北海帝国の興亡 =06=

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統一を遅らせた権力闘争

バノックバーンが戦場となる8年前に即位し、ロバート1世(Robert I在位1306年~29年)を名乗ることになったロバート・ザ・ブルースは、 1274年7月11日に誕生、スコットランド西部エアシャーのターンベリー城で育った。 父親は後に第6代アナンデール卿となるロバート・ドゥ・ブルース(Robert de Brus)。 この苗字から推測できるかもしれないが、ブルース家はもともと、ノルマンディ公ウィリアムによるイングランド征服が行われた際、フランスのノルマンディ地方からともに英本土へと渡ってきた貴族のひとつ。 このブルース一族をはじめ、11世紀以降、スコットランドに領地を与えられた貴族たちは、スコットランド王の座をめぐり激しい争いを繰り広げることになる。 この権力闘争があまりに熾烈だったため、スコットランドとして一丸になるのが難しく、イングランドにつけいる隙を多分に与えたのだった。

ロバート・ザ・ブルースの母は、キャリック伯の領地と称号を相続していた女性当主、マージョリー。 ロバートの父親に自分から求婚、それが受け入れられるまでロバートの父親を閉じ込めたという逸話が残されているほど、気の強い女性だった。 また、ロバートの祖父も、政治的野心の旺盛な人物だったと伝えられており、ロバート・ザ・ブルースがやがて幾多のライバルを退けてスコットランド王となり、イングランドを撃破するようになったのは父方の遺伝子に、母方の強い性格が加わったおかげなのかもしれない。

長男として産声をあげたロバートが、祖父、父からスコットランド王即位への夢を託され、リーダーとなるための教育を施されたであろうことは想像に難くない。 1292年、母親の逝去にともない、ロバートは18歳でキャリック伯爵家を継ぎ、第2代キャリック伯となる。 これにさきだち、スコットランドは混乱という名の黒い大波にのみこまれていた。

『聖人』の異名をとったデヴィッド1世(在位1124~53年)の流れをくむ、アサル王家が1129年に断絶したことが発端だったが、この断絶騒ぎも不運の連続の末に訪れた結果だったのだ。 アサル王家の最後の王となった、アレグザンダー3世(在位1249~86年)は、嵐の中 若き2番目の妻、ヨランドのもとへと旅路を急いだばかりに馬から振り落とされ、落命。 かれは、臨終に際し 子供はすべて他界していたため、唯一の直系であった孫娘、ノルウェー王女マルグレーテに王位を譲ると遺言した。

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・・・・・資料・・・・・・ アサル朝 ; ダンカン1世の子、アサル家のマルカム・カンモーは、1057年のランファナンの戦いで戦死した。 その結果、王位がケネス3世の曾孫ルーラッハに移ると、マルカムはその4ヶ月後ストラスボギーでルーラッハを討ち取り、マルカム3世として即位した。 これ以降、1290年までアサル王家がスコットランドを支配することとなった。 マルカム3世は、サクソン王の血を引く王妃マーガレットとともにフューダリズム(西欧封建主義)を推し進めた。 また、宮廷の習慣をサクソン方式に改め、教会の行事や典礼を伝統的なケルト式からローマ式に改革した。 イングランドへはたびたび侵攻したが、1071年にウィリアム1世に攻め込まれて、イングランドへの臣従を誓い、長男ダンカン(後のダンカン2世)を人質に取られ その後もイングランドへの侵攻を繰り返したが、1093年、5度目のイングランド侵攻において戦死した。

マルカム3世の弟であるドナルド・ベインはイングランド嫌いで知られ、中・南部を中心としたマルカム3世の政治に不満を持っていた北・西部の豪族たちに支持されて、マルカム3世の長男ダンカンを差し置いてドナルド3世として王位についた。 ドナルド3世は王位につくや、宮廷の様式・習慣をケルト式に戻したが、翌1094年、イングランドに人質となっていたダンカンはイングランド王ウィリアム2世の援助を受け、王位奪還に立ち上がった。 ドナルド3世は敗れてわずか7ヶ月で王位を奪われ、ダンカンはダンカン2世として即位した。 しかし、半年後、ドナルド・ベインは支持者やダンカン2世の異母弟エドマンドたちと謀ってダンカン2世を殺害し、王位に復帰してエドマンドと共同統治を行った。 それに対して、ダンカン2世の異母弟エドガーは1097年にイングランド王ウィリアム2世の援助を受け、ドナルド3世廃位の軍を起こし、ドナルド3世を捕らえて自ら王位についた。

エドガーは、イングランドに対して従順な姿勢をとる一方で、1098年にはノルウェーマグヌス3世に屈服して、キンタイアヘブリディーズ諸島といった西部領域をノルウェー領として認めた。 こうした弱腰の外交のため、エドガーは「平和愛好者」と呼ばれた。 また、彼はエディンバラ城をスコットランド王の王宮として使用した最初の王として知られる。 エドガーは生涯を独身で通し、後継者として次弟アレグザンダー1世を王位につかせた。 アレグザンダーは兄エドガーの遺言通り、スコットランドの中部と北部のみを直接統治し、弟デイヴィッドには南部を統治させ、その他の地域は領主に任せきりであった。

しかし、1115年頃に起きた北部のマリや西部のマーンズでの反乱には徹底的な討伐を行い、その過酷さから獰猛王(Fierce)と呼ばれることになった。 アレグザンダー1世はイングランド王ヘンリー1世の庶子シビラを王妃とし、イングランドとの関係を深めていった。 アレグザンダーの妹マティルダはすでにヘンリー1世に嫁いでおり、アレグザンダーはヘンリーの義兄であるとともに義理の子という関係にあった。 1124年にアレグザンダー1世は世継ぎを残さずに死去したため、デイヴィッド1世が王位を嗣いだ。  デイヴィッドは兄たちと同様イングランドで育ち、ノルマン風の教育を受け、ノルマン青年たちと親しく交わった。  こうして、デイヴィッドは司法・行政などをノルマン流に改革し、王権の強化に努めた。 イングランドでスティーブンと姪マティルダの間に王位争い(無政府時代)が起こると、それに介入した。

1136年、デイヴィッドはマティルダ支持を宣言してイングランド領に攻め込み、カーライルニューカッスルを占領、一時占領地を奪還されるが、1140年に結ばれたスティーブンとマティルダの和議の結果、ノーサンバーランドカンバーランドなどの支配権を獲得した。 このときにイングランドより得たカーライルの貨幣鋳造所により、スコットランドで初めてコインを鋳造、コインが流通し 経済が発展した。 デイヴィッド1世の統治した時代、スコットランドは国家と呼ぶにふさわしい国に仕立て上げられ、デイヴィッド1世は最初の偉大な王と呼ばれることになった。

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 1153年、マルカム4が即位した。 イングランド王ヘンリー2世に屈して、1157年に北部イングランドの領有権を放棄した。 その跡を継いだウィリアム1世は、マルカム4世が奪われた北部イングランドの奪還を当面の目標とし、フランス王ルイ7世と秘密同盟(いわゆる「古い同盟」(Auld Alliance))を結んで、イングランドと対抗した。 イングランドでヘンリー2世と三男リチャード(後のリチャード1世)、その弟ジョン(後のジョン王)の親子・兄弟の内紛が起こると、リチャードやジョンと同盟を結び、1174年にノーサンバーランドへ攻め込んだ。 しかし、ウィリアム1世はヘンリー2世軍に敗れ、捕らえられ、スコットランドはイングランドに完全に臣従すること、スコットランド南部の城にはイングランド軍が進駐することなど、屈辱的な講和(ファレーズ協定)を結ばされた。 だが、1189年にイングランド王となったリチャード1世は、十字軍に熱意を燃やし、その資金源としてスコットランドとの臣従関係を金銭で清算することを狙った。 ウィリアム1世は1万マークを支払い、イングランドとの臣従関係の解除、スコットランド王としての主権回復、イングランド軍のスコットランドからの撤退を内容とするという協定(カンタベリー協定)が結ばれた。 ウィリアム1世は49年間在位し、スコットランド国王として初めて紋章にライオンを用いたため、獅子王(William the Lion)と呼ばれる。

1214年、アレグザンダー2が跡を継ぎ、1219年、イングランドと友好関係を復活させた。 1236年にヨーク条約でイングランドとの国境線を確定した。 父アレグザンダー2世が果たせなかったヘブリディーズ諸島ノルウェーからの奪還に成功(1261年)し、翌年には西部のクライド湾でノルウェー王ホーコン4世を討ち破った。 3年後には、ヘブリディーズ諸島は正式にスコットランド領となった。 アレグザンダー3世の時代、イングランドとの関係は良好で、国内は安定し、「黄金時代」と呼ばれるほど国民生活が向上した。 アレグザンダー3世が嗣子のないまま亡くなり、長老・重臣たちはアレグザンダー3世の血を引くノルウェー王女マルグレーテ(マーガレット)を後継者に選出した。 こうして、わずか3歳のスコットランド初の女王が誕生したが、マーガレットはノルウェーの王宮にとどまったままだった。 隣国イングランドのエドワード1世はスコットランド王位の継承権を狙って、4歳の王太子エドワード(後のエドワード2世)とマーガレットの結婚を迫った。

スコットランドの長老・重臣たちにはこの要求を拒否できず、1290年に2人の結婚に同意することをエドワード1世に通知した。 スコットランド南部で結婚条件が取り決められたが、国境地帯にイングランド軍を配置するばかりか、スコットランドの王位継承権をイングランド側に移すという屈辱的な内容であった。 結婚のためにスコットランドに渡ることになったマーガレットを乗せた船が、ノルウェーのベルゲンからスコットランドを目指した。 荒海の中、9月26日にオークニー諸島に船が着いた。 しかし、マーガレットは極度の船酔いによりわずか7歳で死去した。 マーガレットの死によってスコットランドのアサル王家は断絶し、13人の王位請求者が乱立する事態となった。=

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 わずか3歳で、スコットランド初の女王、マーガレットとして即位したまでは良かったが、1289年、ノルウェーからスコットランドへと向かって出帆した船は大しけにあい、オークニー島にたどりついたところでマーガレットはこときれてしまう。 7年という短い生涯であった。

この不運続きのアサル王家の跡を継ぐのは誰か。 名乗りをあげたのは13名もの『近親者』たちだった。 このうちのひとりが、ロバート・ザ・ブルースの祖父、ロバート・ブルース=「ザ」がない点に注意=。 最大のライバルは、血筋の上ではより『正統』とされるジョン・ベイリオル(John Bailliol)だったが、ここでスコットランド側は取り返しのつかぬ過ちをおかしてしまう。

内戦勃発を恐れるあまり、あろうことか、宿敵イングランドのエドワード1世に『審判』役を依頼したのである。 飛んで火に入る…とはまさにこのこと。 大軍を率いて北上したエドワード1世の前に、統率がとれず、対立したままのスコットランド貴族たちはいいなりになるしかなかった。結果的に、ベイリオルが即位するが(在位1292~96年)、エドワード1世の傀儡でしかなかった。

ベイリオルは、当初こそ、エドワード1世の要求を受け入れていたものの、1294年、他のスコットランド貴族たちがエドワード1世に反旗を翻してフランスと同盟を結んだこともあり、みずからも1296年、挙兵した。 しかしながら、エドワード1世軍に大敗。 スコットランド王が代々、戴冠する際の『座』として使われてきた、スクーン宮殿の「運命の石(the Stone of Destiny)」を奪われてしまったのである。 この年の8月、ロバート親子はベリック・アポン・ツイードでエドワード1世に対して臣従の誓いをしたものの、カーライルで更新する際にこの宣誓は破棄され、翌年にロバートはエドワード1世に対するスコットランドの反乱を支援している。

「運命の石」までも失い、王位を捨てることになったベイリオルは、イングランド軍に捕らえられ、長男エドワードとともにロンドンに移送され、3年間、ロンドン塔に幽閉された。 だが、ここで処刑はされず1299年、釈放され、フランス北部のピカルディにあったみずからの所領に追われた。 事実上の隠遁生活を15年間送ったあと、1314年に逝去する。 処刑されずに生きながらえた人生が幸せだったかどうかは分からないが、ベイリオルに、王の器は備わっていなかったことだけは確かなようだ。

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===== 続く =====

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