北海帝国の興亡 =04=

2015.04.12_1

ヘイスティングズの戦い”に勝利し、ドーバー、カンタベリーを落とし、ロンドンを降伏させた1066年の12月25日、ノルマンディー公ギヨーム2世はウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として戴冠した。 その結果 ウィリアム1世はフランス王臣下にしてイングランド王の地位を得た。 だがしかし、エドワード懺悔王の又甥で後継者に指名されていたエドガー・アシリングを擁立したスコットランドマルカム3世(エドガーの姉マーガレットと再婚していた)とデンマークスヴェン2世は1068年に北部貴族の反乱を支援してイングランドに侵攻した。 しかしながら、 三年後にはウィリアム1世に阻止される。 征服として彼はマルカム3世を臣従させてエドガーと和解、イングランド支配を安定させた。

征服王ウィリアム1世は旧支配勢力のアングロサクソン貴族を駆逐して土地を奪うとノルマン人の家臣に与え、同時に戦時への参戦を約束させ、イングランドに封建制度を確立した。 王領もイングランド全域の5分の1に達し、御料林の拡大と直轄軍所有で王権も拡大した。 1070年にランフランクをカンタベリー大司教に任命、1072年にランフランクがヨーク大司教を従属させようとして生じた争いに干渉し、カンタベリー側に肩入れしてこれを第1位の大司教と定め、イングランド宗教界を傘下におさめることにも成功した。 ローマ教皇グレゴリウス7世は世俗君主による聖職者の任免を問題としていたが、ウィリアム1世はイングランド国内の聖職者に対する国王の優越を主張、後にイングランドにも叙任権闘争が生じるきっかけとなった。
エドワード懺悔王の財務・文書制度は継承したが、国王裁判所の設置などで司法制度も整え、1085年には最初の土地台帳とも言うべきドゥームズデイ・ブック(Domesday Book)が作成され税制度も定められ、同時に軍事力も把握している。 1086年にソールズベリーでイングランド全ての領主を集め、自分への忠誠を誓わせた。 =ソールズベリーの宣誓と言われ、この宣誓は以後のイングランド王も繰り返し行い、貴族の家臣である陪臣も国王と直接忠誠を誓う義務を負う制度となる=

2015.04.12_2

ウィリアム1世は、1087年 フランス遠征中に落馬して受けた傷が原因で、ルーアンに近いサン・ジャーヴェにて60歳で亡くなった。 死因はマンテの攻城戦の折、落馬した時に鞍頭で受けた胴部の傷が原因だった。 遺体はノルマンディーのカーンにあるセントピーターズ教会で埋葬された。 次男ウィリアムはウィリアム2世としてイングランド王に即位し、長男ロベールがノルマンディー公に叙位された。 後にロベール2世はフランス王フィリップ1世と結んで2度に渡ってウィリアム2世と対峙する事に成る。 だが、ウィリアム1世のイングランド征服の後、イングランドが外国軍によって征服されることはなく、後の王家は全てウィリアム1世の血統を受け継ぎ今日に至る。

当然、ウィリアム1世の宮廷ではノルマンなまりのフランス語が使用されたが、時代と共に現地の言葉と融合し現代に至る英語が形成されていった。 従って、現代に至る英国王室ほど複雑怪奇な血の絡み合が熟成し、安定化がなされた皇室はない。 元来、各時代の英国領主は他民族が侵略を繰り返して安定化を図った“征服王朝”である。 従って スコットランド、アイルランド、ウェールズ等々は各征服王朝の軌跡を引き摺り、怨念が内在している。 歴史的に、起きた内戦・革命運動である、「大反乱」もしくは「三王国戦争」が未消化のまま、 現代において 各地域での分離・独立運動が燻り続ける由縁である。

さて、 409年にローマ帝国ブリタンニアを放棄した後、現在のデンマーク、北部ドイツ周辺にいたゲルマン人が、グレートブリテン島に渡ってきた。 彼らは先住のケルト系ブリトン人を支配し、ケルト文化を駆逐した。 これが英国における最初のアングロ・サクソン人であり、彼らの言葉が英語の基礎となった。 彼らはイングランドの各地に小王国を築いていった。 7世紀頃には、イングランドは7つの王国(七王国)にまとまっていったが9世紀初めには、ウェセックスエグバートのもとで、サクソン人のウェセックス王国が強大となって、イングランド全域を支配した。 それ以降、一時期はデーン人に支配され、デンマーク王の下にあった。

ノルマン人Normanean)は、スカンディナヴィアおよびバルト海沿岸に原住した北方系ゲルマン人。 初期の時点では、「ヴァイキング」という概念とほぼ同じなのだが、ヴァイキングが終了した後、彼らは、北欧において独自の国家を建設し、中世以降、デーン人スヴェーア人ノース人アイスランド人へと分離し、ノルマン人としての概念は薄れていった。 しかし彼らの「古ノルド語」は、16世紀頃まで使用されていた。

北欧のバルト海北海に挟まれたユトランド半島と、その周辺の多くの島々ヴァイキングとして知られるノルマン人8世紀から11世紀にかけて住んでいた。 彼等は複雑な社会構造を持ち、他のヨーロッパ諸国を侵略、また貿易を行っていた。 この時期、デンマークは半島を基盤にして、シェラン島スウェーデン南部に影響力を持っていた。 11世紀初頭の30年間にはカヌート大王がデンマーク王位とノルウェー王位を手中に収め、イングランドをも支配する広大な北海帝国を築き上げたのである(1028年)。 因みに、デンマーク王室の歴史は深く、わが国の皇室に次いで世界で2番目に古い王室ともいわれている。 しかしながら、1035年、41歳でカヌート大王が死去した。 彼の死後、後継者争いが起こって、北海帝国はクヌートの死後わずか7年で崩壊してしまう。

2015.04.12_3

ノルマン人の一部族の首領であったロロは、911年、西フランク王国(現在のフランスに相当)の北西部沿岸からセーヌ川を遡って内陸へ侵入した。 シャルトルの町を包囲していたノルマン人は、西フランクシャルル3世の軍に破られる。 長年、ヴァイキングの侵入に悩まされてきたシャルル3世は、ノルマン人に土地を与えてヴァイキングの侵入を防がせることに決め、ロロと条約を結んだ(サン・クレール・シュール・エプト条約)。 その結果、ロロは、臣下として王に忠誠を誓い、また、キリスト教に改宗した。 一方、王は、北西の沿岸部の土地をロロに与え、公爵として封じた。

間もなくその一帯はノルマンディーと呼ばれるようになり、ノルマンディー公国が誕生した。 その後、上記のごとく、 1066年、7代目のギヨーム2世のとき、イングランドの王位継承を主張してイングランド王国へ侵攻し、ハロルド王(北海帝国カヌート大王の孫)を破ってイングランド王に即位する(ノルマン・コンクエストノルマン朝成立)。 これ以降、ノルマンディー公は、フランスに臣従する一方で、イングランドでは王として君臨した。 このイングランドとフランスの複雑な関係は、後の百年戦争の遠因となるのだが、イングランド王であり、フランス王の臣下であるノルマンディ-公ウイリアム1世(ギヨーム2世)は、父ノルマンディ-公ロベール一世の庶子であった。 母親は北西フランスの皮なめし職人の娘アルレット。 彼がエルサレムに巡礼からの帰路途上で父が没し、他に後継者が無く 死の直前に後継者に指名された強運児だった。

2015.04.12_5

 資料; ヴァイキングはノルマン人とも言われるが、ノルマン人が居住したことからノルマンディーという地名が生まれた。 後世の歴史学的用語としてはともかく、当代においてはノルマンディー公国以降のヴァイキングがノルマン人と呼ばれる。 アングロ・サクソンの史料においては、デンマークから来たヴァイキングはデーン人(Daner, Dane) と呼ばれ[6]、ヴァイキングの代名詞となった。 また、ノルウェーのヴァイキングは、ノース人 (Norsemen, Norse) と呼ばれる。この2国は主に西方に広がる北海方面へと進出した。

ノルマンディー公国成立後も、デーン人の進出は続いた。 11世紀のデンマーク王族カヌートは父がヴァイキングを先祖とするデーン人で母が西スラヴポーランド人の王族であるがイングランドとデンマークを結ぶ北海帝国の主となり、カヌート大王(在位1016年 – 1035年)と呼ばれる。 しかしその後、1035年にカヌートが死去するとすぐにこの帝国にはほころびが生じ、1042年にはエドワード懺悔王がイングランド王位に就く。しかし彼の死後、ノルマンディー公ギョーム1066年にアングロサクソン・イングランドを征服(ノルマン・コンクエスト)し、ノルマン王朝を築いた。

一方、地中海中央部のイタリア半島南部においては、999年ごろより聖地巡礼の帰路に立ち寄ったノルマン人たちが傭兵としてとどまり、ビザンツ帝国領や諸侯領のいりまじっていた南イタリアで徐々に勢力を拡大していく。 こうしたなか、ノルマンディーの騎士ロベール・ギスカール1059年プッリャ公となり、やがて南イタリアを統一し、1071年には東ローマ帝国の拠点だったバーリを攻略=ノルマン・東ローマ戦争=、さらに1076年までに、当時イスラム勢力の支配下にあったシチリアを占領し、ノルマン朝オートヴィル朝)を開いた。1130年にはルッジェーロ2世が王位につき、シチリア王国が成立した=ノルマン人による南イタリア征服=。 イタリアに渡ったノルマン人のうち、ターラント公ボエモンは、第一次十字軍に参加し、1098年アンティオキア公国を建国した。

ノース人はまた、独自に北方へと進出していた。 8世紀にはオークニー諸島シェトランド諸島、9世紀にはフェロー諸島ヘブリディーズ諸島、東アイルランドに進出した。ノース人のヨーロッパ航路は、オークニー諸島・シェトランド諸島からアイルランド海峡を経て南下するものが主だった。 9世紀半ばごろには、拠点としてアイルランド東岸にダブリンが建設された。 フローキ・ビリガルズソンらの航海によってアイスランドの存在が知られると、874年には、インゴールヴル・アルナルソンアイスランドへと入植し、レイキャヴィークに農場を開いた。彼はアイスランド最初の植民者であるとされる。 これ以降、ノルウェーからの移住者が続々とアイスランドにやってきて入植していった。

2015.04.12_4

※ 下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます ⇒ ウィキペディア=に移行
===== 続く =====

                         *当該地図・地形図を参照下さい


 

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;歴史小説】 http://ameblo.jp/thunokou/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中