香辛料戦争;英国Vs和蘭=02=

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大航海時代終焉とオランダとイギリスとの軋轢

軍事的に失敗した十字軍遠征(1086年~1272年)ではあったが、戦争によって東西交流はより発展した。ヨーロッパから鉱物資源や毛織物等が、イスラムから香辛料や絹等が、今まで以上に東西間で交易されるようになった。 それによってヨーロッパとオリエントの間に位置する東ローマ帝国やイタリア諸都市国家の経済成長が顕著になる。 ことにイタリアでは東西交易に伴い、東ローマ帝国の保存していた古代ギリシアの哲学・科学や、イスラム諸国からの当時世界最高水準にあったイスラム文化やイスラム科学が紹介され、しかも十字軍失敗によってローマ教皇の権威が低下し、宗教戒律に疑問を持った人々の中からルネッサンス運動が開始されて近代への扉が開けられた。

モンゴル帝国が興ったころ、東方のキリスト教徒プレスター・ジョンが大軍を率いてイスラムを攻撃するという噂がヨーロッパに広まった。 プレスター・ジョン確認のためにローマ教皇や西ヨーロッパ各国は、国情視察も兼ね同盟や交易を求めて東方に使節を派遣した。 そしてプラノ・カルピニの使節はカラコルムに達し、1245年、グユクハーンと謁見を果たした。 そこはプレスター・ジョンの国ではなかったが、宗教や異民族に比較的寛容なモンゴル人はヨーロッパ人を受け入れ、パックスモンゴリカの下でイタリア商人やイスラム商人が頻繁に東アジアを訪れるようになり、カラコルムや大都などの主要都市に長期滞在する者さえ現れた。  中でもマルコ・ポーロは約20年にわたって行われた旅行体験をルスティケロ・ダ・ピサへ口述し、ピサが『東方見聞録』として著しヨーロッパに広まった。 イスラム諸国、インド、中国、ジパングについての記述が、プレスター・ジョン伝説とともにヨーロッパ人の世界への好奇心を掻き立てた。

15世紀、モンゴル帝国が衰退すると、強力な官僚機構と軍事機構をもったオスマン朝トルコが1453年ビザンツ帝国を滅ぼし、イタリア諸都市国家の連合艦隊にも勝利して地中海の制海権を獲得した。 東西の中間に楔を打つオスマン朝は、地中海交易を支配し高い関税をかけた。 旧来の経済秩序が激変し、新たな交易ルートの開拓がヨーロッパに渇望されるようになる。 一方、15世紀半ばオスマン朝が隆盛を極めつつあったころ、ポルトガルとスペイン両国では国王を中核として、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐しようとしていた(レコンキスタ)。 長い間イスラムの圧迫を受けていたポルトガルとスペインでは民族主義が沸騰し、強力な国王を中心とした中央集権制度が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立した。
また、このころ頑丈なキャラック船キャラベル船が建造されるようになり、羅針盤がイスラムを介して伝わったことから外洋航海が可能になった。ポルトガルとスペインは後退するイスラム勢力を追うように北アフリカ沿岸に進出した。 新たな交易ルートの確保、イスラム勢力の駆逐、強力な権力を持つ王の出現、そして航海技術の発展、海外進出の機会が醸成されたことで、ポルトガル・スペイン両国は競い合って海に乗り出して行った。 初期の航海では遭難や難破、敵からの襲撃、壊血病や疫病感染などによって、乗組員の生還率は20%にも満たないほど危険極まりなかった。 しかし遠征が成功して新航路が開拓され新しい領土を獲得するごとに、海外進出による利益が莫大であることが立証された。 健康と不屈の精神そして才覚と幸運に恵まれれば、貧者や下層民であっても一夜にして王侯貴族に匹敵するほどの富と名声が転がり込んだ。 こうした早い者勝ち の機運が貴賎を問わず人々の競争心を煽り立て、ポルトガル・スペイン両国を中心にヨーロッパに航海ブームが吹き荒れるようになった。

ローマ教皇も海外侵略を強力に後援した。 16世紀初頭から宗教改革の嵐に晒されていたカトリック教会は相次いで成立したプロテスタント諸派に対抗するため、海外での新たな信者獲得を計画し、強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国の航海に使命感溢れる宣教師を連れ添わせ、両国が獲得した領土の住民への布教活動を開始した。 ポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化すると両国間に激しい紛争が発生した。 さらに他のヨーロッパ諸国が海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介をローマ教皇に依頼して1494年にトルデシリャス条約、1529年にサラゴサ条約を締結した。 両国はこれらの条約により各々の勢力範囲を決定し既得権を防衛しようと図った。

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 上記のように、16世紀のヨーロッパは大航海時代に先んじたポルトガル、そしてスペインが強大な力を誇った時代であった。 この2つの国家はローマ教皇の許可の下、大胆にも世界地図に縦線を引き、これより東はスペインのもの、これより西はポルトガルのものと決定し、その条約に従って世界中で搾取、蹂躙を始めていた。

1588年夏、当時まだ弱小国でしかなかった新教国イングランドの艦隊と、カトリックのスペイン艦隊が英仏海峡で激突(アルマダの海戦)。 ヨーロッパ大陸でオランダ軍がイングランド軍を後方支援したこともあり、大方の予想に反してスペイン艦隊の多くが沈んだ。 大敗北を喫したスペインではあったが、この一戦だけをもってスペインというスーパーパワーが一気に衰退したわけではない。 むしろ手を広げすぎた植民地の維持費や、ヨーロッパ全土に広まった宗教戦争への介入がスペイン経済をゆるゆると疲弊させた。

ポルトガル、スペインに夕暮れが迫りつつあった頃、世界のひのき舞台に踊り出てきた新興国がある。 しかしそれは「無敵艦隊」を完膚なきまでに打ち破ったイングランドではなく、オランダというこれまたちっぽけな国であった。 ポルトガルという小さな国がヨーロッパの他のどの国にも先駆け、一時的とはいえ強大な力を持つに至ったのは、誰よりも先に大洋に漕ぎ出し、大航海時代の幕をこじ開けたためで、極めて明快だ。
オランダの場合はもう少し事情が複雑だ。 我々日本人が「オランダ」と呼ぶ国は実際にはネーデルラント(前記載イラスト参照)という。 ネーデルラントとは「低地」という意味だ。 ご存知の通り、オランダの国土の一部は海抜よりも低い。 16世紀のネーデルラントとは現在のオランダの他、ベルギーの多くを含んだ土地を指した。

1556年にスペインのフェリペ2世がこの土地をハプスブルク家の父王、カール5世から引き継いだあたりから、ネーデルラントに不吉な風が吹き荒れ始める。 当時、ネーデルラント最大の都市であったアントウェルペン(アントワープ)は商業・金融業を中心に隆盛を誇っていたが、フェリペ2世は父の教えに反してネーデルラントの貴族たちを軽視、本国スペインの財政難の穴を埋めるため、ネーデルラントに過酷な重税を課した。 さらにカトリック教の守護者を自認するフェリペ2世は、ネーデルラントに多かった新教徒を激しく弾圧し始めた。 そのため、1568年、スペインからの独立を目指したネーデルラントとの間に独立戦争が勃発する。いわゆる八十年戦争というものである。

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 ネーデルラント南部はもともとカトリック教徒も多く、早くにスペインの圧力に屈した。 これが今のベルギーの一部となる。 一方、北部ネーデルラントの人々はスペインに対し徹底抗戦を誓った。 アントウェルペンを脱出した商人たちの多くはその拠点をアムステルダムに移し、そこにスペインやポルトガルで迫害を受けていたユダヤ人や、フランスからの新教徒(ユグノー)たちなども逃げ込み、アムステルダムは人口が急増した。 人口増加だけにとどまらず、豪商や資金豊かなユダヤ人が大量流入したおかげで、交易や金融業が大いに発展し、いつしかヨーロッパ随一の商業・金融の中心都市へと変貌を遂げていく。

スペインの無敵艦隊が来襲した折にはイングランドに協力してこれを撃滅。 本来は邪魔者を撃退した勝者のイングランドが世界に打って出てもおかしくなかったが、財政難を理由にモタモタしているうちに資金力豊かな北部ネーデルラントが世界に打って出てきたという構図である。 ちなみにオランダという名称は北部ネーデルラントの一州、ホラント州に由来するものだが、16世紀中頃にポルトガル人が日本にその名を伝え、日本ではそのまま国名として定着してしまった。また、ここ英国においてもホランドと表記される場合があるが、あくまでも俗称である。ただし本欄ではこれより以降、北部ネーデルラントを馴染みの深いオランダと表記することにする。

欧州列強の中、オランダの発展を支えたもの

オランダが眩しいほどに繁栄したのにはもう一つ、理由があった。造船技術の飛躍的な発達である。ではなぜオランダで造船技術が発展を遂げたのか。 風車だ。 風車は英語では「Windmill」といい、その名の通り、元々は小麦を挽く動力として、オランダでも13世紀あたりから使われていた。

オランダではこれに改良を加え、流れ込んできた海水を汲み上げて海に戻すための排水機として利用し始めた。 さらに250馬力とも言われる風車が生み出す豊富なパワーは、造船に必要な材木の切り出しやセメントの攪拌などにも応用された。 また、風車の羽根に張られる帆布は、そのまま風帆船に使えるものであったため改善が重ねられ、品質の飛躍的な向上をみた。 一見のどかに回る風車に見えるが、実はオランダの大発展を陰で支えていたのである。

人間、金さえあれば気持ちまで大きくなるのは今も昔も変わらない。 オランダは、かつて地獄の門番のように恐れていたポルトガルがほぼ独占している、現インドネシアにある香料諸島を目指すことになった。 そして1596年、金のなる木を求めて遂にオランダの船団が香料諸島にやってくる。

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===== 続く =====

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