香辛料戦争;英国Vs和蘭=05=

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偽りの友人たち・・・・・・・

オランダは現在のインドネシア各地を治めるため、スペインが南米でやったのと変わらぬ強引で乱暴な手法を選んだ。 ナツメグやクローブが茂る島を武力で攻めて現地人を殺戮、よくても島民全員を他の島に移住させるという荒っぽい方法で次々にスパイスを獲得していった。 そのため、オランダ人たちは現地人たちに恐れられるだけでなく、激しく嫌悪されていた。 東インド会社社員と言っても、小さな風帆船に乗って嵐や海賊に遭遇したり、壊血病や赤痢で死ぬ危険を冒したりしつつ何年もかけて航海し、見知らぬ熱帯の土地に何年も棲みついて得体の知れない物を食べ、人すら食うと噂される恐ろしい原住民と戦いながらもいつか、莫大な利益をあげて一生、遊んで暮らしてやるのだ、というやくざな連中も多く含まれている。 紳士的な外交使節団を想像していると、この頃の風景は見えてこない。

オランダ東インド会社の社員たちは、島を制圧するたびに、それを維持するために本社に「人を送れ」と依頼した。 植民である。 小国ポルトガルが、世界各地に作った植民地を統治できるほどのポルトガル人を各地に派遣できず、植民地が弱体化していた事実を知っていたオランダ東インド会社は、植民地をオランダ人だけで統治したいと考えていた。 しかしそんな場所に自分の意志でやって来る連中が、どういう種類の人間であったか、想像するに難くない。 一攫千金を挙げるためなら多少のリスクも厭わないような連中であり、そのやさぐれ度は東インド会社の社員たちが紳士に見えるほどであった。 東インド会社の社員たちは自らが招いた、やさぐれの同国人にも手を焼いていくこととなる。

武闘派で流血を好み征服者と恐れられた、オランダ東インド会社の若き総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは本国に「上質なオランダ人の夫婦や家族、または社員と結婚を望む若き婦人を送れ」と何度も催促をするが、そんな恐ろしく環境の悪い未開の地に行きたがる変わり者はほとんどいなかった。 それでも、香料を産する島々の制圧が首尾よく進み始めた頃、彼らの目の前にやっかいな連中が遂にその姿を現した。 マストには白地に赤十字の旗が踊っている。 イングランドの東インド会社である。

イングランド人はオランダ人がナツメグやクローブの収穫をするところ、どこにでも現れて邪魔をする。 オランダ人たちはイングランド人たちを馬の体内に寄生することで知られる「馬バエ」と呼んで嫌悪した。 ところが双方の本国同士は、表面的には対カトリックという意味で共にスペインやポルトガルと戦っている友好国である。 従って当時まだ少数派であった新教国同士が地球の裏側で衝突することを望んでいなかった。

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 しかし共通の敵相手には手に手を取って戦うが、目の前に積まれた富貴となると話は別である。 人は、苦しみは分かち合えても富を分け合うことはできない。 しょせんイングランドとオランダは「偽りの友人」でしかなかった。

本国では「偽りの友人」同士が多少のことには目をつむり、首尾よくやって2国が共に豊かになるシナリオを探っていたが、金のなる木を目の前にして興奮状態にある現地の人間たちが、穏便な話に耳を傾けることはなく、抗争は激化する一方であった。 そんな中、1619年、突然、本国同士が協定を結んでしまう。 この背景にはオランダが八十年戦争の合間にポルトガル、スペインと結んだ12年間の停戦協定が満期になることがあった。 スペインらが再び侵攻してくるかもしれず、オランダとしては何としてでもイングランドと良好な関係を保っておく必要があった。 国は結局、損得だけで離れ、そしてくっつく。

この協定によって香料諸島においては一番乗りしたオランダが全体の収穫量の3分の2、イングランドが3分の1と分け前が決められた。 また、今後新たに獲得した島に関しては折半とされた。 ポルトガルを放逐して独占を謳歌していたオランダ側にしてみれば、あとからノコノコやってきて、まんまと3分の1をせしめる「馬バエ」は実に疎ましい存在でしかない。 オランダ東インド会社側はこの本国の決定を無視。 英蘭両国、出先機関の関係は泥沼と化していく。

17世紀始めには英蘭両国はカトリックのスペイン・ポルトガル勢力に対して協力関係にあったが、オランダ東インド会社の実力がイギリス東インド会社を上回り、1623年のアンボイナ事件を契機に、イングランドは東南アジアや東sジアから撤退せざるを得なくなった。 香料貿易を独占したオランダにはアジアの富が流入し、イングランドでは反オランダ感情が高まった。

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 =資料= 八十年戦争は、1568年から1648年にかけて(1609年から1621年までの12年間の休戦を挟む)ネーデルラント諸州がスペインに対して反乱を起こした戦争。 これをきっかけに後のオランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれることもある。 この反乱の結果として、ネーデルラント17州の北部7州はネーデルラント連邦共和国として独立することになった。 北部7州は、1581年にスペイン国王フェリペ2世の統治権を否認し、1648年のヴェストファーレン条約によって独立を承認された。

15世紀にネーデルラント(現在のベネルクス)はブルゴーニュ公国の一部となる。 この頃のネーデルラントは毛織物生産により経済的先進地となり、ヘント(ガン)、アントウェルペンなどの富裕な都市を生みだしている。 しかし1477年にブルゴーニュのシャルル豪胆公が戦死すると、一人娘のマリー女公は後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚し、ネーデルラント地域はハプスブルク家の所領となった。 神聖ローマ皇帝カール5世は、ネーデルラント17州すべての主権者として専制政治を行い、カール5世退位後ハプスブルク領がオーストリア系とスペイン系に分かれると、ネーデルラントはスペインの支配下に入った。

カール5世の統治時代、ネーデルラント17州は徐々に経済的自由を失っていった。 さらに、17州にはプロテスタントが伝わり普及していったために、異端審問が行われるようになった。 スペイン国王の使者による暴力と権力の乱用は、迫害されたプロテスタント教徒だけでなく、カトリック教徒との間にも“緊張状態”を生み出していった。 ネーデルラントではプロテスタントのカルヴァン派などが広まっていたが、カトリックのスペイン王フェリペ2世は厳しい異端審問を実施してプロテスタントを弾圧した。 このためネーデルラント諸州は1568年、有力貴族オラニエウィレム1世(1533年 – 1584年)を先頭に、スペインに対する反乱を起こした。
1600年頃までに北部7州はネーデルラント連邦共和国として実質的に独立を果たした。 共和国が成立してもスペインとの戦争は終わらなかった。 ネーデルラント連邦共和国は1602年、連合東インド会社(オランダ東インド会社)を設立してアジアに進出し、ポルトガル(1580年からスペインと同君連合)とのオランダ・ポルトガル戦争(1602年- 1663年)で香辛料貿易を奪取して、世界の海に覇を唱えた。 このため貿易の富がアムステルダムに流入して、17世紀の共和国は黄金時代を迎えることとなる。 1609年にはスペインとの12年停戦協定が結ばれた。

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===== 続く =====

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