わらぬ調子で、枯れかけた夏草の上を渡っていく。  「兵どもが夢の跡」は・・・・・・・・

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=参考資料、ウイキペヂアより=

ハロルド2世(Harold II,)は、最後のアングロ・サクソンイングランド王(在位:1066年)。ハロルド・ゴドウィンソン(Harold Godwinson)とも称した。ウェセックス伯ゴドウィンの次男でトスティ・ゴドウィンソンエドワード懺悔王の妃エディスの兄。妻はマーシア伯アルフガーの娘エディスで、プリンス・オブ・ウェールズのグリフィズ・アプ・ルウェリンの未亡人であった。

1066年、義弟のエドワード懺悔王の死によって自らイングランド王に即位した。1066年1月5日に亡くなったエドワード懺悔王は臨終の床でハロルドを後継者に指名し、翌日貴族達はウェストミンスター寺院に集結してハロルドを王として承認した。ノルマン人側の史料は事の進展が急すぎるとし、ハロルドの作為を指摘しているが、1月6日公現祭の日であり、元々貴族達が儀式に集うことが予定されていた可能性が高い。

これに対してイングランド王の地位を狙う弟トスティはノルウェーハーラル3世の後見を得て東部から、イングランド王の地位を狙うノルマンディー公ギヨーム2世は南側からイングランドに侵入した。ギヨーム2世はかつて懺悔王とハロルドの両方からイングランド王位の継承の約束を得ていると主張した。ハロルドは1064年1065年とも)に難船してノルマンディーのポンテューen)に漂着し、その時に救助の礼として自身の継承権をギヨーム2世に譲る約束をしていたというのである。

9月、トスティとハーラル3世がヨークシャーを制圧し、9月20日に地元貴族の連合軍をヨーク近郊で破った(フルフォードの戦いen])。これに対してハロルド2世は5日後の25日にトスティとハーラル3世をスタンフォード・ブリッジの戦いで撃破した。

3日後の28日にギヨーム2世が386キロメートル離れたウェセックスに7000人ほどを率いて上陸すると、ハロルド2世は反転して南に急行。両軍は10月14日、現在「バトル」と呼ばれているヘースティングスの近くで対峙した(ヘイスティングズの戦い)。ハロルド2世はギヨーム2世のノルマン軍を際どい所まで追い込みながらも2人の兄弟と共に戦死した。伝承によれば、ハロルド2世の最期は敵ので眼を射抜かれての死であったという。

ハロルド2世の死後、サクソン貴族はエドワード懺悔王の又甥エドガー・アシリングを擁立して反乱を継続したが、ギヨーム2世に平定された。ギヨーム2世は12月25日にウェストミンスター寺院で戴冠、イングランド王ウィリアム1世となりノルマン朝を開いた。

ハロルド2世の遺体は一旦サクソンの石の墓に埋葬されたが、後に生前自らが再興していたウォルタム・アビーに改めて葬られた。終焉の地「バトル」にはが設けられ、傍らにはバトル・アビー遺跡が残る。

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===== 続く =====

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