香辛料戦争;英国Vs和蘭=04=

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2つの東インド会社の成立が・・・・・

1600年。 まずはイングランドが「イングランド東インド会社」を立ち上げ、活動を開始した。 しかし当時の組織はまだ幼稚で、船を出すぞ~と声を掛け、資金が集まったところで出発し、無事に帰ってきて利益が出れば、出資額に応じて利益を分配、組織は解散という当座会社的な存在であった。 従って実際に船が出るも出ないも金次第。 まだまだ「会社」とは程遠いおそまつな組織であった。

1577年から1580年にかけてのフランシス・ドレークの世界周航を皮切りに、イギリス(イングランド王国)は、世界の海への進出を開始していた。 しかし、当時のイギリスの航海の性格は、略奪、探検、冒険航海の色が強かった。 また、すでに、レヴァント会社という会社組織が結成されており、地中海やモスクワ経由で地中海東岸地域との貿易を専門とする商社がイギリスにおけるアジアとの貿易を独占していた。 だが、1595年、0ランダがジャワ島バンテンへ4隻から構成される船団を派遣し、この派遣の成功がヨーロッパ中に衝撃を与えた。

※ イングランド東インド会社 ; 厳密には「イギリス東インド会社」は単一の組織ではなく、ロンドン東インド会社(旧会社)、イングランド東インド会社(新会社)、合同東インド会社(合同会社)という三つの会社の総称である。 初期には東インドの香辛料貿易をめざしてジャワ島バンテンインドスラトに拠点を置き、マレー半島パタニ王国タイアユタヤ、日本の平戸台湾安平にも商館を設けた。 アジアの海域の覇権をめぐるスペイン、オランダ、イギリス3国の争いの中で、アンボイナ事件後、活動の重心を東南アジアからインドに移した。

当時、イギリスのインドにおける会社の大拠点はベンガルカルカッタ、東海岸のマドラス、西海岸のボンベイである。 フランス東インド会社と抗争し、1757年、プラッシーの戦いで、同社の軍隊がフランス東インド会社軍を撃破し、インドの覇権を確立した。 以後単なる商事会社のみならず、インド全域における行政機構としての性格をも帯びるように成る。 ナポレオン戦争後は再び東南アジアに進出して海峡植民地を設立、ビルマとも戦った。 18世紀以降、広東貿易にも参入してアヘン戦争を引き起こし、香港を獲得した。 しかし、インド大反乱(シパーヒーの乱)の責を負う形でインドの行政権をヴィクトリア女王に譲渡し、1874年に解散する。

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オランダも初めは当座組織のような会社が乱立し、現地でも同国人同士によるスパイスの奪い合いが繰り返された結果、現地での購入価格は高騰し、反対にヨーロッパでは供給過多のため価格は暴落を続けた。 そのため1602年、遂にこれらを連合させ正式にオランダ東インド会社を発足させた。 取締役や株主の責任は無限から有限とされ、出資者は各船団にではなく、会社に対して直接投資することが決められた。 これによって初めて己の資産や、資金の心配をせずにビジネスに集中できる、会社らしい組織が完成した。

※ オランダ東インド会社(正式には連合東インド会社、略称VOC)は、1602年3月20日にオランダで設立され、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられ、アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。資本金約650万ギルダー、本社はアムステルダムに設置され、重役会は17人会(Heeren XVII)と呼ばれた。18世紀末に政府により解散させられた。

スペインに対しての反乱を継続中であったオランダは、スペインの貿易制限、船舶拿捕などの経済的圧迫に苦しんでいた。当時、東南アジアの香辛料取引で強い勢力を有していたポルトガルが、1580年にスペインに併合されていたことで、ポルトガルのリスボンなどを通じた香辛料入手も困難になっていた。 こうした中、オランダは独自でアジア航路を開拓し、スペイン(と併合されていたポルトガル)に対抗する必要があった。1595年から1597年までの航海を通じてジャワ島バンテンとの往復に成功を収めると、いくつかの会社が東南アジアとの取引を本格化させた。 しかし、複数の商社が東南アジア進出を図ったために現地(東南アジア)での香辛料購入価格が高騰した上、本国(オランダ)で商社同士が価格競争を行ったため売却価格は下落する一方であり、諸外国との経済競争を勝ち抜く上で不安が残された。 さらに、1600年にイギリス東インド会社が発足したことは、この懸念を深めさせた。

こうした中、政治家オルデンバルネフェルトは、複数の商社をまとめてオランダ連合東インド会社を発足させ、諸外国に対抗しようとした。 6つの支社から構成されており、それぞれはアムステルダムホールンエンクハイゼンデルフトロッテルダムミデルブルフに置かれた。 設立当初はインドネシアにおける香辛料貿易を目的とし、マラッカを拠点とするポルトガルや各地のイスラム諸王国と戦った。 1605年には、スラウェシ島に上陸。 1619年には、第4代東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(在任1619年-23年、再任1627年-29年)がジャワ島西部のジャカルタバタヴィア城を築いてアジアにおける会社の本拠地とした。 1623年にモルッカ諸島アンボイナ事件が勃発し、オランダ東インド会社が日本人の傭兵を含むイギリス商館のイギリス人を虐殺した。 イギリスは東南アジアから撤退し、インドのムガル帝国攻略に向かう転換点となった。

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ここに、後に現在のインドネシアを中心に、東南アジアの島々で、まさに血で血を洗う抗争を繰り広げる2つの「東インド会社」が誕生した。 しかし前述したように、イングランドの東インド会社はオランダのそれと比して、発足当時は随分と見劣りするものであった。 おまけにオランダ東インド会社は、東インド(インドネシア)における条約の締結、要塞の構築、自衛戦争の遂行、そして貨幣の鋳造などの権限が与えられ、さらにその権限を行使できる海域は「喜望峰(南アフリカ)の東からマゼラン海峡(南米)の西」という、とてつもなく広い範囲とされた。 つまりオランダ東インド会社とは、一度喜望峰からマゼラン海峡の間に足を踏み入れれば、それこそ一つの国家に等しい強大な権限を持っていたことになる。 イングランドの東インド会社にとっては実にやっかいな存在であった。

※ オランダ領東インド ; オランダ人がこの海域に到来するようになったのは16世紀末のことである。 ポルトガルの植民地などで働いたオランダ人リンスホーテンの情報により、1596年、オランダのハウトマンの船団がスンダ海峡に面したジャワ島西北岸のバンテン港に到達した。 ハウトマンは、胡椒交易で繁栄していたバンテン王国とのあいだで交易関係を築くこと目論んだが、結局その試みは失敗し、暴力的略奪と住民殺害によってわずかの香辛料を本国に持ち帰るだけに終わった。

しかしオランダ人にとって、マダガスカルからインド洋をこえてジャワに到る新航路を開設したことの意義は大きく、彼の帰還によってオランダでは東方航海への関心が高まった。 1598年、オランダはバンテン王国によってバンテンに商館を設置することを許可され、さらに東方貿易を一元化するため、1602年、「オランダ東インド会社」(Vereenigde Oostindische Compagnie、以下VOCと略す)を設立、1609年には、この商館における活動を統括する「東印度総督」を置いた。 だがしかし、VOCは、バンテンでは王国に警戒されて思うような交易上の成果をあげることができなかったため、1619年、バンテン東方に位置するジャヤカルタ(現在のジャカルタ)に新たに商館を設置、この地を「バタヴィア」と改めて、オランダ東方貿易の拠点として、都市建設をすすめていった。 VOCはその後、マルク諸島での香料独占をはかるため、アンボン島でのポルトガル人排除、バンダ諸島征服などによって、貿易独占の達成に成功した。

このようにVOCは、当初、港と商館を中心とする交易独占によって利益をあげていたが、17世紀後半からジャワ島内陸部へと進出し、領土獲得に熱意をみせるようになった。 すなわち、獲得した領土で当時の有力商品であるコーヒーなどを栽培し、これを輸出することで利益をあげるためである。 いわゆる「点と線」の支配から「面」の支配への転換をはかろうとしたのである。 VOCは、ジャワ島内部の王朝間での戦争や、各王家内での後継者争いなどに介入することで、17世紀後半にはマタラム王国を衰退させ、そして1752年にはバンテン王国を属国とすることに成功した。 しかし、領土獲得のために要した莫大な戦費と、会社自体の放漫経営のために、VOCの経営は悪化し、1799年、VOCは解散することになった。 その後を引き継いで植民地経営にあたったのは、すでに本国オランダを占領していたフランスの衛星国となったバタヴィア共和国である。

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東インドの領土、財産、負債などの一切をVOCから受け継いだオランダ政府であったが、19世紀初頭、フランス革命以降のヨーロッパ政局の混乱の波に襲われた(ナポレオン戦争の項を参照)。 オランダ本国はフランスに併合され、また、オランダの海外領土はイギリスの統治をうけることになったのである。 1811年から1816年まで、ジャワ島の植民地経営にあたったのは、東南アジアにおけるイギリスの植民地経営に中心的な役割を果たしていたラッフルズである。 そのラッフルズのジャワ島経営は短期間に終わったが、彼のもとで開始された土地測量や税制改革は、その後のオランダによる植民地経営にも一部引き継がれた。 1814年、オランダとイギリスのあいだで締結されたロンドン条約では、オランダがスマトラ島を、イギリスがマレー半島を、それぞれ影響圏におくことを相互に承認した。 今日のインドネシア・マレーシア間のマラッカ海峡に大きな国境線が引かれることになったのは、この条約に端を発し、1824年の英蘭協約で確定したものである。

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===== 続く =====

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