ガイ・フォークスの陰謀=03=

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○●○ 運命を変えた、母親の再婚 ○●○

フォークスは1570年にヨークに生まれた。 母親はカトリック教徒だったが、父親は裁判所の職員でプロテスタント教徒。 父親にならい、フォークスも最初はプロテスタント教徒として育てられた。 もし、この父親が健康で、長生きしていたら、フォークスの運命は大きく変わっていたに違いない。 当時イングランドでは、カトリックかプロテスタントかは生死をも分ける大問題だったことは既に述べた。 カトリック教徒は敵国スペインを支援する裏切者と見なされるため、信者であることを隠さねばならず、著しく肩身の狭い思いをして生きていた。

8歳の時、フォークスの父親が死去。 母親の再婚相手がカトリック教徒だったため、フォークス自身も改宗した。 カトリック教徒として困難な人生を歩むことになったのだ。 この時から、フォークスの運命は、絞首台へと続く道に大きく軌道を変えたといっていいだろう。 もちろん、当のフォークスは、その28年後に死刑囚として群集の前に引き出される日がくることになるなどとは、夢想だにしていなかった。

ガイ・フォークスはセント・ピーター小学校に入学。 この学校は今もあるが、その頃は校長をはじめ教員も生徒たちも皆隠れカトリックだった。 学校理事は国教忌避者として約20年牢獄に収監されていた。校長のジョン・プーリンは、ヨークシャーの国教忌避者として著名な一家であるブラッバーハウスのプーリン家出身であった。フォークスの同窓生には火薬陰謀事件でともに行動をとることになるジョン・ライト、クリストファー・ライト兄弟や、イエズス会士オズワルド・テシモンド、エドワード・オールドコーン神父など事件への関与が疑われた人物、陰謀事件発覚前の1601年に処刑されたロバート・ミドルトン神父などがいた。フォークスの親友のひとり、キット・ライトの叔母は、カトリック神父を匿っていたことが見つかり、押し潰しの刑に遭い落命している。 キットの兄弟が、後に爆破陰謀計画の主要メンバーとなるジャックであり、キット自身もほどなくして計画に加わっている。

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   信仰心の強いカトリック教徒たちの間でフォークスは成長した。 しかし、カトリック教徒は仕事を見つけることも容易ではなく、フォークスも職探しに苦労する。カトリックというだけで差別される日々。怒りや苦悩は、この純粋な青年の信仰心をさらに高めていった。
学校卒業後、フォークスはようやく仕事を見つけた。 隠れカトリック教徒だったモンタギュー卿の下働きとなりサセックスに移住。だが、モンタギュー卿に疎まれ、短期間で解雇されてしまう。 21歳でイングランドでの生活に見切りをつけたフォークスは、もてあますほどの強い信仰心を携えてスペイン軍に加入。 オランダのプロテスタント軍と戦うことにより、カトリック教徒としての責務を果たそうと考えたのだった。 「ガイ」をスペイン語名「グイド(Guido)」と呼び換えようである。

フォークスは優秀で、間もなく大尉に昇進。 この頃に導火線や火薬について知識を得たとされている。  やがて、イングランド王ジェームズが予想に反してカトリック弾圧に傾いたことを知った時、フォークスはスペイン軍幹部に直訴。 イングランドに攻め入るよう、説得を試みる。 しかし、一兵卒の言葉でスペイン軍が動くわけもなく、また、無敵艦隊の敗北後、イングランドに対して慎重になっていたこともあり、軍幹部はフォークスの言うことに耳を貸さなかった。

●○ 幼なじみからの誘い ○●○  

1591年10月にフォークスは父から相続したクリフトンの不動産を売却している。 その頃、スペインに対するプロテスタントの反乱、八十年戦争(オランダ独立戦争)が起こっていた。 スペインはユグノー戦争にも介入しており、1595年から1598年のヴェルヴァン条約までの間フランスとも戦争していた。 フォークスは大陸に渡り、カトリックのスペイン側で参戦している。 イングランドはスペインと正式な開戦こそしていなかったものの英西戦争が起こっており、アルマダの海戦からはまだ5年ほどしか過ぎていなかった。
フォークスは、イングランドのカトリック教徒、ウィリアム・スタンリーの指揮下に入った。 スタンリーはエリザベス1の寵愛を受けていたが、1587年にデーフェンテルをスペインに譲り渡した後は彼の軍勢ともども陣営をスペインに鞍替えしていた。 フォークスは下級将校として、1596年のカレー攻囲戦を勇敢かつ誠実に戦い抜いたが、1602年まで階級が上がることはなかった。

フォークスは1603年にスペインに赴き、イングランドでのカトリックの反乱を支援してくれる者を募った。 フォークスはこの時、イタリア風の名前 Guido(グイド)を名乗るようになった。 1603年にスコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位し、イングランドとスコットランドは同君連合王国を形成していた。 フォークスはジェームズ1世のことを「イングランドから教皇派を全て追い出そう」としている「異端者」とメモに残している。 また、フォークスはスコットランドと王の周りに侍るスコットランド貴族を非難し、「当分の間、2つの国が仲良くなることなどないだろう」と述べている。 フォークスはスペインのフェリペ3世に丁重に扱われたが、スペインはフォークスの申し出を受ける気は全くなかった。 失望したガイ・フォークスはオランダに渡る。

だがしかし、オランダでもフォークスは失望していた。  スペイン軍に入隊した頃の希望に満ちたフォークスの姿はもうなかった。 フォークスは、オランダ相手に戦うことに辟易し始めており、また、ホームシックにもかかっていた。
そんなフォークスを、ある日、ひとりの男が訪ねてくる。 同じくヨーロッパでカトリック側兵士として戦っていたトーマス・ウィンターである。 ケイツビーを中心に計画が進められるうち、火薬に関する知識が豊富で、しかもイングランドではカトリック教徒としてまだ目を付けられていない人物が必要ということになり、白羽の矢が立てられたのがフォークスだったのだ。

ウィンターはフォークスにイングランドに戻るように力をこめて説いた。 国王ジェームズのもと、弾圧を受けているカトリック教徒を救うために「君の技術と勇気が必要とされている」。 ヨークでの子供時代、「兵士になりたい。 そしてイングランドをもう一度カトリックの国にしたい」と夢を語り合ったフォークスに対して、ウィンターは続けた。 「僕らの願い事を覚えているかい。あれを今、実現するんだ」。

希望を失いかけていたフォークスが、幼なじみの熱意あふれる言葉に胸を打たれ、容易に『洗脳』されたのも無理はなかった。 フォークスは祖国を離れて久しく、その頃のイングランド情勢を正確に判断する術を持っていなかった。 このため、ジェームズを爆殺し、議会も爆破すればイングランドがカトリック教国に戻ると単純に信じ込んだのである。 イングランドのカトリック教徒が全員、ジェームズの暗殺を望んでいたわけではないことを、フォークスは後に思い知らされることになる。 しかし、この時はスペイン軍に対する失望からの反動もあったのだろう。 フォークスは新しい使命を与えられ、気持ちが高揚するのを感じた。 そして何よりも母国を再びカトリック教国にできるという新たな希望が、フォークスの計画参加を決心させた。 1604年の春のことであった。

1604年にフォークスはロバート・ケイツビー率いるイングランドのカトリックグループに参加するようになる。 ケイツビーはプロテスタントのジェームズ1世を暗殺し、王位継承資格第3位の王女、エリザベス・ステュアートを王位に就けようと企んでいた・・・・・・・・・・。

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 ロバート・ケイツビーRobert Catesby)は、 火薬陰謀事件の首謀者として知られる、イングランドの貴族である。 馬術と剣術に秀でており、人望のある人物であったと伝えられる。
、ウォリックシャー州(Warwickshire)ラプワーズで出生したとみられている。 父はウィリアム・ケイツビー(William Catesby)、母はアン・スロックモートン(Anne Throckmorton)。兄ウィリアム(William Catesby)は幼くして死亡した。由緒ある家柄で、リチャード3世の治世における有力議員、ウィリアム・ケイツビー(William Catesby)の子孫である。

父ウィリアムは敬虔なカトリック信者で、イエズス会の支持者であった。彼は1581年に、司祭エドマンド・キャンピオンを匿った容疑で、義兄(即ちロバートの伯父)のトマス・トリーシャム(Thomas Tresham、1543年 – 1605年)やウィリアム・ヴォークス(William Vaux, 3rd Baron Vaux of Harrowden、1535年 – 1595年)と共に捕らえられ、以後投獄と釈放とを繰り返す人生を送った。このためウィリアムは、莫大な罰金の支払いを強いられた。 ロバートは、このような父を始め、多くの国教忌避者に囲まれて育った。彼の思想の核の形成には、こうした環境が大きく影響しているものとみられる。

1586年、ロバートはオックスフォード大学のグロスター・ホール(Gloucester Hall、現ウスター・カレッジ)に入学するが、学位を得る前に退学した。同校では、卒業の際に国王至上の宣誓を求められていたことから、恐らくこれを忌避したのであろうといわれている。その後、ネーデルラントのドゥエイ(Douai)の神学校に通ったとみられる。
1593年、ロバートはウォリックシャー州ストーンリー(Stoneleigh)のプロテスタント貴族トマス・リー(Thomas Leigh)の娘、キャサリン・リー(Catherine Leigh)と結婚した。また、オックスフォードシャー州(Oxfordshire)チャスルトン(Chastleton)、オクソン(Oxon)の莫大な資産を相続した。妻キャサリンとの間には、長男ウィリアム、次男ロバートの2人の息子を儲けた。うちウィリアムは早世している。
結婚後しばらくの間、ケイツビーはその信仰に揺らぎを見せる(1595年11月に息子ロバートをイングランド国教会で受洗させるなど)が、妻や父、長男が死亡した頃から、再びカトリックの教えに軸足を置く。国教忌避者として活動する彼を、政府は危険人物と目した。1596年、彼はジョン・ライト(John Wright)とクリストファー・ライト(Christopher Wright)の兄弟や、従兄のフランシス・トリーシャム(Francis Tresham)と共に逮捕された。この頃、エリザベス1世が病の床にあったことから、政情不安を恐れた政府が先手を打ったのであろう。

1601年第2代エセックス伯ロバート・デヴァルー(Robert Devereux, the 2nd Earl of Essex)が反逆を企てた際、ケイツビーも連座した。拘束されたケイツビーは危うく罪を免れたが、4000マークの罰金刑を課せられた。この罰金を支払うため、彼はある毛織物商にチャスルトンの土地を売却したが、なおも彼には相当な財産と定収があった。のちに彼は、アシュビー・セイント・レジャーズ(Ashby St. Ledgers)で母と暮らし、またモアクロフツ(Morecrofts)とランベス(Lambeth)にある彼の家で過ごしたとみられる。

エリザベス1世の死を受け即位したジェームズ1は、1604年に国教会優遇政策を行う宣言を発した。これに憤激したケイツビーは、ジョン・ライトやガイ・フォークス(Guy Fawkes)ら同調者と共に、上院の爆破を企てた。即ち、開院式に出席する国王ジェームズ1世を、議員もろとも爆殺する計画である。開院式は2度にわたって延期され、そのたびに彼らは足止めを食った。結局、開院式の開催日はユリウス暦1605年11月5日(グレゴリオ暦では1605年11月15日)と決まり、ケイツビーらは決行に向け、遺漏なきよう準備を進めた。

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===== 続く =====

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