北海帝国の興亡 =10=

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 “バノックバーンの戦い”に話を進める前に、何処かに潜伏していたロバート1世(ロバート・ブルース)は、1307年後半にアバディーンシャー  に本営を移し、恐らくは長きにわたる疲弊が原因であろう重病に陥る前にバンフを脅かしている。 以前に鎮定するのを放っておいた第3代伯ジョン・カミンが背後にて勢力を盛り返すと、ロバート1世は引き返してバルヴェニー とダフス の両城を、それから黒島のタラデイル城を奪取した。 だが、インヴァネスの奥地を経由して引き返し、エルギンを落とそうとするも2度目の失敗をした。 だが、1308年5月にインヴェルリーの戦い においてバカン伯カミンを最終的に打ち負かすことで、自己の目標の到達地点まで達している。 そして、バカンを侵してアバディーンのイングランド守備隊を撃破している。 以降、破竹の勢いでスコットランドを制圧・制定して行く。

1308年に行われたバカン侵攻は、ロバート1世が、全カミン氏族によるバカン伯への支援を根絶させることを確実にするために命じたものであった。 バカンは北部スコットランドの農業首都であったことから莫大な人口を有しており、そのほとんどの住民はバカン伯が打ち負かされた後ですらカミン氏族に忠実であった。マレー、アバディーンおよびバカンといった大多数のカミンの城が破壊されて住民が殺された。 ロバート1世は、マクドゥガール氏族の領地であるアーガイルとキンタイアに対して同様の侵攻を命じている。 これらの活動の結果、ロバート1世は150年にわたってスコットランド西部を支配してきたカミン氏族の力を壊滅させることに成功した。

その後、ロバート1世はアーガイルに渡って、ブランダー水道の戦い (Battle of the Pass of Brander) でカミン氏族の同盟者であったマクドゥガール氏族を撃破し、カミン氏族の最後の主要な要塞であったダンスタフナジ城 (Dunstaffnage Castle) を攻略。 そして、1309年3月、ロバート1世はセント・アンドルーズにおいて初めての議会を開き、8月までにテイ川より北のスコットランド全土を掌握している。 同年にはスコットランドの聖職者は公会議においてロバート1世をスコットランド国王として認めている。 ロバート1世が破門されていたにもかかわらず教会が支持したということは、政治的に大変重要であった。

翌年から3年間かけて、すなわち1310年にはリンリスゴウ、 1311年にはダンバートン、1312年にはパースと、ロバート1世は自身の手でイングランドが掌握した城ないし前哨戦を一つ一つ落としていくことで、その支配権を削減していった。 同時にイングランド北部を襲撃してマン島のラムゼイに上陸し、キャスルタウンのルーシェン城 (Castle Rushen) を包囲して1313年6月13日に陥落させることで、イングランドにとってマン島が戦略的価値のないことを知らせしめた。 ロバート1世のイングランド攻略は休むことはない。

1314年春にエドワード・ブルースはスターリング城を包囲し、同城を守るフィリップ・モウブレイ (Philip Mowbray) は6月24日までに救援の見込みがないのなら降伏することに同意した。 ロバート1世の軍団がスターリンク城近郊のバノックバーンでスコットランドに侵攻したエドワード2世率いるイングランド軍と対峙、撃破していた。 この時期には、同年春にはジェームズ・ダグラス (James Douglas, Lord of Douglas) はロクスバラを落とし、ランドルフ (Thomas Randolph, 1st Earl of Moray) はエディンバラ城を攻略している。 そして同年の5月、ロバート1世は再びイングランドへ侵攻してマン島を占領した。

8年の歳月が消耗されたが、戦場で真正面からイングランド軍と戦うのを意図的に避けてきたことは、多くの人々がロバート1世を優れたゲリラ戦の指導者とみなすように至らせることとなった。 このことは封建騎士としての個人の台頭の変質として現れている。 さて、イングランドに対するスコットランドの地位を逆転させたバノックバーンの戦い、この戦いの軌跡は・・・・

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夜明けとともに始まった記念すべき戦い

1314年6月23日。30歳になったばかりのイングランドん王エドワード2世は、スターリング城への道を急いでいた。 既にスターリング城の南で戦闘があったとの情報も入ってきていたが、まだ雌雄を決するような段階にはなっていなかった。 本隊が到着すれば、スコットランド軍などひとたまりもないだろう。 そう信じてはいたものの、なぜか説明のつかない漠然とした不安が胸をよぎるのを感じずにはいられなかった。

エドワード2世はウェールズ、イングランド中部、北部諸州から2万を超える軍を召集した。主力となるのは弓兵と重装騎兵であり、この二つはスコットランド軍に対して優位を誇っていた。 一方、ロバート1世も1万の軍勢を率いていたが、その大半が歩兵で騎兵は数百人しかいなかった。ロバート1世は数的不利と味方の脆弱さを補うために、戦場をバノックバーンに選んだ。また、イングランド軍の重装騎兵に対抗するため、小さな落とし穴を幾つも掘らせた。

夕刻、この不安を抱いたままバノックバーンに到達。 そして、この不安は、翌日、現実のものとなるのである。 相手は強行軍で疲弊しているという。 幸い夏至だ。 この夜の短さでは疲れも十分とれまい。 ロバートは朝一番で戦闘を開始することを決める。 やがて夜が明け、戦闘が始まった。

1314年6月24日=戦闘1日目=。迎え撃つロバート1世は39歳。 国王となってからこの8年、休む間もなく戦い続けてきた。今回の戦いも、どこに陣営を置き、どう自軍を配すか、そして相手軍をどこに誘導するか、練りに練った。兵士たちの訓練もたゆまず行ってきたつもりだ。やや高台にあり、比較的土が乾いているニューパークに軸足を置いたスコットランド軍に対して、イングランド軍の足場はきわめて悪く、重装備の騎兵はスピードのある攻撃を仕掛けることが叶わなかった。 しかも、フォース川の支流がうねるように走り、歩兵部隊は、騎兵部隊と合流するためにバノック・バーン(バーンは「小川」のこと)を渡る必要があった。

イングランド軍は南西の方向からローマ街道に由来する道を進み、バノックバーンの野原に軍を展開した。 対峙するスコットランド軍はロバート1世自身が陣頭に立って、騎兵で構成されたイングランド軍の先鋒に応戦した。 しかし、イングランド軍はバノック・バーンとペルストリーム・バーンにはさまれた狭い場所で戦うように仕向けられ、数で勝りながらも、それを活かして横に広く展開することができない状況に追い込まれていったのである。 結果は如実に出た。

このとき、ロバート1世はイングランド軍のヘンリー・ド・ブーンと一騎打ちを行い、自らの戦斧でヘンリーを討ち取っている。 戦意の低い歩兵主体のスコットランド軍は、ロバート1世の英雄的な行動に士気を高め、これがイングランド軍の敗北に繋がる。 300騎ほどのイングランド軍は小川を渡り、スターリング城を目指したが、スコットランド軍のシルトロン隊形と槍衾がこれを阻止した。 日没頃になると、エドワード2世が率いる本隊がバノックバーンに到着したが、それ以上の攻撃は難しかったので野営に入った。

1314年6月24日=戦闘2日目=。 エドワード2世の本隊が到着したことで対応を迫られたロバート1世は、イングランド軍が強行軍によって疲弊し、士気も弱いという情報を得たことで、夜明けと同時に攻撃することを決意した。 イングランド軍は重装騎兵が小川を渡っている一方、弓兵の多くが対岸に留まっていたので、ファルカークの戦いのように連携した戦術が採れなくなっていた。 前日のロバート1世の奮戦で士気が上がっていたスコットランド軍の攻撃を受けて、野営中のイングランド軍は態勢を建て直すことができなかった。

イングランド軍は背後に湿地帯があり、効果的な隊形を組む前にスコットランド軍のシルトロン隊形によって押し込まれた。 その中でもイングランド軍の弓兵は勇敢に戦ったが、ロバート1世は配下の騎兵を使って危険を取り払った。 スコットランド軍はイングランド軍に猛攻撃をかけて、もう少しでエドワード2世を捕らえるほどだった。 エドワード2世は自ら槌矛で応戦し、馬を失い、盾持ちまで捕らえられたが、ペンブルック伯ジャイルズ・ドゥ・アルジェンタンにより助けられた。
ペンブルック伯は王をスターリング城に向かわせると、引き返して戦死した。 エドワード2世はスターリング城に辿り着いたが、落城を予見していた城主フィリップ・モウブレイによって入城を拒否された。 そのためエドワード2世は戦いの場から逃亡し、エディンバラの東にあるダンバー(Dunbar)まで一目散に逃走、そこから船でイングランドのベリク(Berwick)へと渡り、ロンドンに逃げ帰ったのだった。 イングランド軍は大敗した。  ロバート1世は勝ったのである。大勝利だった。

スコットランドの詩人ジョン・バーバーによる叙事詩『ブルース』によると、壊滅したイングランド軍の死体で湿地帯が埋まったため、勝利したスコットランド軍は足を濡らさずにバノックバーンを渡れるほどだったという。

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・・・資料・・・・・・メルローズ修道院(Melrose Abbey)は、スコットランド南東部のスコティッシュ・ボーダーズにある町、メルローズに建てられたゴシック様式修道院である。 1136年スコットランド王デイヴィッド1世の命によりシトー会修道士らが建立し、メルローズ教区の大修道院長が長を兼ねた。幾度となくイングランドの攻撃を受けては再建、修復されたが、今日残っているのは主として14世紀末以降に赤レンガで造られた外壁部分だけである。 メルローズ修道院の墓地にはスコットランド王ロバート1世の心臓が埋葬されたとい。

7世紀、現在のメルローズ修道院より東へおよそ3キロメートル離れた古代メルローズの町に聖エイデン英語版) (Saint Aidan) を祀る修道院が建てられていた。 839年、スコットランド王ケネス1世によってこの修道院は破壊されたが、蛇行するツイード川の曲線にはさまれる形で残された墓地がそこに修道院があったことを示している。 この修道院には、後にノーサンブリアリンディスファーン島で司教となる聖カスバート (Saint Cuthbert) もいた。

デイヴィッド1世が同じ場所に修道院を再建することを望んだのに対し、シトー会の修道士らは元の土地は農作に向かないとして、現在の場所に新たな修道院を建築するよう主張した。 10年の歳月をかけて建設された教会は、1146年7月28日の東側部分の完成をもって、他のシトー会の修道院と同様聖母マリアに捧げられ、スコットランド修道会の母教会に据えられた。 修道院の他の部分はその後、50年間にわたって増築された。

メルローズ修道院は創建時より広範な特権と財産を有していた。 発願者であるデイヴィッド1世からは修道院に対し、メルローズと周辺地域の土地やツイード川の漁業権などが与えられ、以降もその財を拡大し続けた。

メルローズ修道院の周りには、徐々に町が形成されていった。 修道院は、イングランドとの度重なる戦火に巻き込まれた。 イングランド王エドワード1世の2度にわたる攻撃(1300年1307年)に続き、1322年には同エドワード2世軍によってほぼ全壊させられた後、スコットランド王ロバート1世の支援によって再興された。

1385年にはイングランド王リチャード2世軍が放った火により、修道院はまたも激しく損壊した。この戦いでスコットランド王ロバート2世エディンバラまで後退を余儀なくされている。 一方、リチャード2世は自らの軍が与えた損傷に対する補償を1389年に提供している。このときの修復工事は100年にも及び、ジェームズ4世1504年に修道院を訪ねた際も未だ続行中であった。 1544年、イングランド軍がまだ幼いスコットランド女王メアリーをイングランド王ヘンリー8世の皇太子(後のエドワード6世)に嫁がせようとスコットランドに侵攻し、修道院は決定的な損傷を受けた。 これ以後、メルローズ修道院は完全に修復されることなく、次第に機能を失っていった。

Melrose.Abbey

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===== 続く =====

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