北海帝国の興亡 =07=

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 スクーンの石Stone of Scone)は、代々のスコットランド王が、この石の上で戴冠式を挙げたとされる石。 運命の石Stone of Destiny)と呼ばれることも多い。 聖地パレスチナにあって聖ヤコブが頭に乗せたという伝承がある。重量は、およそ230kgある。

運命の石は、500年ごろ、スコット人ファーガス・モー・マク・エルクによってアイルランドから持ち込まれた。 ファーガスはキンタイア半島付近に上陸し、ダルリアダ王国を建国、ファーガス1世となった。 以来この石は、スコットランド王家の守護石とされた。846年にケネス1世オールバ王国の王を兼ねるようになると、運命の石もダルリアダ王国の首都ダンスタフニッジより新首都スクーン(現在のパース近郊)のスクーン宮殿に移された。これ以降、スクーンの石と呼ばれるようになる。

スクーンの石は、1296年にエドワード1によってイングランドに戦利品として奪い去られた。その後この石は木製の椅子にはめ込まれ、ウェストミンスター寺院に置かれることになった。その後、このエドワード王の椅子は戴冠式に用いられるようになり、代々のイングランド王は、スコットランド王の象徴であるこの石を尻に敷いて即位することになる。 スクーンの石がイングランドに奪われたことは、スコットランドの人々にとってはイングランドへの敵対意識を高めることになり、1950年にはスコットランド民族主義者による盗難事件が発生している(1950年のスクーンの石の除去)。最終的に石は発見され回収されたが、犯人グループによる運搬中に、2つに割れてしまっていた。1996年、トニー・ブレア政権によりスクーンの石は700年ぶりにスコットランドに返還され、現在は、エディンバラ城に保管されている。

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見得のために裏切られた英雄

スコットランドを完全に支配下に置こうと画策するエドワード1世に一矢を報いたのは、王権争いには直接には関係のない2人の騎士だった。  一人はウィリアム・ウォレス(William Wallace 1270頃~1305年)、もう一人はアンドリュー・モーレイ(Andrew Moray ?~1297年 )。  2人は、1297年9月11日、スコットランドのスターリング郊外でスコットランド軍とイングランド軍が激突した「スターリング・ブリッジの戦い(Battle of Stirling Bridge)」において、スコットランド軍を勝利に導いたのである。
ウィリアム・ウォレスは、1297年5月にイングランドに対して反乱を起こしてから何度かの小競り合いに勝利し、これに呼応して各地で反乱が広がっていたが、そのリーダーの1人が豊かな領土を有するサー・アンドリュー・マリーだった。 総督ワーレンは、既に老齢でスコットランドの気候を嫌ってほとんどイングランドに滞在しており、これらの反乱の知らせを受けても、当初は軽視して対応が遅れたが、9月にイングランド軍を引き連れスコットランド中部に入った。 これに対し、ウィリアム・ウォレスとアンドリュー・マリーの部隊は連合してスターリングの橋をはさんでイングランド軍と対峙した。 重装備のイングランド軍は、湿地帯で足を取られて機動力を減じられ、スコットランド軍に屈した。

この時、エドワード1世はフランスに遠征中であった。 「スターリング・ブリッジの戦い」での勝利は、イングランド軍をスコットランドから駆逐するほどの大勝利ではなかったものの、何世紀にもわたってイングランド軍との戦いで勝利をおさめたことのなかったスコットランド軍が、数や装備で圧倒的に優位にたっていたイングランド軍を破った画期的なもので、スコットランド人に誇りと自信を呼び戻したのだった。 この勝利によりウィリアム・ウォレスの名声は高まり、まもなくナイトに叙任され、「スコットランド王国の守護者及び王国軍指揮官」に任じられる。 アンドリュー・モーレイは、この戦いの負傷により数週間後に死亡している。 この戦い以降、イングランドに味方していたスコットランド貴族の多くが反乱側につき、イングランドは支配地の多くを失った。 エドワード1はフランスとのフランドルの戦いを中止して対応しなければならなくなり、フォールカークの戦いにつながっていく。

= エドワード1世Edward I)は、1294年ガスコーニュ地方をめぐってフランスとの戦争を開始すると、以後10年間にわたってフランスやその同盟国であったスコットランドとの抗争に明け暮れた。 翌1295年、対フランス戦費調達に召集した議会は、聖職者・貴族・州および都市の代表が実状にあって構成されていたためモデル議会(Model Parliament)と呼ばれる。 1296年、ジョン・ベイリャルがフランスと同盟して反旗を翻すと、ジョン・ベイリャルを逮捕。スコットランドには総督を置き、スコットランドを統治下においた。

翌年にウィリアム・ウォレスを指導者とする反乱が起きた。 1298年にエドワードはフォルカークの戦いでこれを破ったが、その後もウォレスはゲリラ戦により抵抗した。1301年に長男エドワード(エドワード2世)をプリンス・オブ・ウェールズと称させた。1303年フランスと講和するとスコットランドに再度遠征し、1305年、ウォレスを捕らえて処刑することに成功したが、最終的に反イングランド派に推されたロバート・ド・ブルースがスコットランド王に即位した。1307年に3度目のスコットランド遠征の途上で病死した。

因みに、エドワード1世は隣国との争いに明け暮れる生涯を送ったが、結婚生活は平和だった。意思の強固な野心家であり、武勇に優れ、政策に妙をきわめ、計略と搾取が巧みであった。賢王と賛えられ、イングランド史上屈指の名君とされている。またトランプのキングのモデルとも言われている。 スコットランド側から描いた映画『ブレイブハート』には、残虐非道な王として登場する。=

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 ここで、天はウォレスに味方しなかった。 スコットランド史上、同じ「英雄」と称されるロバート・ザ・ブルースとウォレスながら、決定的な違いがあったとすればこの点ではなかろうか。 ここ一番という時に、天が味方するかどうか―。 ロバート・ザ・ブルースに限らず言えることだが、人の上に立つには、『運』が必要である。 ウォレスにはこの『運』が足りなかったようだ。 ウォレスの身分が低いとして、スコットランド貴族がウォレスに非協力的だったのである。

この戦いの経緯を見てみよう。 1297年9月11日のスターリン・ブリッジの戦いの敗北により、スコットランドを失いつつあったため、エドワード1世はフランドルにおけるフランス王フィリップ4世との戦いを中止して、1298年4月にイングランドに戻りヨークに本営を構えた。 ここで、イングランドのみならずスコットランド貴族にも招集をかけ、大軍を率いてスコットランドに侵攻したが、スコットランド側は戦いを避け、焦土戦術を取ったため、イングランド軍はスコットランド中部に侵攻した時点で食糧不足に悩まされた。 ウェールズ兵の中に叛乱を起こしそうな不穏な空気が生じたため撤退が検討されたが、偵察によりウィリアム・ウォレス率いるスコットランド軍がイングランド軍の撤退に対して追撃を行うべくフォルカークの近くに集結していることを知り、急遽、フォルカークに向かった。

イングランド軍の騎兵隊2000人、歩兵12000人に対しスコットランド軍は騎兵隊500人、歩兵9500人だった。 スコットランド軍は、スターリング・ブリッジの戦いの勝利に倣い、槍兵を4つの部隊に分け、その間を短弓部隊が埋め、後方にカミン一族などの貴族からなる若干の騎兵隊を配置して待ち構えた。 一方、イングランド軍は3部隊に分け、左翼にノフォーク伯などの諸侯、右翼にダラム司教アンソニー・ベック、少し後方、中央にエドワード1世が自ら指揮を取った。

まず、両翼の騎兵隊がスコットランドの両翼に攻撃をかけ、敵騎兵隊や短弓部隊を蹴散らしたが、槍兵集団の槍衾を崩すことはできず、かえって乗馬を槍で突かれ、落馬する騎士が続出した。 これを見たエドワード1世は騎兵隊を呼び戻し、ロングボウを中心とするクロスボウ投石器からなる弓兵を前面に出し、一斉射撃を行わせた。 防護の無いスコットランド歩兵は即座に崩れ出し、イングランド騎兵隊がこれに襲いかかり殺戮をつくした。 敗北を認識したウィリアム・ウォレスは、かろうじて戦場からの脱出に成功した。 しかし、敗北したウィリアム・ウォレスの名声は低下し、「スコットランド王国の守護者及び王国軍指揮官」を辞任することになり、スコットランド反乱軍内部の派閥争いが激しくなった。 エドワード1世は勝利したものの食糧不足、資金不足は変わらず、まもなくカーライルに戻らざるを得なくなり、スコットランドの再征服は1304年までかかることになる。

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 この戦いで、ロングボウ部隊の有効性が実証され、以降、イングランド軍の主力兵器として練度も上げられ、百年戦争では優勢なフランス騎兵隊に対するイングランド軍の勝利に貢献することになる。そして、このフォルカークの戦場でも、騎兵の提供を約束したスコットランド貴族たちが裏切って戦わずして撤退、ウォレスは多くの兵を失ったとされている。 その時の悔しさと悲しみはいかばかりだったことか。 フランスやバチカンに対し、援軍を要請するために大陸にわたったとされるウォレスだが、1303年に失意のうちに帰還。 1305年8月、さらなる裏切りにあい、イングランド軍に捕らえられ、裁判にかけられた末、23日にロンドンのスミスフィールド(肉市場がある場所)で絞首刑の後、四つ裂きの刑に処されている。

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===== 続く =====

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