ガイ・フォークスの陰謀=01=

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 「トム、勇気を出すんだ」 人々の罵声が飛び交う中、絞首台でガイ・フォークスは幼なじみのトーマス・ウィンターに向かって叫んだ。 時は1606年1月31日。ウェストミンスターのオールド・パレス・ヤードで、処刑を一目見ようと集まった群衆は興奮の絶頂に達していた。当時、娯楽の少ない庶民生活の中で、こうした処刑は一種のエンターテインメントとも呼ぶべき役割を果たしており、凍てつく寒さをものともせず、この日も数多くの民衆が処刑囚を取り囲んでいた。

「さらば、友よ」 返事が返ってきた。 「もっと良い所で再会するまでの辛抱だ」 絞首刑執行人が会話を遮り、2人を黙らせる。「お前らのような国賊は天国には行けない。地獄行きだ」。 しかし、フォークスの頭の中には、天国ではない「もっと良い所」が次々と浮かんでいた。生まれ故郷ヨークの町並み、子供の頃自由に走り回った、緑鮮やかなヨークシャー渓谷、仲間たちと通った学校。思えばウィンターとは色々な体験を共にした。
子供時代、2人は将来の夢も共有していた。「兵士になりたい。そしてイングランドをもう一度カトリックの国にしたい」―願い事が叶うという奇跡の井戸に2人で行ったことをフォークスは思い出した。「あの頃の夢と希望が、なぜこんな悲惨な結末になってしまったのだろう」とフォークスは我に返った。絞首刑になろうとしている自分の境遇が信じられなかった。

覚えておこう、覚えておこう、11月5日を。
「ガンパウダー・トゥリーズン・アンド・プロット」
(爆薬と反逆と陰謀の事件)の日を。
「ガンパウダー・トゥリーズン」事件が
忘れ去られるべきだという理由はどこにも無いはずだ。
ガイ・フォークス、ガイ・フォークス、
国王と国会を爆破しようとした男。

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1605年11月5日、ガイ・フォークスとその一味のカトリック教徒が、時の国王ジェームズ1世と議員たちを殺すために、上院議場の下まで坑道を掘り、開会式の行われる11月5日(グレゴリオ暦11月15日)に爆破しようとしたが、寸前で発覚し、主謀者はロンドン塔に送られ、翌年1月31日(2月10日)に処刑された。
尚、ここでいう「1605年11月5日」とは、ユリウス暦に基づく日付である。事件当時のイギリスでは、未だグレゴリオ暦は採用されていなかった。グレゴリオ暦での日付は、上記の枠内である。 以下の記述も、特別の記載がない限りユリウス暦での日付(グレゴリオ暦より10日早い日付)である。

この事件を記念するため、ガイ・フォークスと呼ぶ人形を作って、町中を一日中引き回し、夜になって焼きすてる風習が生れた。 今日、今は人形の方はすたれたが、昼間からかんしゃく玉花火を盛んに爆発させて、日が暮れると大かがりに火をたく。 事件は火薬陰謀事件Gunpowder Plot)と言われ、イングランドで発覚した政府転覆未遂事件である。 イングランド国教会優遇政策の下で弾圧されていたカトリック教徒のうちの過激派によって計画されたものであるとされてきたが・・・・・・・首謀者はロバート・ケイツビー、実行責任者はガイ・フォークス。 上院議場の地下に仕掛けた大量の火薬(gunpowder) を用いて、1605年11月5日の開院式に出席する国王ジェームズ1世等を爆殺する陰謀(plot) を企てたが、実行直前に露見して失敗に終わった。

事件の背景は、離婚問題のこじれという個人的な理由でローマ教皇庁と対立したイングランド王ヘンリー8は、1534年に国王至上法を発布して、教皇庁と袂を分かった。彼はローマ教皇に代わって自らがイギリス教会の首長であることを宣言した。これがイングランド国教会の起こりである。ヘンリー8世は自分に従わない聖職者を処罰・処刑したり、修道院の所有していた土地や資産を没収するなどの政策を推し進めた。

ユートピア』の著者トマス・モアもヘンリー8世の離婚問題で疑義を呈したことから刑死に追い込まれた。ヘンリー8世の死後、熱心なカトリック信徒であったメアリー1世はイギリスをカトリック教会に戻すべくプロテスタントに対する弾圧を行い、「血塗れのメアリー (Bloody Mary) 」の異名をとった。

続くエリザベス1は完全なカトリックへの復帰も、過激なプロテスタンティズムへの傾斜もとらないという「中道政策 (Via Media) 」 によって英国国教会の位置付けを明確にし、彼女を排除する計画に関わったスコットランド女王メアリー・ステュアートを捕らえた。エリザベス自身は処刑に消極的であったが、最終的には死刑執行書への署名を決断、1587年に刑が執行された。この事件はカトリック教会の守護者を自認していたスペインにイングランド攻撃の口実を与え、1588年のアルマダ海戦へと繋がっていく。イギリスのカトリック・シンパの間ではメアリー・ステュアートは「殉教者」として称えられることになった。

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そのメアリーの息子であるスコットランド王ジェームズ6世は、1603年にイングランド王ジェームズ1世として即位した。母親と同じカトリックの信仰を持つジェームズの即位は、カトリック教徒にとって暗闇に差し込む光になると思われた。その一方でカトリック信徒と同じく不遇をかこっていたピューリタン(清教徒)は1603年4月、戴冠のためエディンバラからロンドンに向かうジェームズに対し、「千人請願」と呼ばれる書状を提出し、清教徒に対し寛容な政策を採るよう訴えた。

これを受けて翌1604年1月、ハンプトン・コートに各宗派の代表が集い、会議 (Hampton Court Conference) が開催された。ところが、この会議で国王は「主教なくして国王なし (No bishop, no King)」との言葉に象徴される、国教会優遇政策堅持の宣言を行った。この結果は、清教徒のみならず、カトリック信者にとっても極めて不利なものであった。

この閉塞状況を打破するための方策として首謀者ロバート・ケイツビーが導いた結論こそが、ウェストミンスター宮殿内にある議事堂の爆破という前代未聞の陰謀だったのである。「国王を殺害するのみならず、国会議員の多数を占める国教徒、そして清教徒をも同時に殲滅して国会の機能を麻痺せしめ、代わって政権を掌握したカトリック教徒がイングランドに至福の王国を建設する」。この遠大な目標を達成すべく、ケイツビーは1603年の四旬節に、トマス・ウィンター(ケイツビーのいとこ)、及びジョン・ライトに対し、議事堂爆破の計画を打ち明けた。
これを聞かされたウィンターらは当初、この途方もない計画を果たして本当に遂行できるのかと疑問に思い、難色を示した。だが、彼らは結局ケイツビーの説得に応じ、計画に参加することを承諾した。1604年4月、ウィンターはケイツビーの密命を帯びて、フランドル (オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域)へ渡った。彼は、イギリスとの和平交渉のためスペインから同地に赴いていたフリアス公ファン・デ・ベラスコ (Juan de Velasco)に協力を仰いだが、実のある返答は得られなかった。

ウィンターはまた、イングランドから同地に渡っていたガイ・フォークスのもとにも向かった。フォークスは熱烈なカトリック教徒として育った人物であり、かつネーデルラントでの従軍経験から火薬類の取り扱いに長けていた。ケイツビーに実績を買われたフォークスは、後に計画の実行役として動くこととなる。 4月末に英国へ帰還したウィンターとフォークスは、ケイツビー、ジョン・ライト、及び新たに加わったトマス・パーシーと面会し、互いに秘密を厳守するとの誓いを立てた。 のちに、ロバート・キーズ、ケイツビーの使用人トマス・ベイツ、イエズス会員ヘンリー・ガーネット (Henry Garnet) らが陰謀に加担した。

Hatfield_House

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===== 続く =====

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